痴話げんか




まだ真冬だと言うのに、穏やかな日差しが春を思わせる暖かな午後。
ぱちり、ぱちりと心地良い音を響かせながら、アキラとヒカルは盤を挟んで向かい合っていた。
いつもの碁会所で、いつもの席で、いつものように二人は十九路の迷宮を探りあう。
盤上で熾烈な戦いを繰り広げながら、けれどそれは、まるで神聖な儀式のように静かに張り詰めた空気の中、白と黒の石が美しい軌跡を描いてゆく。
二人にとって、それはとても幸福なひとときだった。

「ちぇっ、おれの一目半負けかぁ」
唇を尖らせながら、ヒカルは溜息混じりに呟いた。
「いけると思ったんだけどなあ」
じゃらじゃらと石を崩して碁笥に戻しながらも、まだ悔しそうだ。
「検討しようか?」
石を片付け終わってアキラが顔を上げると、ヒカルは珍しく首を横に振った。
「いや、いいや。ちょっと休憩しようぜ」
時計を見ると、打ち始めてから四時間が経っていた。
「もう、こんな時間か」
そう口に出すと、アキラは急に喉に渇きを覚えた。考えてみると、今まで集中していたせいで気が付かなかったが、対局中、一度も水分を摂取していない。
例年より暖かいとは言え、冬なのだ。空調は部屋を暖めるべく、乾いた温風を吹き出し続けている。
思い出したように、市河が入れてくれていたお茶に口を付けると、すっかり冷めて冷たくなっていた。
前を見ると、ヒカルも同じなのか、持って来ていたコーラの缶を口にしながら妙な顔をしている。きっとぬるくなってしまっているのだ。

こんな時、つくづく思ってしまう。
なんて自分たちは似たもの同士なのだろうと。
性格は全く違うし、ましてや外見や好みなど、対極にあると言ってもいいほどに正反対なのに、ヒカルとアキラの魂の中心にあるものは同じ。
そう感じることが度々ある。
アキラはヒカルに気付かれないように、くすりと小さく笑みを浮かべた。
ヒカルに出逢うまでの、焦りにも似た孤独感。出逢ってからの、悲喜こもごもは言うまでもないけれど、今、こうして共に同じ高みを目指して打ち合ってゆけるようになってからと言うもの、アキラの胸の内はいつも明るい希望で満たされている。
神に感謝を捧げたいと思う瞬間は、大勝負に勝利をおさめた時では無く、いつもこんなささやかな幸福を感じるときばかりなのは何故だろう?

不思議な穏やかさに満たされながら、もう一口、冷えたお茶を口に含んだときだった。
ヒカルが、何の前触れも無く、唐突に言ったのだ。
「なあ、塔矢。おれとさぁ、おまえがいつか結婚してだなぁ」

ぶふー!!!!!

ものの見事に、アキラは飲みかけていたお茶を噴き出した。傾けた湯飲みの中にそのまま噴出したため飛沫はアキラに跳ね返って、その整った顔を濡らした。
…お茶も滴るイイ男。塔矢アキラ、十八歳。
しかし、アキラは冷静だった。いや、懸命に冷静さを取り繕っていた。
何か変な事を聞いた気がしたが、考えないように頭から締め出した。
おもむろにハンカチを取り出すと、何も言わずにただ静かに雫を拭った。
タオルも借りたいと考えたのか、それとも何かの助けを求めようとしたのか、振り返ってカウンターを見たアキラだったが、こんなときに限って、運悪く市河は席を外している。
とその時、妙に周りが静かなことにようやくアキラは気が付いた。いつもは煩すぎるほどに煩いヒカルの声が聞こえない。不審に思ってテーブルの向こうに目をやると、ヒカルがあっけに取られた顔をしてアキラを見ていた。だらしなく、口はぽかーんと開かれている。
かなりのアホ面を晒しているのだが、本人はそのことに気付いているのだろうか。いや、それはヒカルだけではない。周りの常連客たちまでもが、こちらを向いたまま、やはり口を開けた状態で固まっていた。
有名な海外の某アニメーション会社のアニメには、驚いたりあっけに取られる様子を、大きく口を開けるという表現方法で描かれていることがよくあるが、本当にそうなのだなと、アキラは妙に得心が入った気がした。
突然、アキラが見ている前でヒカルの頬がぶるぶると震えだした。と思った瞬間、

「き、きったねー! ぶははははははは!」

壊れた玩具のようにヒカルが笑い始めた。
ヒカルの笑い声に、どうやら他の客たちも我に返ったらしく、まるで見てはいけないものを見てしまったような気まずい雰囲気を纏ったまま、それぞれのテーブルで再び碁を打ち始めた。

