一局打ち終わって、一息ついていた。
塔矢はお茶を入れに席を立っている。
おれは今、一人で塔矢邸の縁側で碁盤を前にして座っている。
暖かな春の日差しが心地良く、開け放たれたこの場所は祝福に満ちているかのようだ。
すぐ目の前では、庭の桜の木が大きく枝を広げて、見事なまでの薄桃色の花を薄霞のように咲かせているのが、おれの視界いっぱいに広がっていた。
花びらを舞い散らせ、枝花の間からは柔らかな日差しが降り注ぐ、まるで、この世のものではないような美しさ。
けれど、そんな桜の美しさは、おれを少し、切なくさせるんだ…





さくら





碁盤の上にひとひら、桜の花びらが舞い降りてきた。
春休みも終わりに近づいた暖かな日、窓を開けたまま碁を打っているときにそれはやってきたのだ。

「この花びらは、なんですか? ヒカル?」
不思議そうな顔をして覗き込む佐為に、おれは素っ頓狂な声を上げていた。
「ええ?! おまえ、桜、知らねえの?」
「さくら… 桜の花びらなのですか? これは?」
言いながら、首を傾げる。なにこいつ、桜も知らねえの? んな、びらびらしたカッコしてるくせに。あっ、もしかして、おれが何にも知らないと思ってからかってんのか?
「そうだよ! なに疑うような言い方してんだよ!」
ちょっとむっとしたように言い返すと、あいつは口元を袖で隠しながら、ちらりとおれの顔を見た。
「…だって、わたしの知っているものとは、少し違うような気がしたものですから…」
「違うも何も桜! それしか無えよ!」
おれは佐為を納得させるべく、立ち上がった。
「行くぞ!」
「えっ! 何処へ行くんですかヒカル! まだ対局の途中ですよ!」
「桜! 観に行くぞ!」
「ええ?!」
今度は佐為が素っ頓狂な声を上げるのを背中で聞きつつ、自然にニヤつく口元をこらえるのに苦労しながらおれは玄関に向かった。
もし、佐為が本当に知らないのなら、見せてやりたいと心から思っていた。
こんなにも美しい景色が現代にもあるのだと、驚かせてやりたかった。
佐為は、一体どんな顔をして喜ぶだろう? 
そう考えるだけで、なんだか胸がどきどきするような気がした。

靴を履くと、玄関から飛び出すように駆け出していた。少し離れた所の公園にちょっとした桜並木がある。それを早く佐為に見せてやりたい。
「ヒカル、こんなに急いでどうするんです? わたし疲れました」
「ええ?! 幽霊なのに、おまえ疲れるのか??!」
「嘘ですよ、ヒカルがわたしを放って行こうとするから、言ってみただけです」
そう言って、なんでも知っているような顔をして、綺麗に笑った。
…やっぱ、おれのことバカにしてるだろ! くそ! 見ていろ、アレを見たら絶対びっくりするんだから!!!
おれは悔しいからなのか、喜ばせたいからなのかよく分からなくなりながら、それでも走ることを止めずについに公園への道程の最後の角を曲がった。ここから公園は眼と鼻の先。
霞むような桃色の桜並木は、もう見えている。
ああ、良かった。丁度、満開だ。
そう思った途端、おれの足は止まった。俯いて、膝に手を着いて、苦しげに息を吐く。幾筋もの汗が皮膚を滑って滴り落ちてゆくのを感じた。濡れて張り付いた衣服が酷く不快だ。
何やってんだ、おれ?
一キロほどの道程を、殆ど全力疾走してきたのだ。こうなるのはあたりまえだった。
「…日頃の運動不足が祟ってんなぁ。もう、誰かさんのせいで、囲碁ばっかやってっから」
おれが憎まれ口をたたきながら、手の甲で額の汗を拭っていると、すっと、佐為が目の前にやって来た。
ふと、見上げると、吸い付けられるように桜並木を見つめている。大きく眼を見開いたまま、瞬きもしないで…
「佐為…」
「ヒカル…行きましょう。わたし、もっと近くであれを見てみたいです」


「…とても…とても綺麗ですね、ヒカル…」
桜の下に立つと、佐為は感嘆の声を上げた。
春の日差しを柔らかく包むように、可憐な薄桃色の花が今が盛りと咲き誇っている。
優しく微笑みながら、佐為はじっとそれを見上げている。
「へへ~ん! どうだ綺麗だろう!」
おれは腰に手を当ててふんぞり返ってやった。ふふ、全力疾走した甲斐があったというものだ。
「さっきの花びらはこれですね? やっぱり、わたしの知っている桜とは少し違うみたいですねぇ」
「そうなの?」
「ええ…前に桜を見たのは虎次郎と一緒にいた頃でしたから。その後に生まれたものなのでしょうね…」
そう言って、どこか懐かしそうな顔をした。

