酩酊



何度目かのため息をつきながら、ワインボトルに手を伸ばした。
手にした深い緑色の壜の奥では、残り少なくなった真紅よりも深い紅を湛えた液体が、ひどく滑らかな動きでたゆたっている。思わず、グラスに注ごうとした手を止めて、少しの間ぼんやりと眺めていた。
壜の奥の液体は、外からでは黒にしか見えない。
けれど、そうではないのだ。
手にしたものにだけ味わえる芳醇が、そこには閉ざされ、隠されている。
滾るように深く、わたしを誘う。

ふと、彼のようだと思った。

出会いは、これ以上ないくらい最悪だったといえるだろう。
最初は、生意気な男だと思った。
その後、優柔不断な男だと思った。
どうしようもなくわたしを苛立たせ、追い詰めてくる彼を、あの頃のわたしは憎んでいるのだと感じていたが、今振り返ってみても、よくわからない。
苛立ちや、怒りの感情を彼に叩きつけることで、彼を傷つけ貶めることで、満足できるんじゃないかと考えていたのは確かだ。だが、なぜそんなことを考えたのか、未だにわたしは答えを出すことが出来ないでいる。
どう考えても、普通じゃない。
仕事上の相手と、なぜ、あんなことをしていたのか。

気がつけば、触れてしまった熱を、手放すことが出来なくなっていた。
何度も何度も、嫌がる彼を無理やり奪って。
そうしながら、ずっと、彼から拒絶されることを待っていた。
なのに、拒絶されることを恐れてもいた。
自分の感情がまるで理解できなくて、さらに苛立ちを募らせては彼にぶつけていた。
まるで、抜け出すことが出来ない悪循環のループ。
彼にしてみれば、地獄のように辛い日々だったはず。
なのに…

口元に苦笑が浮かぶのを、自分でも止められない。
手の中の壜を傾けると、不透明な赤い液体が薄いグラスの中を満たし始める。これが最後の杯だ。液体をすべて吐き出した壜の中は、空虚で満たされている。
いつかの、自分のように。

軽く杯を傾けると、一気にそれを飲み下した。
ワインは、こんな風に飲むものじゃない。そんなことは十分すぎるほどにわかっている。それでも、この苛立たしい想いを飲み下すことが出来ずに、気がつけば、あっという間に一本空けてしまっていた。
何をしているんだと、我ながら思う。
彼と出会ってからというもの、自分はずっとどうかしている。

告白してきたのは、確かに彼だったはず。
先に告白した方が負けだと言ったのは、いったい誰だったか。
まったく、彼が傍にいないというだけで、わたしはなにをしているのだろう。
いつもなら、ふたりでともに過ごしているはずの週末なのに、克哉の姿は今ここにはない。
それが、今夜の苛立ちの理由だ。



「あのう…御堂さん」

切り出しにくそうに克哉が言い出したのは、つい二日前のことだった。
外で夕食を摂って、わたしのマンションにふたりで帰って来た時の事だ。

「なんだ?」
悪い癖だとはわかっているのだが、わたしはいつものように眉間にしわを刻みながら、彼を見つめた。睨まれていると思ったのか、緊張した面持ちで彼の喉が軽く上下するのを、わたしは黙って眺めていた。

話の内容は、ごく単純なものでしかなかった。なんでも、大学の同窓会があるのだという。
ただそれが、今週末だという事実に、わたしの眉尻が上がるのを、克哉は申し訳無さそうになのか、恐ろしげになのか、よくわからない複雑な色を浮かべて見つめていた。
実際にはもっと早くからわかっていたのに、なかなかわたしに言い出せなかったらしい。
それが悪いとは言わないが、相変わらず、優柔不断な部分は否めない。
「同窓会ぐらい、行けばいいじゃないか。いくらわたしでも、そこまで文句を言うつもりはないぞ?」
「ええ、それは、そうなんですけど…」
「なんだ? 妙に歯切れが悪いな」
妙に落着かなさそうにしている様子は、あからさまに何かありますと教えているようなものだ。
「なにか、他にあるのか?」
苛立たしさを隠しもしないで告げた言葉に、彼の肩が、びくりと震えた。
「言ってみろ」
「あ…えと…」
克哉の目が不自然にわたしから逸らされるのを遮ろうと、両の手で頬を挟んで真正面から彼の顔を覗き込むと、驚いたように眼を見開いた彼の視線がわたしを捉え、わたしのそれと絡まりあう。
かあっと彼の頬が染まり、その体温の高まりさえ手のひらから伝わってくる気がした。

