おれが髪を伸ばす理由
「だいぶ、伸びましたねぇ」
高遠が、おれの髪を洗いながら、ぽつりと呟いた。
「そうだな〜」
おれは、気の抜けた言葉を返す。
高遠は柔らかく微笑むと、それ以上は何も言わずに、また、洗うことに専念し始めた。
いつもこんな風に、おれの代わりに、おれの髪を綺麗に洗ってくれているんだ。
おかげでおれの髪は、さらっさらでつやっつやで、しかも結構柔らかくて。この間なんて、髪を下ろして歩いてたら、女の子に間違われちまうし。
どこをどう見たら、おれが女に見えんのか、よくわかんねーんだけど。まあ、ヨーロッパの人間から見たら、アジア系の人間なんて、あんまり区別つかないのかもしんないけどさ。
あの時、高遠がちょっと離れている間に男に声を掛けられたりしてたもんだから、もう、殺気立っちゃって…
マジ、すげえ怖かった。あいつら、よく殺されずに済んだよな。
「もう二度と、髪を下ろして外を歩いてはいけません!」
って、言われちゃってるけど、ここまで伸びると、括るのも結構面倒くせえ。
そう言うと、ぼくが編んであげますから、ときた。
でもホントに、おれの髪はだいぶ伸びて、今や背中の真ん中に近いくらいまである。自分で伸ばしてるくせに、手入れを面倒くさがるおれに代わって、高遠が手入れをしてくれている、というわけだ。
ったく、まめなヤツ、だよな。
そう言えば、高遠の口から、切らないんですか? と言う言葉は聞いたことが無い。
それは、おれが切らない理由を、高遠はなんとなくわかっているから、なんだろうか。
そう、おれたちは別に駆け落ちをして、ここにいるわけじゃない。
おれはちゃんと高校を卒業したし、親の了解も得て、ここにいる。
…高遠と一緒にいることは、さすがに内緒だけどさ。
おれは、あの高二の夏休みのときのように、今もひとりで放浪の旅に出ていることに、なっているんだ…
「じゃあ、行って来るよ」
そう言って手を振ったおれを、美雪は空港でひとり、見送ってくれた。
ゲートを潜って、遠ざかってゆく、おれに向かって。
「元気でねっ、元気でね! はじめちゃん!」
そう言いながら、いつまでも手を振っていた。
その姿はまるで、小さな子供のようで。
幼い日の美雪の姿が、だぶって見える気がした。
いつも一緒にいた、幼馴染み。
でも、もう、お別れだ。
おれが何度振り返っても、美雪はまだ、手を振っていた。
いつまでも。
おれから美雪が、見えなくなるまで。
まるで、もう二度と会えないのが、わかってるみたいに。
本当は、誰にも見送ってもらうつもりなんて無くて、ずっと内緒にしていた。
二三にも、草太にも、佐木にも、剣持のおっさんにも、明智さんにも、当然、美雪にも。
親は、じっちゃんにも放浪癖があったせいか、何も言わなかった。
おれは高三のときに、この旅に出るための資金をアルバイトで溜めていて、それはバイトをし始めたときに、親には納得してもらってあったんだ。
ふらりとひとりで旅立ちたい、というおれの言葉に、協力もしてくれていた、と思う。
なのにあの日、おれが荷物を持って家を出たら、目の前に美雪が立っていた。
「黙って、ひとりで行っちゃうつもりだったんでしょう?」
夜明け前の、まだ暗い時間。美雪は、そう言って笑った。
おれは、何も言えなかった。
だっておれは、親にも嘘をついて、本当は全部捨てて、行ってしまうつもりだったんだ。
いつ、帰ってくるの?
