カノンを聴きながら



整理していた古い本の間から、一枚の紙が落ちてきた。
何かと思って拾い上げてみると、ビッグベンが写った、色の褪せた、ポストカード。
古い、記憶。
涙が零れそうなほど、やさしい、思い出。
おれは、そっとそれを撫でると、切ない笑みを、浮かべた。

今も、鮮やかな、痛みを伴って…
カノンが、聴こえてる。





「あれってさ、有名なロンドンの時計塔だよな!」

着いたばかりのホテルの部屋の窓から、河向こうに建っている大きな時計の付いた塔を見つけたおれは、部屋を見るよりも先に、窓に向かっていた。
観音開きに開く大きな窓を開けて小さなベランダに出ると、川面を撫でてきた風が、ひやりと冷たく身体を震わせた。六月だというのに、イギリスの夜はかなり冷え込む。
荷物を運んでくれたボーイにチップを渡すと、高遠もすぐに傍に来た。
「ああ、あれはビッグベンですよ。イギリスの国会議事堂です」
言いながら、片肘をベランダの手摺りにかけて凭れかかる姿は、ヨーロッパ建築の建物に異様に似合っていて、腹が立つくらい、カッコいい。

「なんですか?」
じろじろ見てるおれに気が付いたのか、きょとんとした表情を浮かべて、こちらを見た。
この人はとても大人なのに、時々、子供のような顔を垣間見せる。そんなとき、おれは妙に嬉しいような気分になるんだ。この人が、そんな無防備な表情を見せるのは、おれにだけだと、知っているから。
「でも、食べ物にしか興味のないきみが、よくビッグベンなんか知ってましたね?」

あんた、その口の悪ささえ無ければ、最高にいい男なんだけどね…

「おれだって、それぐらい知ってらい!」
ふん! と、鼻息も荒くソッポを向いてやる。どうせすぐに、機嫌取りに来るんだから。
クスクスと笑う気配がして、高遠の白くて綺麗な指が、そっと、おれの頬に触れた。
「冗談ですよ。拗ねないでください」
言いながら、背後から抱きしめてくる。

一見、冷たそうに見えるこの人の体温が、とても温かいのを、おれは知ってる。
冷たくて身体を震わせた外気が、とても心地良い温度に感じられるくらい、それはおれに熱を与えてくれる。
けれど、
「な、何すんだよ! 人に見られるだろ!」
素直じゃないおれは、一応、抵抗を試みたりして。

「もう暗いですし、ここは河に面してますから、誰も見てませんよ」
でも、気になるんなら、こうしておきましょうか…

高遠はおれの髪に手をやると、髪をまとめていたゴムを外した。ばさりと、伸びた髪が肩にかかって、吹き上げてきた風に揺れる。

「こうしていれば、普通のカップルに見えるでしょ?」
クスクスと、耳元で笑うこの人の優しい声を聞きながら、おれはわざと、仕方ないなあって、横柄に言ってやる。そうして、この人の温もりに甘えるように、身体を預けるんだ。

うん、もう夜だし、たまにはこうして、外の空気の中で恋人っぽいことするのも、いいよね?

高遠の温もりを背中に感じながら、向こうに見える時計塔を眺めていて、どうしておれが、あの塔のことを知っているのかを、突然、思い出した。
「…ああ、なんでおれが、あれのこと知ってるのか、思い出した…」
おれの服の中に忍び込んで、悪さをしようとしている高遠の手を懸命に押さえながら、おれは呟いていた。
高遠の手が、止まる。

「どうしてですか?」
「聞きたい?」
「ええ」

おれの顔を覗き込むようにして、高遠が言う。なんか、妙に興味津々っぽいんですけど。
まあ、いっか。

「ガキンチョのときに見た、アニメに出てたんだ。あれ」
「アニメ…ですか?」
「うん、『ピーターパン』だよ」

ああ、と耳元で、高遠が納得の声を上げるのを聞きながら、ぼんやりとおれは考えていた。子供だけの、永遠の国のことを。

「『ネバーランド』、ですか…」

考えていたことが読まれたのかと、勘繰ってしまうようなタイミングで高遠が言うから、正直、おれはビビッた。
「えっ?」
高遠を振り仰ぐと、彼も、暗い空を見上げていた。