「お…おまえ、おれを笑い殺すつもりかよ…」
笑いながら、ヒカルが苦しげにそう呟く。
二枚目のハンカチで丁寧に顔を拭きながら、アキラは酷く理不尽な気分を味わっていた。
と同時にフツフツと身体の中に怒りが湧き上がるのを感じる。
元はと言えば、ヒカルが変なことを言い出したからアキラがこんな目に会ったのだ。
「あ~、おもしれえ。お茶噴き塔矢。うぷぷ。明日、和谷にでも教えてやろっとv」
涙を拭いながらヒカルがそう言ったとき、アキラの怒りは沸点を越えた。

「ふ…」
「ふ?」
「ふざけるな!!」

ざわざわし始めていた碁会所の中が、再び静まり返った。
いい年をした常連客のおやじたちは、碁石を持ったまま、ピキーンと凍り付いている。
『また、始まった』『触らぬ神に祟りなしだ』『よし、進藤が帰るほうに賭けるぞ』
それぞれ、頭の中で考えていることは違うが、全神経が耳に集まっているのは皆同じ。いわゆる、耳ダンボ状態である。
「なにが?」
周りの緊迫した空気など何処吹く風とでも言うように、当のヒカルは慣れたもので、もう屁とも思ってないらしく、平然としている。

-くっ、なんか悔しい!

ちなみに、アキラは変な所でも負けず嫌いだ。すでにここが碁会所だということも、周りに(凍りついた)客たちがいることも、頭の中には無いのだろう。思わず、大声で怒鳴っていた。
「きみが変なことを言い出すからだろう!」
『若先生、怒ってるよ』『お茶吹かされてたもんなぁ』
「へっ? おれ、なんか変なこと言ったっけ?」

『絶対おまえだ! おまえがなんか言ったんだって!』

おやじたちの心の突っ込みなど知る由もないヒカルは、全く身に覚えが無いとでも言うように、両手を広げて肩を竦めて見せる。
そんなすっとぼけたヒカルの態度は、余計アキラの感に障った。
「だから!きみとぼくが!いつか…その…結婚するとか…どうとか…」
怒りに任せて言ったはいいが、情けないことにだんだんアキラの声は小さくなって、最後の方には俯いてごにょごにょとはっきりしない。
耳の悪いおやじたちは、つい、身体をそちらに傾けてしまっていた。さりげなさを装いながら、ちらりとアキラのほうを見る。このさりげなさを装うというところが、おやじのテクニックの見せ所だ。と、おやじたちは思っているのだが、傍から見ていると、もうバレバレである。きっと相手がアキラとヒカルの「囲碁以外のことにはニブチンな」二人だから、今までバレないで来たのだろう。
そのおやじたちの目に、なぜだか顔が耳まで赤くなっているアキラが映った。俯いてモジモジしているその様子は、怒りのせいではないらしいことにおやじたちは首を傾げる。

『何だ? どうなってるのかよくわからないぞ?』
全身が耳になる勢いで、おやじたちは全神経を集中した。もし、この集中力が囲碁に発揮されればきっともっと強くなれるだろうことを、悲しいかなおやじたちは気付いていない。

ヒカルはといえば、初めはアキラが何を言っているのかさっぱり分からなかったらしく、不思議そうな顔でアキラを見ていたが、アキラの顔が見る間に赤くなって行くのを見て、どうやら、理解したらしい。

…進藤? ああ、もう大爆笑だったよ…(アキラ後日談)

まさしく、さっきの笑いなんて比べ物にならないほどに、ヒカルは笑い転げたのだ。
その前で、ブラックホールと化したかのようなオーラを漂わせながら座る、塔矢アキラ。
異様な雰囲気を漂わせ始めたアキラに、おやじたちは思わず居住まいを正して、そ知らぬ顔を懸命に作った。怖くてそっちを見ることもできない。

『笑うな! 進藤! 笑うなって! 若先生が怖いだろうが!』

おやじたちの願いも空しく、これだけ笑ったらマジで死ぬんじゃないかと思われるほどに、息も絶え絶えにヒカルは笑い続けた。苦しい、苦しいと言いながら涙を流して、それでもたっぷり十分以上は笑っていたのではないだろうか。
「と…塔矢、おまえ…かんちが…ぷー!あははは!」

-まだ、笑うのか。本当に笑い死にしそうだな。

ヒカルが笑い転げるのを見ているうちに、逆に落ち着きを取り戻したアキラは、どうも自分がとんでもない勘違いをしていたらしいと冷静に考えられるようにはなっていた。
でも、とアキラは思う。