「何か、問題でもあるのか?」
できるだけ、平静を装って語りかけた。こんなときに感情的になっても、何も始まらない。以前と同じようなことをしてしまうだけだ。
これは彼と付き合うようになって、わたしが学んだことのひとつだろうか。
わたしは、決して彼を傷つけたいわけではないのだから。
「…御堂さん…」
ふいに、彼の唇が動いた。その瞳は、彼の感情の惑いを映すように揺れている。
「なんだ?」
「あの…怒らないで、聞いてくださいね?」
尋ねかけるように、語尾をわずかに上げながら、彼は言った。
それは、話せば明らかにわたしが怒るかもしれないということを想定しての言葉なのだろうが、なんとも間抜けな前置きだと思う。怒るかどうかは、話を聞いてみないことにはなんとも言えないではないか。
しかめた眉もそのままに、けれど話を聞くためにとりあえず頷くと、克哉は単純にホッとした表情を見せた。

「じつはおれ、少しの間大学でバレーやってたんですけど、今度の同窓会にはその時のメンバーが結構集まるんです。それで、会が終わってからみんなで本多のうちに集まって飲もうかって話しになっちゃって。あっ、ちなみに本多はバレー部のキャプテンだったんですよ」
また本多かっ! という言葉を飲み込んで、「それで?」と話の続きを促してみる。
克哉はわたしがなにも言わないのを、理解してくれていると踏んだのか、そのまま素直に話し続けた。
「おれは、途中で止めちゃったから知らなかったんですけど、その後バレー部内で色々あって、本多ってば、全部黙ってひとりで抱え込んでたみたいなんですよね。それで、おれとしては今回はいい機会かなって思って…」
「まさか、きみが本多の家に集まろうと言い出した張本人じゃないだろうな…」
確信にも近い想いで声を絞り出すと、目の前の克哉が申し訳無さそうな視線を寄越してきた。

なるほどな…

わたしは彼の頬を拘束していた両手を、ため息混じりに放すと、そのままソファーに深く座り込んだ。目の前では克哉が困ったような顔をして、立ち尽くしている。
「きみが言い出したのだから、抜けられない、というのだろう?」
「…はい。それに、本多をひとりにはできないし…。すごく、もめていたようなので、やっぱり心配で…」
「帰りが遅くなるというんだな?」
わたしの言葉に、ちょっとためらう素振りを見せると、彼は静かに言った。
「…一応、本多の家に泊まる事になっているんで…す」
言葉尻は、掠れて小さくしぼんでいた。

今、克哉はソファーの上に仰向けになって、わたしに組み敷かれている状態になっている。答えを最後まで聞かずに、腕を掴んでわたしが引き倒したからだ。
何が起こったのかを理解できていないのか、驚いて大きく見開かれた瞳は、まっすぐにわたしを見つめている。
怯えも、嫌悪も恐怖も映さない瞳は、ただわたしを捉えて。
そして、やがて優しげに、微笑んだ。

「本多の家に泊まるだと?!」
苛立たしげに声を荒げたわたしに向かって手を伸ばして。今度は克哉の手のひらが、わたしの頬をそっと包んだ。
「みんな、一緒ですから。何も心配しなくても大丈夫です。それに、本多はただの友達です」
「…誰が…心配など…」
頬が、かすかに熱くなるのが、自分でもわかった。
克哉は、わたしの下で、わたしだけを見つめて、わたしだけにその腕を伸ばしてくれる。
わたしだけを求めて、わたしだけに与えてくれる。
なのに胸の奥が、どうしようもなく苦しい気がした。

