NEVER LAND
それを、最初に言い出したのは、はじめだった。
「高遠ってさ、キス、上手だよな…」
ベッドの中で、ふたりで戯れている最中に、ふと思い出したとでもいうように、ぽつりと洩らされた一言。
「そうですか?」
ぼくがその顔を覗き込むと、大きな黒曜石の瞳が、濡れたような光を湛えながら、不安げに揺れている。
「急に、どうしたんです?」
「ううん、なんでもないんだけどさ…」
なんだか、はじめらしくない、歯切れの悪い返事。
「…なんでもないようには、見えませんけど、なにを考えたんですか?」
すると、視線を逸らして、困ったような表情を浮かべて。
本当にきみは、隠し事をするのが下手ですね。
なんでもそんな風にわかりやすいと、悪い大人に騙されますよ?
なんて、その悪い大人の最たるものの見本が、ここにいましたっけ。
自分で勝手にそう考えたことにぼくが苦笑を浮かべていると、なにを勘違いしたのか、きみは大きく眼を見開いてぼくの頬に手を当てた。
「そんな顔、すんなよ。言うからさ」
「話してくれるんですか?」
こんな風にさりげなさを装いながら、ずるい大人は心の中で舌を出していたりするんです。
気をつけてくださいね。
にっこりと、笑みを浮かべるぼくに向かって、けれどやっぱりきみは少し躊躇いがちに。
思ってもみなかった質問に、今度はこっちが、戸惑う番だった。
「………どうして、そんなことを聞きたいんですか?」
「………だから、言いたくなかったんだよ…」
なるほど、もっともな答えです。聞きたがったのは、ぼくの方、だものね。
額に手を当てて、どう答えようかと少し迷う。
嘘をついても聡いきみのこと、すぐに見破られてしまうのがおちだろうし、大体、こんな下らないことで彼に隠し事をするのも変だろう。
そう、自分に納得させた。
「…そうですね …じつを言うと …よく覚えてないんです」
今まで、覆いかぶさるように密着した状態だったのを、少し離れて、ちょっと困りながら正直に答えた。
こういうことは、本当のところ、あまり恋人には知られたくないものだ。
特にぼくは、きっとはじめに呆れられてしまうに違いない。
本当に、覚えていないのだから。
「…なにそれ?」
案の定、はじめは胡乱な眼差しで、ぼくを見つめてきた。
「ごまかしてんの?」
「…言われると思ってました。でも、本当なんですよ。ぼくは今まで、本気で誰かと付き合ってきたことなんて、ありませんから」
一夜だけの関係なんかも入れたら、それこそかなりの人数になってしまうのは、確かでしょうけどね。とは、死んでも言えません。
「…だれかを、好きになったこと、無いの?」
はじめが、何故か悲しそうな顔で、ぼくを見る。時々、きみはそんな風にぼくを見るね。
「今は、きみのことが、好きですよ?」
「そうじゃなくて、他に」
「いませんね」
きっぱりと言い切ったぼくに、今度は辛そうな顔をした。
どうして、そんな顔をするのか、ぼくにはわからないけれど、きみの中にはちゃんと理由があるのだろう。そして、きみがそんな顔をするのは、いつも、ぼくのせいなんだ。
はじめの柔らかな髪に手を伸ばしながら、ぼくは考えた。
そう言えば、ひとりだけ、覚えている人が、いるにはいる。
話したほうが、いいのだろうか。
少し逡巡を繰り返し、覚悟を決めて、口を開いた。
「ひとりだけ…覚えている人は、いますけど…」
はじめの表情が、動いた。
「…聞きたいですか?」
「…うん…」
ぼくは身体を起こすと、深いため息を、ひとつ落とした。
彼女の名前はシルビア、イギリス人でぼくより十以上、年上のひと。
一流のマジシャンを目指して、場末の酒場で働きながら、小さなステージに立っていた。
知り合ったきっかけはなんだったのか、今ではわからなくなってしまったけれど、彼女の金色の髪が陽に透けて、キラキラと眩しく輝いていたのを、微かな痛みと共に思い出す。
大きなエメラルドグリーンの瞳がくるくるとよく動いて、ひと時も同じ表情をしていない、
そんなひとだった。
まだ、十代の半ばを過ぎたばかりのぼくに、性の快楽を、教えたひと。
それこそ、キスの仕方から、ベッドの中の一から十まで。
「ヨーイチ」
ぼくの名前を呼ぶその声が、甘く掠れるのを聞くのが好きだった。
溺れていた。
それは確かなこと。
けれど、彼女自身が好きだったのかどうか、ぼくにはよくわからない。
あの頃のぼくは、ただ、彼女の身体だけを求めていて、それが恋なのだと勘違いしていた。
たぶん、彼女もそれぐらいわかっていたのだろう。
「好きよ、ヨーイチ、とてもかわいいわ。食べてしまいたいくらい。でも、この気持ちはあなたには、わからないのね」
ベッドの中で、いつも少し寂しそうに微笑んで、彼女はぼくの髪を撫でた。
終わりの日は、唐突だった。
彼女と付き合いだして、もうすぐ一年が経とうとしていた頃のこと。
突然、彼女は帰らぬ人となった。
血まみれの彼女が、バスルームで発見されたのだ。
自殺だった。
ぼくにはなにも言わなかった。一言も。なにも。
結局、ぼくは子ども扱いされていたんだ。一人の男として、見てはくれなかったんだ。
目の前が、真っ暗になるような感覚を覚えた。
抱きしめて、耳元で愛を囁いて、微笑んでいた彼女は、けれど、ぼくを信じてくれてはいなかったのだと…
苦い思いが胸に澱んで、ぼくは泣くことすら、できなかった。
情けない自分が、まるで道化師のようで…
葬儀には参列しなかった。
棺の中で眠っている彼女を、見たくはなかった。
記憶の中の彼女は、光の中で笑っている姿だけで、十分だ。