-進藤、笑い過ぎだから(怒)。

ようやく落ち着いたヒカルは、アキラの目の前で肩で息をしながら涙を拭いている。
今の様子だけを見ると、まるでヒカルがアキラに泣かされているかのようだ。
憮然とした表情でアキラが見ていると、ヒカルが不意に顔を上げた。
「あ~、おまえと付き合ってっと、すっげー楽しいからやめらんねえわ」
「そう…それはよかったね」
冷たい視線を送るアキラに、笑って悪かったと、笑いながらヒカルは謝る。
絶対、悪かったなんて小指の先ほども思ってないに違いない。

『進藤! 誠意が足らんぞ! 土下座だぁ! 土下座しろぉ!』
おやじたちの勝手な心の叫びは、当然のようにヒカルに届くわけもない。
『かわいそうな若先生…』
盗み聞きしているという立場のおやじたちは、涙を飲んで、黙って耐えるしかなかった。

「だぁからぁ、さっきの話はこうだって。おれも、おまえもいつか誰かと結婚するだろ?」
ヒカルがさっきの話の続きをするべく、説明をしていた。
「うん、たぶん」
なんだか唐突な話だと思ったが、いつものことなので取り合えずアキラは素直に頷いた。
「そしたらさ、子供、できるじゃん?」
ビミョウな質問来た! とアキラは思ったが、当のヒカルは平然としているので、アキラとしても普通に答えるしかあるまい。変に意識したらヒカルのことだ、後で絶対にからかいの種にされるのは必然だろう。
「う、うん。そ、そうだね」
なるべく普通に答えているつもりだが、少し頬が熱い。アキラはとっても健全な青少年だった。
しかし、ヒカルは一体何を考えてこんな話をするのだろう。鈍いというのか、そういうことに疎いというのか、青少年にはちょっと答え辛い質問を、こんなところでするな! 
などと、今どきの青少年には珍しい、天然記念物並みのウブさ加減を脳内で爆裂させているアキラを置いて、ヒカルの話はまだ続いている。
「で、そこでだなぁ、おれたちの子供のどっちかが男でどっちかが女だったらさ、結婚させて、おれたち、親戚にならねえ?」

ヒカルがそう言った途端、外野がガタガタと何やら騒がしくなった。
少し離れたところで、やたらとアキラ贔屓の常連客、北島がこけているのが目に入る。

-いい歳して、あぶないなぁ。なんかぴくぴくしてるし。大丈夫か? 北島さん。あっ、起き上がった。なんだ、元気じゃん。
などとヒカルは非常に暢気だ。

「は?」
一方、アキラは何を言われたのかよく分からないといった表情を浮かべたまま、固まっている。
「んでさ、おれ的にはおまえン家の娘を、おれの息子の嫁に欲しいわけよ」
「はあああ?」
今のヒカルの一言ですべてを理解したらしい頭脳明晰なアキラは、思いっきり顔を顰めてテーブルに身を乗り出した。

『そうそう、若先生、今頃から何バカなことを言ってるんだ! とかなんとか言ってやってくださいよ!』

おやじたちはドキドキしながらアキラの言葉を待った。
だが、
「どうしてぼくの娘を君の息子にやらなきゃならないんだ!」
さすが塔矢アキラ、まだ居もしない娘のために怒り出した。
『あれ? なんかちょっと、論点が…あれ?』
予想とは違うアキラの言葉に、おやじたちは戸惑い始める。
「だってェ、おまえ似の綺麗な嫁が欲しいじゃん!」
しかも、ヒカルは相変わらずマイペースに変な話を展開している。
『な、なんてわがままなんだ! 進藤!』
ヒカルの大胆発言にあせるが、一方で若先生似のお嬢さんなら見てみたいと思ってしまう、ちょっぴりすけべなおやじたち。
「何言ってるんだ! それならぼくだって、君に似たかわいい娘をぼくの息子の嫁に欲しいに決まってるだろう!」
アキラ、爆弾発言!

『ええええ? 若先生? ええええええ?!』
若先生がご乱心だ! と思いつつも進藤似の娘、という点にまたもや心惹かれるおやじ達。
「何言ってんだよ! おれが先に言ったんだぞ! おまえントコが娘!」
「勝手なこと言ってるのは君だろう! 君のところが娘かも知れないじゃないか!」
『ええ? えええええええ~~~???』
本当の問題はそんなところにあるのでは無いと思うのだが、アキラの娘なのか進藤の娘なのか、どちらが嫁になるんだ! などとピントのずれたところで葛藤渦巻くおやじたちの頭の中は、完全にパニック状態だ。
やばい、このままではおやじたちがやばい! すでに何人かは頭から煙が出そうだ! 

『だれか、だれかこの状態をなんとかしてくれ!』

おやじたちの心の叫びが届いたのか、そのとき、ひとりの救世主が立ち上がった。
アキラとヒカルがまるで平行線状態で言い合っていると、使いから戻ってきていた市河がコーヒーを持ってやってきたのだ。二人の非常に無駄な言い争いが、ぴたりと止まる。
おやじたちの救世主、この碁会所自慢の美人受付嬢は今も健在だ!