空港のロビーで時間まで待たされている間、そう聞かれることを覚悟して、胸をドキドキさせていたおれに向かって、美雪は言った。
「しあわせに…なってね?」
ただ、一言。
零れ落ちそうな涙を、眼のふちで懸命に堪えながら、それでいて、何かを秘めた強さをその身に纏いながら、美雪は、ふわりと微笑んでくれた。
その姿に、おれは一瞬、息を飲んだ。
とても綺麗だと、思った。
そこにいる女性は、今まで見てきた彼女とは、違っていて。
毅然とした芯の強さを身の内に抱いた、大人の女性が、そこには存在していた。
そして彼女を、そんな風に変えたのは、もしかして自分なのだろうか。
今まで、うるさいくらいにざわめいていた周りの音が、遠退いたような気がしていた。
この場所には、美雪とおれのふたりだけしか、まるで存在していないかのように。
静寂が、おれたちの間を支配していた。
ふと、思った。
おれは、どうしてこの女性(ひと)を、選ばなかったのだろうと。
あんなに、大好きだった。
小さな、子供の頃から。一緒に遊んで、同じ時間を過ごして。
そして、これから先もずっと一緒にいるのだと、ただ信じていた。
無邪気な、こどものままに。
でも、おれは気付いてしまった。
あの人に、出会って。
あの人に、触れて。
いつまでも、こどもではいられないのだと、知ってしまったんだ。
ごめんな、美雪。
おれは、行くよ。
何もかも全部、置いたまま…
おれの眼から、涙が零れ落ちるのを見た美雪が、困ったような笑みを浮かべて、ハンカチで涙を拭ってくれた。
「もう、はじめちゃんったら、小さな子供じゃないんだから、こんな所で泣かないのよ?はじめちゃんが泣いちゃったら、見送る方のわたしが泣けないじゃないの」
そう言う美雪の頬にも、すでに雫が零れていて、おれは切ない思いで、そっとその雫をくちびるで拭った。
どうしてかな、しょっぱいはずの涙が、なんだかとても、ほろ苦かったんだ。
「は…はじめちゃん…」
真っ赤になって後ろに身を引いた美雪に、でもおれは、いつものようなからかう言葉ひとつ、思い浮かばなくて。
ただ泣きながら、笑うことしか、できなかった。
ごめんな、美雪。ごめんな。
心の中で、何度も何度も謝りながら。
ずっと、淡い恋心を抱いていた。
大好きだった幼馴染み。
でもおれたちは、あまりにも近すぎて、愛を育てることはできなかった。
まるで、自分の分身のように大切なひと。
もしもおまえに、何か困ったことがあったら、おれはどこにいても、駆けつけるから。
今までのように、すぐ傍で支えてやることは、もうできないけど、約束するよ。かならず駆けつけて、おまえの力になる。たとえ、地球の裏側にいたとしても。
おれの誇りにかけて、誓う。
けれどいつか、おまえにも愛する人が出来て、おれの力なんて、必要でなくなるときも来るんだろうな。
その時はやっぱ、今よりも寂しい気持ちになったりするんだろうか。大切な宝物を取られてしまったような、そんな感じ、なのかな。
もしかして、今おまえは、そんな気持ちでおれを見送りに来ているんだろうか…
『しあわせに…なってね?』
美雪の、さっきの言葉。
いつから知っていたのだろう?
おれとあの人の、ことを。
気付いていたのに、黙ってくれていたんだ。
おれを、傷つけないように。
どんな気持ちで、今まで見てきたんだろう。
道ならぬ恋に、堕ちている、おれを。
美雪はこころが素直だから、きっと、変な目で見たりはしなかったんだろうな。
うん、確信を持ってそう言いきれる。
心配なおれを、そっと見守ってくれていたんだ。
そして今も、見守ってくれているんだ。
小さな頃から大好きな、幼馴染み。
そして、これからも大好きな幼馴染み。
どんなに離れていても、それだけは決して変わらない。
どんなに、離れていても。
そうだよな?
