たとえば深い海の底




「なあ煌、もしもこのまま温暖化が進んで地球全体が水浸しになったりしたら、俺たちは一体どうなるんだろう?」
俺は、まだ半分ほど中身の入ったカップをそっとソーサーに戻しながら、ふと思いついて、昨今よく話題になっている地球温暖化の話を煌に振ってみた。

真実はどうなのか知らないが、かなり現実味を帯び始めたものとして、最近、各メディアでも特にこの問題がよく取り上げられるようになって、TVもラジオもパソコンも無い生活をしている俺たちにも、色んな情報や噂などが入ってくる機会が増えていた。
『果たして人類は生き残ることができるのか?!』等という、大層センセーショナルなタイトルをつけた中身のない本が、大型書店の売り上げランキングの上位に並んでいたりするところを見ると、一般人の関心もそれなりに高いらしい。
とか何とか言って、そんなことをさりげなくチェックしていたりする俺も「メディアに踊らされているひとり」ということなのだろうけれど。
それでも、まさか本気で、北極の氷が全部溶けたら、まるで映画みたいに世界が海の底に沈んでしまうかも? なんてことを別に心配しているわけじゃない。
ただ、この問題について煌がどう受け止めていて、どう考えているのかと、少し興味があっただけで。他に、何も考えてはいなかったんだ。
そんな俺は、問いの答えを急かすみたいに、この時、隣に座る長身の男の顔をじっと見つめていた。


ふたりで、ソファーに並んで腰を掛けながら、ティータイムを楽しんでいるところだったんだ。今夜はアリスが出かけているので、珍しくふたりきりだった。
それは、普通の人間たちが、深い眠りに就くだろう時間。
人と活動時間が違う俺たちは、穏やかな闇の手触りを楽しむようにくつろいでいた。
今夜の紅茶は、上質な薔薇の茶葉が手に入ったと、煌が自ら淹れてくれたものだ。
ティーポッドからカップに注がれるいつもよりも僅かに赤みが深い紅茶は、それだけでも十分すぎるほどに甘い薔薇の香りを立ち上らせていた。
熱く白い湯気をたゆたわせている液体を、そろりと一口含むと、薔薇特有の僅かな苦味を残しながらも、それは思ったよりもすっきりとした飲み口で、芳醇な香りを肺の奥にまで満たしてゆく。まるで身体の細胞の隅々までもが、薔薇の香りに埋めつくされてゆく気がするほどに。
その感覚は、俺たちが触れることのできない薔薇の花束を、両手いっぱいに抱きしめている気分に似ていた。
「すごくいいね。とてもおいしいよ」
「それはよかった」
俺の言葉に、煌が嬉しそうに微笑んでくれる。
幸せで、穏やかな時間。
静かに紡がれてゆく、永遠。
この先も、こんな生活がずっと続いてゆくのだと、思っていた。
煌と、アリスと、俺の三人だけの、永遠に止まった時間が続くのだと。
ただ、漠然と信じていたんだ。