『ありがとう! 市河嬢!』

今、おやじたちの目には、市河はマリア様のように神々しく映っているに違いない。
「はいはい、痴話げんかはそこまでねv」
テーブルに暖かい湯気の立つカップを置きながら、市河は言った。
二人してキョトンとしていると、
「もう、君似のかわいい嫁が欲しいだの、塔矢似の綺麗な嫁が欲しいだのって、痴話げんか以外の何者でもないわよ」
まったく、嫁入り前のわたしの前で、そんな未来の話しないでよね。
そう言って軽くウインクを寄越すと、またカウンターに戻って行った。
アキラとヒカルは互いに顔を見合わせると、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
市河の言うとおりだったからだ。

「………打とうか………」
「………そうだな………」
そして、また、二人で打ち始める。
ぱちり、ぱちりと盤上に打ち込む石の音が静かに聞こえ始めると、ついさっきまでの感情的な気分は消え去り、穏やかな空気が二人の間を流れ出す。
ぽつりとアキラがつぶやくように言った。

「…いいかも知れないな。ぼくたちの孫が庭で遊んでいるのを見ながら、縁側で一局打つのも…」
「だろ?で、その縁側っておまえン家な! あそこ陽あたり良くって気持ち良いから、おれ好きなんだよな~v」
「そうだね」
顔を上げもせず、盤上に石を打ち込みながら、二人は密やかに笑い合う。

「でも、きみは随分と先のことを考えるのが好きだよね」
ぱちり。
「へ? なんで?」
ぱちり。
「この間のぼくの誕生日の時にも、還暦に花火とか言っていたじゃないか」
ぱちり。
「ああ、おれ、年取ってからのこと考えんの、好きなんだよなぁ」
ぱちり。
「…なんか、変わってるね」
ぱちり。
「おまえに言われたくないけどさ」
ぱちり。
「いつものことだけど、何気に失礼だな、きみは」
ぱちり。
「へへ、いいじゃん。おれさ、うんと長生きして、桑原のじーさんみたいにいつまでも現役バリバリでいるのが夢なんだよ」
ぱちり。
「へえ………まあ、妖怪になりたいわけじゃ、ないんだよね?」
ぱちり。
「あはは! おまえ、実は桑原のじーさんのことそんな風に思ってんだな? 告げ口してやろうっとv」
ぱちり。
「いや! それは!」
ばちり!
「はは、冗談だって。まあ、あのじーさん、それっぽいもんな。でも…」

ヒカルが突然言葉を切ったので、どうしたのだろうとアキラが顔を上げると、ヒカルの顔がすぐ間近にあった。立ち上がって身を乗り出しているのだ。驚いたけれど、大きな琥珀色の瞳が、長い睫に縁取られているのがとても印象的に見えて、視線を外せなかった。
「やっぱ、綺麗だよなぁ、おまえ。うん、絶対おまえの娘はおれの息子がもらうからv」
「…きみも大概しつこいな。ぼくとしてはやっぱり君の娘を…ってほうがいいけどね。でも、もしぼくがずっと独身だったりしたらどうする気だ?」
「え~? おまえに限ってそれは無いって。女が放っとかねーから」
どすんと音を立てて椅子に戻ったヒカルは、ヒラヒラと手を振りながらそう言って笑った。
それを見ながら、ずっと独身で居て、ヒカルに似た彼の娘を自分の嫁にするって手もあるな。
などとアキラが想ったのは内緒の話。


アキラとヒカルは知らないが、その日から碁会所では妙な派閥争いが頻発していた。
曰く、『進藤の倅なんぞに、若先生の娘をやってたまるか! 進藤の娘が嫁に来い!』という主に北島派と、『若先生のお嬢さんならぜひ見てみたい』派、そして『どちらの娘でもかなりのレベルが期待されるので、どっちでもいい』派。
二人がそんな話をしていたことなどすっかり忘れてしまっていることも知らずに、この三つ巴の派閥争いは、かなり長い間続いていた。
面白いことに、この派閥争いには、おやじたちの棋力が若干上がるという副産物が付いてきた。人間、いくつになっても「負けられない」と思うことは、成長の原動力であるのかもしれない。

「ライバル…か」

その意味するところの大きさを、身を持って実感したおやじたちだったが…
ライバルって、親戚になりたがったりしないよなぁ普通は。
なんて。
思っていても怖くて口にはできないおやじたちだった。


2月13日         了
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ギャグを目指してみましたが、ものの見事に撃沈!
ううむ、ギャグの道は険しく、奥が深いのう。
また、リベンジあるのみです。

15/01/29再UP
-竹流-


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