いつか優しい思い出に
まだ二月だと言うのに、まるで季節が勘違いして春になってしまったかのような暖かい土曜日の午後、ぱちん、ぱちん、と、鮮やかな音色が盤の上で奏でられている。
久方ぶりの、碁会所での君との対局だ。
あの北斗杯以来、ぼくたちの周辺はにわかに賑やかになり、仕事量はいっきに倍増した。
棋院としても、若手のぼくたちをアピールして若年層開拓のきっかけにしたいのだろう。
その甲斐あってか、囲碁を始める若い人が増えたよと、つい最近も事務局の人に声をかけられたばかりだ。そうですかと笑顔を崩さずに答えたぼくだったが、ならばもう少し、この過密スケジュールをどうにかしてくれと言いたいところだった。
ぼくたち三人は、二年連続で北斗杯出場を果たし、今年もこの三人で決まりだろうなどと周りは無責任なことばかり言うが、こう地方講演や地方対局などで出張ばかりが続けば、精神的にもかなりきついし、体調管理ひとつとってもかなり大変だ。棋士がメンタルな仕事だということを、果たして棋院側は理解しているのか。
「もうカンベンして欲しいで。人こき使うのも大概にせえやって感じや」
言っていたのは、この前泊まりの仕事で一緒になった社だ。彼とは最近、北斗杯以外でも仕事で一緒になることが増えた。
「まったくだな」
そう二人で苦笑しあった。
「もう気力だけでやってるようなもんやな。イケメンの若手はつらいで」
大げさに肩をすくめてみせる彼にクスクス笑っていると、彼はまた少し伸びた身長を軽くまげて顔を寄せてきた。まるで人には聞かれたくない話でもするみたいに。
「…進藤はどないしとる?」
「彼は相変わらずだよ」
「そうか、そやったらええねんけどな、去年の北斗杯、あいつ高永夏と対戦できんで、えらい落ち込んどったからな、無理しとるんちゃうか思て気になっとってん」
「進藤とは会ってないのか?」
「いや、たま~に仕事で一緒になる時もあるねんけどな、お互い忙しいてあんまり喋る時間も無いしな」
それにこんなこと、恥ずかしいて本人に聞けんやろ、と頭を掻いた。
社は見た目の派手さからは想像もできない(ごめん)ほど、繊細で気配りの利く男だ。去年の北斗杯のことがずっと気になっていたのか。
第二回目になる去年の大会、対韓国戦の大将はぼくだった。公正な決定だったはずだ。ぼくだって高永夏と戦ってみたかったし、進藤は当然のようにそれを希望した。だから対局で決めたんだ、倉田さんの前で。結果は、ぼくの半目勝ちだった。
しばらくの間、黙って盤面を見つめていた進藤だったが、やがてため息をひとつ吐くと、
「仕方ねえな、今回はおまえに譲ってやるよ」
ただし、とぼくに人差し指を突きつけて言った。
「無様な結果はユルサナイ!」
そして、笑った。彼らしくない、少し、悲しそうな顔で。
なにが彼をそうさせるのか、ぼくには理解できない。たぶん進藤もそんなことを望んではいない。けれど、この時の進藤の顔を思い出す度、ぼくは思い知らされるのだ。ぼくは進藤のことを、何一つ知りはしないのだと…
社も、きっとそんな進藤の様子になにかを感じて、彼なりに心配していたのだろう。
優しい男だ。
「塔矢が傍に居るねんから、心配いらんとは思うけどな」
「それは、信頼されているということなのかな」
「まあ、そういうことにしといてくれや」
同じ顔ぶれでの二度の北斗杯出場、一度目から恒例のようになったぼくの家での合宿、それらはぼくたちの間に一種の連帯感を生み出していた。
ほな、そろそろ仕事するわ
そう言って軽く手を上げると、彼は会場の人ごみの中に紛れていった。
それが一週間前のことだ。
暖かな碁会所のいつものテーブルで、ぼくたちは向かい合う。
忙しく、かみ合わないスケジュールのために、もう二ヶ月近く君とは打てなかった。
社に言われて気になっていたこともあるだろうが、何よりもたぶん、ぼく自身楽しみにしていたのだろう。約束の一時間も前に来て、君を待っていたのだから。
「よっ!久しぶり!」
たっぷり三十分も遅刻をしてきて、悪びれもせずにそう言って椅子に掛けるきみに嫌味のひとつも言いたいところを、ここで喧嘩してしまってはとぐっと我慢していたのに。
それなのにきみは。
「ふざけるな!!!」
ぼくの怒鳴り声が、一瞬にして碁会所に静寂をもたらした。
「へっ? 何?」
当の本人は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてぼくを見た。ぼくの声に金縛りにあっていた周りの客たちは進藤の声をきっかけに、緊張した面持ちのまま再び碁を打ち出す。
「せっかく久しぶりに打っていると言うのに、そんなにぼくと打つのはつまらないのか!」
進藤は大きな目をさらに大きく見開くと、きょとんとした表情を浮かべる。周りの客たちの手はなぜかまた止まっていた。きっと耳は「ダンボ」になっているに違いない。
「おまえ、何言ってんの?もしかして喧嘩売ってる?」
「喧嘩を売ってるのは君のほうだろう!さっきからずっと!いや、来た時からずっとため息ばかり吐いているじゃないか!!」
「へっ?そうだっけ?」
盤を挟んでまた喧嘩が始まるのかと、固唾を飲んで緊張していた碁会所の客たちは、次の瞬間、一気に毒気を抜かれたようだった。
「…あー、悪ぃ、そうかもしんねえ…」
ありえない事に、進藤が自らの非を認めたのだ。
毒気を抜かれたのはぼくも同じだった。
「…どうしたんだ進藤?」
ついさっき、拳を握り締めて怒鳴っていたことも忘れて、思わず進藤の顔をまじまじと見つめていた。