風に煽られ、薄桃色の花びらが雪のように舞い落ちる。柔らかな日差しの中、まるで淡く霞んでゆく夢のように。
長い長い佐為の髪もまた、その中で緩やかに風に揺れている。
桜より淡く、桜より儚げに…
そこに確かにいるのに、この世に存在しない人は、木の幹に手を当て、桜を見上げながら微笑む。その表情がなんだか切なげに見えて、おれはわけも無く不安な気持ちになる。
「佐為?」
「時は流れているのですよねぇ、桜の木ですら昔とは違った姿をしているのに…」
…浅ましい自分は…変わることもできずに現世にしがみついている…
言葉にしない言葉が聞こえたような気がして、胸が苦しくなった。
初めて佐為の悲しみを、感じた。
いつも好奇心丸出しで、ばたばたと落ち着きが無くって煩くて、囲碁を打っているとき意外はまるで子供みたいで…だから、佐為が寂しいとか悲しいとか、考えたことも無かった。
でもあいつは、おれ以外の人間には見えないし、誰にも気付いてもらえない、大好きな囲碁の碁石すら持てない。
そんなの、悲しくないわけ、ないじゃん…
「佐為…」
おれの声にいつもの元気が無いことに気付いたのか、佐為はこっちに顔を向けると、飛び切り優しく微笑んでくれた。
それはとても綺麗で。はらはらと散る桜の花びらの中で、佐為は本当に綺麗で。
泣きそうになった。
このまま、消えてしまうんじゃないかと思った。
薄く煙る桃色の桜吹雪の中に、溶けていなくなってしまいそうな…
「…佐為、もう帰ろうぜ…」
少し声が震えた。
本当は抱き付いて、泣きたい気分だった。でも、触れられないじゃん。幽霊なんだもん。
おれはくるりと踵を返すと、佐為の返事も聞かずにすたすたと歩き出した。
佐為は何も言わずについて来てくれた。

佐為と出逢って、初めての春、おれが中学に入る頃の思い出…



後ろで畳を踏む音が聞こえて、おれは我に返った。
塔矢がお茶を持って、戻って来たらしい。
慌てて潤んでいた眼を擦った。
「どうしたんだ? あまり眼は擦らない方がいいぞ?」
湯飲みの乗った盆を置きながら、塔矢が言った。
「ん…、ごみでも入ったかな? なんか痒くって…」
ワザとらしい言い訳をしてみる。
「花粉症じゃないのか? 少し鼻も赤いみたいだ」
「えっ、そ、そう? そうかなあ?」
誤魔化すように顔を逸らしながら、おれは手を下ろした。
「やっぱり、泣いてたみたいに目が赤くなってる」
何も知らずに塔矢は、心配そうにしている。
悪い、塔矢、花粉とかそんなんじゃ無えんだよ。でも、『昔のこと思い出してしんみりしてました』なんて、死んでも言えね~っての。
「中に入って、窓閉めた方がいいかな?」
顎に手を当てて、真面目にそんなことまで言い出す塔矢に、ちょっと慌てる。
「い、いいって、このままで! せっかく桜観に来たのに!」
「でも…」
なおも言い募る塔矢に、きっぱりはっきり言い切ってやった。
「いいって! もう、痒くね~し! 大丈夫だって! こんなに気持ち良いんだからもったいねーだろ!」
塔矢は軽く溜息を吐いて、『本当に大丈夫なんだろうなビーム』とでも名付けたくなるような視線をこちらに寄越しながらも、それ以上何も言わないでくれた。
おれは塔矢が持ってきてくれた茶を啜りながら、桜を見上げる。
眩しそうに懐かしそうに…


あの時の不安は現実になってしまった。
今、おれの傍らにあいつはいない。
でも、最近やっと、これでいいのだと思えるようになった。
きっと、自然の摂理の中にあいつは戻れたのだ。桜の花が毎年咲くように、いつかまた、この世に生を受けて生まれ変わってくる時があるかも知れない。
そしたら、その時、もう一度巡り逢えばいい。
…きっと、また逢える。たとえそれがずっとずっと先の未来でも…
その時の桜は、今と同じ桜だろうか。それとも、また少し違う姿をしているのだろうか。

なあ、佐為。
おまえがどんな姿に変わっていたとしても、おれはきっとおまえを見つけられるよ。
そんな気がするんだ。
桜が桜であるように、やっぱりおまえはおまえに違いないと思うから…


「打とうか」
塔矢の声に、現実に引き戻される。
「ああ」
答えながら碁盤の上を見ると、桜の花びらが碁石の変わりに並んでいた。
「はは、見ろよ。桜が打ってるぜ」
おれが言うと、
「ホントだね」
塔矢も笑った。
お互いに笑いあって、なぜか涙が零れそうになった。



薄桃色の桜の花が咲くたび、おれは思い出すだろう
柔らかく微笑んだ、儚げなおまえを
終わってから気付いた、淡い初恋を

胸の奥の切なさを、甘く抱きしめながら…



4月15日   了
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久方ぶりの作文UPです。
何故か「ヒカル→佐為」なお話でした。
これは桜の木は自然に変化を繰り返しながら、人間と共存してきた、という話を聞いて作ったのですが。
元はといえば巷でヒットしているケツメイシの「あの曲」に触発されて書き上げたものなのです。
しかし、纏まらない上に、切なさも足りませんでした。う~ん。

15/03/03再UP
-竹流-



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