白磁のすっきりとしたデザインのカップで、ゆったりと香りを楽しむように紅茶を口に運んでいた彼は、俺の視線に気付くと、少しだけ困ったような笑みを浮かべて。それから、まるで温もりを確かめるみたいに、大きく骨ばった両の手でカップを包んだ。
「地球が水浸し…か。そうだね。そうなったら、きっと困ったことになるだろうね」
静かな、いつもと変わりない低く甘い声で答えながら、彼は俺ではなく、カップの中のいつもよりも僅かに深い褐色の液体を見つめた。
何を考えているのか、伏せ目がちになって長い睫毛の影に隠れた瞳からは、どんな色も読み取ることは出来そうにない。
「煌?」
『困ったことになるだろう』と、非常に気になる返事をしたきり、また黙ってしまった煌に、どこかしらいつもと違う妙な空気を感じて、俺は問うように彼の名を呼んだ。
「どうしたんだよ? なにか変だぞ? 俺、おかしなことでも訊いた?」
「ああ… いや、そんなことはないよ?」
微笑みとともに返された言葉は、けれどやっぱり、どこかしら歯切れが悪い。
「…温暖化で世界が海に沈んだら… そんなによくないのか?」
俺の直球な問いかけは、俺自身としては冗談半分のつもりだったのに、ずばり的を得ていたらしい。突然、煌の顔から笑みが消えて、真剣な眼差しがおれを捉えていた。
「えっ? まさか、本当にそうなのか?」
驚きを隠せない俺から視線を逸らすと、煌の唇から、らしくない深い溜息が零れ落ちる。
「…じつは、そうなんだ」
手に持ったカップをソーサーに戻すと、ソファーの背もたれに深く寄りかかりながら、彼は天井を見上げた。色素の薄い銀色の波打つ髪が、室内に揺らめくオレンジ色の蝋燭の光を綺麗に弾いている。
「そうなったら…きっと私の力でも、どうすることも出来ないだろうね」
そしてもう一度、重く息を吐き出した。
話していいものかどうかという逡巡が、その中に隠されている気がして、俺は息を詰めたまま、煌の次の言葉を待った。目の前の煌は、天井を見上げたまま身じろぎもせずに、確かに何かを迷っている。
その唇が、やがて、俺を見ないままに動き始めた。
「…本当に水は、特に海の水は天敵でね。もし、沈んでしまうことにでもなったら、固まったように身動きできなくなってしまうんだ。そして海水に触れている限り、際限なく身を切り裂かれるような痛みが続く。なのにね、不幸なことに、それでも私達は死ぬことができないんだよ」
「え? それって…」
「そう、永遠に激痛に苛まれながら、水の中で生き続けることになる」
痛ましげな表情が、彼の顔に浮かんだ。

確かに、この肉体は人と同じように見えながら、鼓動を刻むこともなく、呼吸を必要ともしない。生物が生きているという定義からは外れたところで… たぶん、生きている。
そして、死んで消えてしまうためには、ある条件が必要となってくるんだ。
けれどまさか、そんな状態になっても死ねないとは。
俺は言葉が出なかった。まさか、何気なく振った話題が、こんな真実を聞かされることになろうとは思いもしなかった。

「…だから、もしも本当にそんな事態になることがわかったら、君はどうしたい?」
突然、今度は煌の方から、俺が考えてもいない質問を投げかけてきた。
いつの間にかこちらに顔を向けた彼が、奇妙に真剣な眼差しで俺を見つめている。
青灰色の瞳が、蝋燭の明かりのせいなのか、深い灰色に染まっている。
一瞬、俺は言葉に詰まった。
煌の眼差しは、それが冗談ではないことを語っているのだ。
けれど、「まさか」な真実を聴かされたばかりで、正直頭がこんがらがっている俺に、いきなり、どうしたいと訊かれてもわかるはずがないだろう?!と反発しそうになるのは…俺のわがままなんかじゃない…はずだ。
「どうしたいって訊かれても、何がどうできるって言うんだよ!」
俺の口から出た声は、やはり、というか、かなり感情的だった。けれど、煌は気にする様子もなく俺を見つめたまま。
「永遠の苦痛から逃れられる方法が、ただひとつだけ、あるんだよ」
ソファーにもたれかかっていた身体を起こしながら、煌が言う。
その言葉を聴いた俺の表情は、たぶんかなり訝しげだったんだろうと思うんだ。煌は、そんな俺をあやすように柔らかな笑みを零すと、俺に向かって手を伸ばしてきた。
そっと大きな手が髪に触れたと思うと、それは愛おしげに俺の髪を撫で始める。
慈しむように、何度も何度も。
俺を見つめる煌の瞳はどこまでも優しくて、まるで作り物の硝子玉みたいに透き通っているようで。
いつもと変わらない、優しい煌。
なのに、やっぱり何かがおかしいんだ。
「煌?」
俺が疑問符をつけて呼ぶと、今度はその笑みに、少しだけ影が落ちた気がした。酷く、寂しげに。
その唇が、静かに開いた。
「拓人はどうしたいんだい? 君が望むなら、そうなってしまう前に… わたしが君を殺してあげるよ…」
「なっ!!」
咄嗟に、煌の手を払って俺は立ち上がっていた。