傍若無人(アキラ視点)な彼らしくない。何か悪いものでも食べたんじゃないだろうか。だから苦しくてため息を…などと余計な心配をし始めるぼくを全く無視して、進藤はぼんやりと窓の向こう側に目をやった。
進藤の金色の前髪が、陽の光を弾いて淡く輝いている。
「…今日は暖かくてさ、なんか…つい思い出しちまうんだ…」
窓の向こうを見ながら、まるで独り言のように彼はポツリと呟いた。
「…何を?」
横を向いたまま、進藤は少し笑った。口元だけ。目は髪に隠れて見えなかった。けれどぼくにはわかってしまった。進藤がまた少しだけ悲しそうに、笑っているのだと。
あの時と同じように…。
「なあ、おまえは大切なもの、亡くした事、ある?」
唐突に進藤が聞いた。ぼくの方を見もせずに。
「それは物? それとも誰かのこと?」
進藤は答えない。ずっと窓の外を見ている。拒絶という名の見えない壁が、そこには確かに存在していた。
進藤にはあるのだろうか?大切なものを、無くしたことが…。
ぼくは一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を選んだ。
きっと進藤にとって、それは何よりも大切なことなのだろう。
「ぼくには今のところ、そんな経験は無いけど、でも…」
「…でも?何?」
先を促すように、進藤は言った。こっちを見ずに。何かに怯えるように。
「でも…、決して無くしたくない人なら、いるよ」
進藤は黙って聞いている。ぼくは続けた。
「その人を無くしてしまうことなんて、今のぼくには想像すら怖くてできないかな?」
ぼくも進藤が見ている窓の外に目をやる。雑然としている街並みは、それでも午後の光に包まれて、穏やかに黄色みを帯びた色彩に染まりながら佇んでいる。何かに追われるように道行く人の影さえ、その景色の中の一部だ。そこにあるすべてが大きなパズルのピースであるかのような錯覚を覚える。一つでも欠ければ成り立たない世界という錯覚。
自分という形を造っているパズル、心という名の複雑怪奇なパズルのひとつを失う。大切な何かを失って。それは簡単に壊れる?
進藤は、壊れている?
いいや、とぼくは思う。
進藤は壊れてなどいない。まっすぐ前を向いて歩いている。時々振り返っては立ち止まって、でも、この道の先をしっかりと見据えている。
ぼくは心の中で願う。
共に…と。
「…だから、何処にも行かないで欲しいんだけど…」
外を見ながら、ぼくは呟くように言ってみる。進藤がゆっくりとぼくの方に顔を向けるのが気配でわかる。拒絶という名の壁が崩れ始めるのを感じる。自然とぼくの口元には笑みが零れた。きっとぼくは幸せそうな顔をしていることだろう。でも進藤には見せてやらない。髪で隠してね。
同じ望みを抱いて共に歩んでゆける人が存在するという喜び。それはこの上もないことだと、君は知ってる?
ずっと一人だったぼくの世界に、鮮やかな光を投げかけたのが君だと、君は知ってる?
ぼくが君を必要とし、君がぼくを必要としている限り、きっとぼくたちは大丈夫だよ。
たとえ隣のビルが壊されて景色が変わったとしても、ぼくたちはやがて慣れてゆくだろう。
どんなにつらい思い出も、いつかきっと優しい思い出になる日が来ると、今は信じていよう?
「…おまえは…俺より先に死んだりしない?」
まだ少し悲しそうな笑みを浮かべたまま、それでも瞳には真剣な色を浮かべて、進藤は言った。
「死なないよ。君より先に死んだら、なんだか君に負けたような気がするだろう?」
それを聞いた途端、一瞬真顔になって、息を止めて、そして次の瞬間、堰を切ったように笑い出した。
「アハハ…な…何それ!…ハハ…お…おまえらしー!!!」
何がおかしいのか、涙を零しながらいつまでも笑う進藤を見ているうちに、ぼくもつられて可笑しくなってきた。
「フフ…アハハハ…」
いつもは怒鳴りあって喧嘩している碁盤の前で、今は二人して笑い合っている。
常連のお客さんたちが、珍しいものでも見ているような顔をしてこちらを見ていても、気にしない。市河さんさえ驚いた顔をしてこっちを見ている。そう言えば、こんな風に人前で大笑いしたことなんて、ちょっと記憶に無いな。
そう考えて、余計可笑しくなってくる。
アハハハ…アハハハ…
まるで小さな子供みたいに、ぼくたちは、いつまでも、笑い合っていた。
こうして
二人で打ち合っていけたらいいね。
時には喧嘩したり、時には笑い合ったりしながら、ずっと。
恋ならいつか、冷めてしまうこともあるだろう。
友達のように、馴れ合いたい訳でも無い。
君とは、ライバルだから、
共に目指すものを同じくするライバルだからこそ、ずっと同じ気持ちでいられる気がする。
進藤…
君の抱えているものすべてを、ぼくが理解できるわけが無いことぐらい、わかっているよ。
でも、これだけは知っていて。
ぼくはきっと、いや、ずっと。
君と、共に、いるよ。
つらい思い出が、優しい思い出にいつか変わるように…。
2004年2月23日 了
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すいません、何の意味もありません。風呂入って、思いついて、そのまま一気に書き上げた代物です。
なんとなく塔矢くんがヒカルに対してどんな風に思っているのか、というようなことを竹流の妄想のままに書いてしまいました。
最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございました。
14/12/17再UP
-竹流-
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