薄く曇った空は、ぼやけた月明かりを雲間に白く映していて、不思議な色のコントラストを綺麗に描き出している。暗く明るいその雲間から、本当に空飛ぶ船が、ひょっこりと姿を表しそうな、そんな気分にさせる空模様だ。

「永遠の国…ですよね」
月の光を集めたような虹彩を持つこの人は、何を想って、この夜空を見るのか。
よくはわからなかったけれど、ぽつりと零された高遠のその呟きは、なんだか、ひどく切なげに聞こえた。

「たかとお…?」
空を見上げたまま動かない恋人を、おれは不安げに見つめた。
「永遠に、子供のままで、歳を取らないんですよね…」
言いながら、おれの方に顔を向けた高遠は、綺麗に微笑んでいて。
その笑顔に、なぜかおれは、とても胸が痛くなった。

「ぼくは、もう、大人になってしまったから、行くことはできませんねぇ」
後ろから、おれの身体を抱きしめていた高遠は、右手だけを外して、その手のひらを少しの間、見つめていた。

それが、なにを意味するのか。

おれは、高遠の腕の中で向きを変えると、その首にしがみ付いた。
「『ネバーランド』なんか、行けなくってもいいじゃん! ふたりで居られれば、それでいいだろ! それじゃ駄目なのかよ!」
「はじめ…」
弱く、驚いた声を上げた彼は、でも次の瞬間、おれの身体を強く抱きしめた。ふたりの間に、何者が入ることも許さない、力強さで。
ただ、その腕が、微かに震えてるように感じたのは、気のせい、だったのかな。

「そうですね。…永遠なら、確かに、ここにある…」

高遠のくちびるが、おれのくちびるに重なって、普段よりもずっと激しく、くちづけを交わした。互いに求め合って、何度も何度も、角度を変えて。
身体は熱に煽られてゆくのに、なのに胸の奥が、どうしようもなく、切なさに、震えて。

どこからか、カノンが聴こえていた。あの、学校で習うやつ。
とても小さく、囁くように、川面を滑る風に乗って聴こえてくる。

大好きだよ、たかとお。誰よりも一番、あんたが好き。ずっと…大好き。
だから…

ふたりで、ネバーランドに行こう。

指を絡めあって。
くちびるを重ねあって。

夜の空に、漕ぎ出そう…





そして今、おれの傍に、あの人はいない。

もう、ずっと昔に、おれだけを残していってしまった。

やっぱり、あんたは、うそつきだ。
人を騙して、快感を得るんだとか、言ってたもんな。

ずっと、一緒にいようって、約束したのに…


たかとお… 

ネバーランドは、見つかった?
おれはまだ、そこに行くことはできないけど、いつかきっと、あんたを見つけに行くから、待っていて。

ネバーランドへ行こう。
ネバーランドへいこう。

永遠を、誓い合って。

おれは、たぶん、見つけたよ?
何年経っても、この胸の中で、ずっと変わらずに輝き続けているもの。
それが、おれのネバーランド。

あんただけに捧げる、永遠…


明るく、甘く、そのくせどこか、物悲しく。
あの日のカノンが、耳の奥で聴こえている。

いつも、いつまでも。

切ない愛を、囁くように…




05/06/08   了

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「ネバーランド」のリベンジ編?
高遠くん、死にネタで申し訳ないですが、急に書きたくって、書きたくって、仕方なくって。
これは、突発物扱いってことで…
「カノン」、どうしてカノンかって言うと、今日、聴いてたんですよ。
ホームページに、音楽を付けようかどうしようか迷ってて。
で、聴いてたら、今まで考えてた「ネバーランド」とがっつり引っ付いちゃって、こんなことに…
もう、サイトの話も、何でもありになってきてしまいましたね。
こういう話書くと、前の話に、やっぱ、書き方似通っちゃうし…
あはは…(汗)。
でも、結構、こんな話も好きな、わたしです。

05/06/08UP
−新月−



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