「それから今まで、何人か付き合いましたけど、だれも記憶に残ってはいませんね。彼女ほど長く付き合った人も、他にはいませんでしたしね」
木製のベッドヘッドに凭れて、苦い思い出話を語り終える。恋人の昔の彼女の話など聞いて、彼はどう反応するのだろう。
けれど、はじめは黙ったまま、なにも言わない。
「はじめ?」
不審に思って、彼の方を見て、息を飲んだ。
はじめは、それはそれは幸せそうな顔をして、泣いていた。
一瞬、言葉が出ない。
そんなぼくの目の前で、はじめのくちびるが、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「…たかとお… その人ってさ、きっと、本当に高遠のこと、大好きだったんだよ…」
「はじめ…」
彼が瞬きをすると、新しい涙が目尻から零れ落ちた。
「きっと、あんたが大切だから、なにも言えなかったんだ。まだ若いあんたを困らせたくなくて、だから…」
「…きみには、彼女の気持ちがわかるんですか?」
彼の髪に触れて、やさしく梳いてみる。
柔らかな感触が、指に絡み付いて、胸の奥に微かな疼きを覚える。
「…うん、たぶん…少しだけ…な」
「では、この涙は、だれの為なんですか? 彼女のため?」
だとしたら、きっとぼくは、彼女にまで嫉妬を禁じえないだろう。けれど彼は、ううんと頭を振ってから、真っ直ぐにぼくを見つめた。
「…あんたのためだよ」
「ぼくの…?」
「嬉しかったんだ」
「嬉しかった?」
オウムのように繰り返すぼくに向かって、はじめはまた、幸せそうな笑みを浮かべると、こくりと頷く。
「おれ以外にも、あんたを愛してくれてたひとがいて、嬉しかった」
それが、どういう感情から来るのか、ぼくには理解できなかったけれど、はじめの真っ直ぐで純粋な気持ちに、不思議な感動を覚えた。
「はじめ…」
想いのままに、彼の上に身体を重ねて、強く抱きしめる。
穏やかな彼の鼓動が、素肌のままの身体に直接伝わって来て、なぜか泣きたいような気持ちになった。
「好きですよ、はじめ。きみだけが」
「うん、おれも」
そのまま重ねられたくちびるは、すぐに互いを探り合うように深くなって、このまま快楽を貪り合って…と、思っていたら、はじめに止められた。
「〜〜〜何ですか?」
その気になっていたのだから、声が不機嫌になるのは仕方がないというものでしょう?
「じゃあさ、このキスも、その人に教えてもらったんだ?」
「………そう、なりますねぇ?」
「ふ〜ん」
突然、雲行きが怪しくなる。
「一体、何なんですか?」
「別に…」
さっきとは、打って変わった態度のはじめに、けれど、ぼくの口の端には、笑みが浮かぶ。
「もしかして… やきもちを妬いてくれてるんですか?」
「ばっ! そっ、そんなんじゃねえよ!」
急に真っ赤になって、ぼくの身体を押し戻そうとするはじめは、本当に隠し事が下手だ。
これが事件で、犯人を追い詰めるためになら、どんな芝居も打つくせに。
でも、素直で複雑で、純粋なぼくの赤頭巾は、結局、最後にはいつも悪い狼に食べられてしまうんですよね。
そう考えて、ふと思い出す。
「そう言えば、彼女によく『食べたいくらいかわいい』と言われましたけど、今になって、ようやくその気持ちがわかるようになりましたよ」
そう、ぼくが言うと、彼は急に真顔になって呟いた。
「…おれ…高遠になら、『食べられ』ても、いいや」
「ぼくはいつも、きみを『食べてる』と思いますけど?」
「そういう意味じゃなくて…だよ」
はじめの瞳には、なんの迷いも無くて、ただ、真っ直ぐで、怖いくらいだ。
「はじめ?」
「…高遠、おれは…… ううん、なんでもない…」
そう言うきみ見ていて、ぞっとするような寒気を感じた。
もしかして、きみは、全部わかってて、ぼくの側にいるのだろうか?
きみのその真実を映す瞳には、ぼくの狂った願望が、見えているのだろうか?
解けない謎は、なにも無いと言わんばかりに…
「きみは…」
「おれは…なにがあっても、ずっと、あんたの側に、いたいんだ…」
ぼくの言葉を遮って、いっきに喋った後、また、彼の瞳に涙が浮かんだ。
「だから…」
堪えきれずに、きみの瞳から零れ落ちた涙をくちびるで拭って、そのままくちびるを塞いでしまう。
キスは、少し涙の味がした。
もう、なにも言わなくていい…
ぼくたちの間に、言葉なんて無意味なものなんだと、やっと、わかった。
『好きよ、ヨーイチ、とてもかわいいわ。食べてしまいたいくらい』
シルビア、確かにきみは、ぼくを愛してくれていたんだろう。
けれど、彼ほど深く、ぼくを想ってくれていたわけではないのだろう。
きみはどこか、ぼくに似ていたのかもしれないね。
笑顔の裏で、闇を心の中に映して、いつも失うことに怯えて…
置いてゆくものより、置いてゆかれるものの方が、つらい。
それがわかっているから、いつも大切なものから逃げるんだ。
でも、もう逃げない。
ずっと、側にいて、決して離れないように、魂を結んで。
堕ちて行くしかないこの道でも、光の射さない暗闇でも、きみと共にあるのなら、きっとそこが約束の地。
戯言と、ひとは笑うだろうけど、ぼくは、ぼくに懸けて誓うよ。
永遠を…
きみだけに…
05/05/23 了
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05/05/28UP
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