「大丈夫。ずっとおれは、御堂さんだけのものです」
克哉の腕に引き寄せられるまま、唇を重ねて。
ベッドに行くのももどかしく、そのままソファーの上で愛し合った。

どうしてだろう? 
こんなにも求め合って、与え合っているはずなのに、まだ足りない。
自分の中の欲望に、眩暈さえ、覚えそうだ。



そして今夜、克哉のいない部屋でひとりで過ごしているというわけだった。
今までなんとも思っていなかった部屋の広さが、彼がいないだけで、随分と寒々しいものに感じられて。長い時間、ずっと一人で過ごしてきた部屋だというのに、ほんの数ヶ月の彼との生活で、感覚ごと変わってしまった気さえしてしまう。
だがそれは、決して不快なものではないのだ。
考えれば考えるほど、不思議で仕方がない。
深く人と関わることが、昔からあまり得意な方ではなかった。表面だけはうまく付き合って、けれど決して、自分の中まで踏み込ませることはなかった。
なのになぜ、彼だけは違うのか。
なぜ、彼だったのか。
答えなどあるはずのない問いが、頭の中をぐるぐると回っている。

「少し、酔ったか…」
たった、ワインボトル一本で。

違う、と胸の奥で声がする。
酔っているのはワインにではなく、きっと…

苦笑交じりに無造作に髪を掻き揚げると、そろそろ休もうかと立ち上がった。時計を見上げると、針はすでに真夜中を軽くすぎている。普段なら、とっくに眠っている時間だ。
克哉は、まだ友人たちと飲んでいるのだろうか。それとも、酔いつぶれて眠ってしまっただろうか。
そんなことを考えながら、寝室へと向かおうとしたとき、玄関のドアが開く音が聞こえた気がして、足が止まった。
まさかと思ってリビングのドアを見つめていると、やがて擦りガラス越しに見慣れた影が映り、そして静かにドアが開かれた。

「あれぇ? まだ起きてたんですか?」
一瞬、彼は驚いたような顔をして、けれど、それはすぐに笑みへと摩り替わった。
「ただいま~、御堂さん」
まさか、帰ってくるとは思ってもみなかったから、すぐには反応できなかった。そんなわたしの顔を覗き込むみたいに、彼は少しだけ首を傾げて、いたずらっぽく微笑んでいる。飲んでいるせいなのか、頬から眼の辺りを薄紅く染めて、心なしか潤んだ瞳でわたしを見つめてくる。
そんな様子が、まるで誘っているように見えて、思わず、喉を鳴らしてしまっていた。

「きみは…今夜は帰って来ないんじゃなかったのか」
渇望にも似た渇きを覚えて、ひりつく喉から絞り出した声は、掠れている。
「あはっ、やっぱり御堂さんの傍にいたくって、帰ってきちゃいました~。本多も、大丈夫そうだったし~」
かなり飲んでいるらしく、だらしなく語尾を間延びさせながら、まるで倒れこむように身体を寄せてきた彼はわたしの腕の中に納まるなり、わたしの背中に腕を回してきた。
何がおかしいのか、わたしの肩に頭を持たせかけて、くすくすと笑う。
彼の柔らかな髪がわたしの首筋にあたり、その暖かな息が皮膚に触れるだけで、胸の鼓動が早くなるのがわかった。すでに身体の中心には、熱が集まり始めている。
まったく、我ながら単純な身体だとは思うが、克哉も随分とわたしを煽るのが上手くなったものだ。