この男は。
この吸血鬼は。
今、何を言った?
たった今、聴いた事が聞き違いでないのなら、この男は…

「あ…なたは…俺を…いったい…」
無意識のうちに、俺は身体が震えていた。それは怒りから来るものだったろうか。煌をきつく睨みつけながら、硬く拳を握る。
そして。
煌は顔から完全に笑みを消して俺を見つめていた。酷く真剣な表情で。
或いは、泣きそうな顔で。
彼は、本気なのだ。
それが、痛いほどに伝わってくる。
「…冷たい水の中で苦痛に苛まれながら、身動きひとつできずに永遠に生き続ける地獄を君に強いることなど、わたしにはできない。想像を絶するだろう苦しみを、君に与えたくはないんだ」
煌の言葉は、俺がまだ人間だったときに、俺を吸血鬼にしたくはないと言った彼自身の言葉を思い出させる。また、そんなことを言うのかと、俺は苛立ちに似たものを感じて、さらにきつく拳を握ってしまう。見てはいないけど、俺の手はきっと力を込めすぎて、白く血の気を失っていることだろう。
「そうしたら…あなたは…」
俺の唇を開くのを、彼はじっと見つめている。その眼差しを、俺はきつく見つめ返した。
「…俺がいなくなったら…残されたあなたは、どうするつもりなんだよ?」
「わたしは…」
煌の眉が僅かに寄って、彫りの深い顔立ちがさらに深い陰影を刻む。
「どうせ、たった一人で沈むつもりなんだろう? きっとあなたのことだから、今まで犯した罪の償いのつもりで、あなたの言う地獄にひとりで堕ちるつもりなんだろう?」
俺の言葉に、彼の身体がぎくりと固まる。本当にこの人は、隠し事が下手だ。
我儘で自分勝手で、嘘つきで嘘が下手で。
そして誰よりも寂しがり屋で、とてもとても優しい、吸血鬼。
でも。
「ずるい…」
俺はさらに煌を睨みつけた。
「煌はいつも自分で勝手に決め付けすぎなんだ! 俺を信じてないっ! 俺の気持ちなんて、全然わかってないだろっ!」
「拓人…」
激昂して思わず叫んだ俺に何かを言いかけようとして、不意に煌は口を噤んだ。
気がつくと、俺の目からは温かい雫が零れ、頬に筋を引いていた。
ずっとひとりで寂しかったくせに、人のことばかりを心配するバカな吸血鬼に、腹が立ったという理由からくる涙だったのかもしれない。
けれどそれは幾つも幾つも溢れては流れ落ち、カッコ悪くて慌てて袖で拭ったのに、まるできりがないみたいに止まらなくて、俺は顔を上げられなくなった。
目の前のバカな吸血鬼を睨みつけてやりたいのに、それもできやしない。
「ふっ…うっく…煌の…バカ野郎…鈍感魔人…」
嗚咽交じりの罵倒が、俺の口から、苛立ちや腹立たしさや、その他の色んな感情によって押し出されてゆく。
でも、本当は俺は、こんな事を言いたいわけじゃ、ないんだ。
いつも勝手に気を回して、俺の事を決めてしまおうとする煌に腹が立って仕方がないのは本当で。俺の事をわかってくれないこの男に、泣けてしまっているのも本当で。
でもそれ以上に、いつまでも子どもっぽい態度ばかりをとってしまう自分はもっと嫌で、余計に泣ける気がした。
まったく、バカ野郎なのは、俺の方だ。
こんなんじゃ、いつまで経っても俺の気持ちは、彼に伝わらないに決まってる。
どれだけ、どれだけ、俺が…

そうやって、ひとり立ち尽くしたきり、顔すら上げられないまま泣きじゃくっている俺の身体を、突然、ふわりと優しい腕が抱きしめた。
どうしようもなくねじくれた感情で泣き続けていた俺は、当然のようにわざと抗ってみせるけれど、柔らかく俺を抱きとめた腕は、力を入れているようにも見えないのに、微動だにしない。
意地になって、さらに暴れようとした俺の耳に、不意に弱く掠れる様な声が届いた。
「拓人…まさか君は、冷たい水の中まで、わたしに付いて来てくれるというのかい?」
その声があまりにも頼りなげで、思わず俺は、抗おうとした状態のまま動けなくなった。煌の切実な想いが、そこには込められている気がして、胸の奥が苦しくなる。
自分勝手に思い込んで、何でも一方的に決めて判断して。
そのことに、俺は反発して腹を立てたけれど。
でも、俺を苦しめないために、もしもそうなったときには、俺が望むなら自らの手で殺そうとまで考えるのは、どれだけの痛みを伴っただろう。そして、その先に続く永劫の地獄を、自分ひとりだけで堪えてゆくことを想像したとき、どんな気持ちだったろう。
誰よりも、寂しがり屋の煌。
なのに。
俺を愛してくれているから、大切に思ってくれているから。
だからこそ、何も言わずに、煌はひとりで決めてしまうのだろう。
そう気付いた俺は、抗うことをやめて、素直に小さく頷いた。すると、今までどんなに抗っても全く動かなかった煌の腕が、微かに震えたのがわかった。
「…それが、どんなに苦しくても? どんな地獄だったとしても?」
また、さっきよりもさらに弱弱しく、力の無い声が呟く。 だから俺は、今度は力強く頷くと、はっきりと言ってやったんだ。
「俺は、ずっとあなたの傍にいると言ったよ? 煌」
耳元で、ハッと息を吸い込む音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、俺の身体はぎゅっと強く抱きしめられて、煌の顔を見ることができなくなった。
「…愛しているよ…拓人…世界中の誰よりも…」
まるで吐息のように俺の耳元で囁くと、煌は俺を抱きしめたまま、じっと長い時間動かなかった。
厚くたくましい胸に顔をうずめながら、俺もまた、彼を抱きしめるために彼の背中に腕を回す。鼓動の音が聞こえてくることのない煌の大きな身体は、けれど俺の腕の中で、微かに震えていて。
俺も、世界中の誰よりも、愛していると、思うんだ。

ねえ、泣き虫で弱虫で、そしてちょっとだけ意地悪で、優しい吸血鬼。
もしも本当に、いつかその日が来て、ふたりで海の底に沈むことになったなら、太くて長いロープを用意して、何があっても決して離れてしまわないように、俺たちの身体を固く結びつけておこうよ。
抱き合ったまま、口吻けあったまま、あなたと共に永遠の眠りに就こう。
あなたのいる場所が、俺の安息の場所。
どんなに苦しくても、どんなに辛くても、あなたと一緒なら俺は堪えてみせるよ。
その永劫の地獄が、たとえ俺たちに対する天罰であったのだとしても。
俺たちが神に愛されない存在で、救われないものだったとしても、嘆くことはないよ。
だって、こんなにも俺があなたを愛してる。

大丈夫。
きっと、そんな日は来ない。
たとえ来たとしても、俺はずっと、傍にいるよ。
それが、深い海の底でも。
永遠に。
あなたから、離れない。


08/10/10   了
__________________

え~と、自分でもメサイアで何が書きたいのかよくわからない…
たぶん、このジャンルで、こんな話を作る奴いないよね(汗)。
これは、確か吸血鬼って水には弱かった…んじゃないかな~
といういい加減な記憶に基づいて作った捏造です。
ましてや海水って、命の根源みたいなものだから、こんな感じもありかなと。
楽しんでくれる人が…というか、読んでくれる人がいるのかどうかさえ
わかりませんが、自分は楽しかったです///

08/10/20UP
14/12/16再UP
-竹流-


ブラウザを閉じて戻ってください