「どれだけ飲んだんだ? 随分と酒臭いぞ」
「あ~、いっぱい飲みましたぁ。久しぶりに、みんなと会えて、楽しかったですv」
克哉の様子は、本当に楽しそうで。でも、そんな彼を見ていても、苛立ちも何もわたしの胸には湧き上がってこない。
彼が傍にいるだけで、空虚だった部屋の中が満たされてゆくのを、ただ感じていた。

「話したい事も、たくさんあったんじゃないのか? なぜ、帰って来た?」
まるで逃がすまいとでもするように彼の身体を抱きこみながら、それでも、半分は本心で訊いてみる。すると彼は、あっけらかんと答えを返してくれた。
「なぜって? そんなの、御堂さんが好きだからに決まっているじゃないですか~。おれはいつだって、あなたの傍にいたいんです」
酔った勢いで大胆になっているのはわかっていたが、可愛いことを言ってくれる恋人に、悪い気がする男がどこにいるだろう。
ましてや彼は、友人よりもわたしを選んで帰ってきてくれたのだ。
胸の奥が熱く、どうしようもないほどの愛しさが溢れてくる。
これ以上、我慢をする必要などありはしなかった。

「克哉…」
「あ…御堂さん…」
性急に求め合って、何度も角度を変えながら唇を貪り合って、ベッドに行くまでに互いの着ているものを脱がせあって。

いくら求めても、求め足りないんだ。
あの頃のように、満たされていないわけじゃないのに。
ただ、もっと欲しい。もっと求められたい。もっと、もっと。
貪欲なまでの渇望を、きみの全てで埋め尽くしてくれ。

克哉…



明日の朝、目が覚めたら、リビングからベッドまでの間に脱ぎ散らかされている衣服を見て、彼はなんと言うだろう。また真っ赤な顔をして、わたしのせいだと言うのだろうか。
そんな克哉の姿を想像しては、笑いをかみ殺す。
まったく、彼といると退屈しない。
その反応のひとつひとつが…愛しくて。

もしかすると、またベッドで一日を過ごすことになるかもしれないと、ふと思う。
彼と付き合いだしてから、何度そんな週末を過ごしただろう。
飽きもせず、ただずっと抱き合って。
それはそれで構わないのだが、時折、自分の欲深さが怖くなる。
こういう状態を「溺れる」というのかと、想いを巡らせては苦笑してしまう。
まさか自分がこんな想いを抱える日が来るなど、想像したことも無かったのに。

隣で眠っている克哉は、安らかな寝息を立てている。
寝顔はまるで、無邪気な子供のように幼くて無防備だ。
「こんな何も知らない顔をして、どうしようもなくわたしを煽るんだからな…手加減できなくなってしまう」
小さく呟きながら、意識を失うまで攻めてしまったことを後悔するように、彼の髪を指に絡めては、何度となく梳いてみる。すると克哉は、眠ったまま微かに幸せそうな笑みを浮かべて。そしてそのまま、再び安らかな寝息を立て始めた。
少し前の熱く乱れた狂態など、まるで嘘だとでも言いたげに。

「…やっぱり、きみは不可解だ」
眠ったままの克哉に、囁く。

だからこそ、きみが知りたい。欲しくて仕方がない。
求めるだけ、与えて欲しい。これ以上ないほどに、混ざり合いたい。
そして同じだけ、わたしを求めて欲しい。
いつまでも、ずっと。

最高級のワインが与える酩酊感よりも深く、きみはわたしを酔わせている。
それはたぶん、わたしが、眠ったままだったきみの欲望という封を切って目覚めさせた、その瞬間から。

「…きみは、きみの負けだと言うが、わたしはきみに勝てている気がしないな」

克哉というワインに、心地よく溺れながら呟いた言葉は。
夜空で輝いている月だけが、聞いていた。


07/11/22   了
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みどかつ初書きTEXTですね。
とりあえず、無難なところでまとめた感じでしょうか。
エロはちょっと突っ込めなくて、すみません(汗)。

07/11/22UP
14/12/16再UP
-竹流-


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