美雪…
「○○○便にご搭乗のお客様は…」
飛行機の搭乗を告げるアナウンスに、我に返る。
辺りの雑踏が、再び蘇っていた。
慌しく動き始める時間が、急かすように、おれの背中を押している。
おれは荷物を手に取ると、肩に担いだ。
大き目のバックパックひとつ。
それがおれの、十八年間の荷物のすべて。
「もう、行くんだね。はじめちゃん…」
手にしていたハンカチをぎゅっと握り締めながら、黒い大きな瞳を潤ませながら、美雪はまっすぐにおれを見つめた。
少し震えているのか、頬にかかる長い黒髪が微かに揺れている。
「つらいことがあったら、いつでも連絡してきて? わたしはいつでも、はじめちゃんの味方だよ? どこにいても、絶対はじめちゃんの力になるから…」
鼻にかかった涙声で、一気にそれだけを言い切ると、美雪は俯いて、その小さな肩を震わせ始めた。ぽたぽた、ぽたぽたと、透明な雫がいくつも零れ落ちて、足元を濡らす。
…おいおい、それはおれのセリフだって…
目の前で、声を殺して泣いている美雪を見ながら、けれど、おれのその言葉は、外に出ることは無かった。
少しでも口を開くと、おれもまた涙が溢れて、止まらなくなりそうだったんだ。
黙ったまま、美雪の頭を撫でた。何度も何度も、小さな子供をあやすみたいに。
可笑しいよな。お互いに、同じようなこと考えてんだもん。
そういや昔から、おまえとおれって、どこかしら似ていた気がする。
本当に、今までずっと一緒にいたんだもんな、無理もないか。
大好きな幼馴染み。
でも、もう、一緒にはいられない。
夢だけを食べていられた、こどもの時間は、おしまいだよ。
おれたちは大人になって、それぞれの道を歩き出す。
おれには、おれの。
おまえには、おまえの。
別々の道を。
本当はさ、全部捨てていこうと思っていたんだ。
おれが今まで積み上げてきた生活の、すべて。
おれを愛してくれていた人たちも、すべて。
でも、できないことに気付いたよ。
嘘を吐き通してでも。騙し続けることになっても。
そしてそれが、いつか自分の身を滅ぼすことになったとしても。
確かに、捨ててしまえないものはあるのだと、おまえが気付かせてくれた。
ありがとう、美雪。
さよならは言わないことにした。
たとえ、もう二度と、生きて会えなくなったとしても。
飛び立った飛行機の中で、遠ざかってゆく空港が遥かに見えなくなってしまっても、おれは美雪の影が、まだずっとそこでおれを見送っているような気がしていた。
別たれた、おれの分身。
どこにいても、いつも、おまえの幸せを祈っているよ。
着いた先の空港では、高遠がおれを待っていた。
おれは高遠の姿を見つけると、何も考えないで、その腕の中に飛び込んだ。
高遠は少し驚いた顔をして、でも嬉しそうに、おれを受け止めてくれた。
恥ずかしさもなにも、その時は感じる余裕が無くて。
嬉しさと、後ろめたさと、罪の意識と。
ただそれだけで、いっぱいで。
高遠の腕の中で、おれは、泣いた。
そんなおれを、何も言わずに高遠は、強く抱きしめてくれた。
ごめんよ、みんな。
おれは、この人を愛しているんだ。
すべてを犠牲にしてもかまわないと、想ってしまうくらいに。
己の正義も、善も悪もすべて、ねじ伏せてしまえる、くらいに。
この、人殺しの犯罪者を。
自分でも、どうしようも、ないくらい。
好きなんだよ…
長く伸びた、おれの髪。
洗面所に椅子を持ち込んで、丸い白い陶器の洗面台で、仰向けになって洗われている。
古びた金色の蛇口は、所々、鍍金が剥げていて。けれど、暖かい湯をとぽとぽと吐き出してくれていて。
小さな跳ね上げ式の木枠の窓に視線をやると、抜けるように蒼い空が、まるで、そこだけ切り取られたように、ガラス窓の向こうに見えている。
視界に入ってくるペンキの剥げかけた壁や天井、いくら洗っても、薄汚れたような色の古ぼけたタイル。
そして、おれの目の前では、白いシャツの袖を捲り上げた高遠が、すごく真剣な顔をしておれの髪を洗っていて。
笑ってしまうくらい、平和で幸せな空間に、思わず涙が出そうになる。
でも、おれは忘れてはいけないんだ。
伸びてゆく髪の長さは、おれの罪の証。
みんなを騙しながら、でも、高遠と生きることを選んだ、おれへの戒め。
この髪が肌に触れるたび、鏡を覗くたび、おれは思い出す。
あの日の美雪の涙を。その、ほろ苦さを。
自分の罪の、重さと共に。
気が付くと、柔らかい感触がくちびるに触れていて、おれはゆっくりと瞼を上げた。どうやら眠ってしまっていたらしい。
いつの間にかおれは、洗面台からベッドの上に移動していて、あんなに蒼かった空も、今やすっかり夜の帳に覆われている。
髪は乾かされて、綺麗に梳かされて…って、そこまでされてても、眼、覚めなかったんだ。我ながら凄い寝つきっぷりだと、内心、感心するしかなかった。
柔らかいと思ったのは、高遠のくちびるだったようで、啄ばむような口づけを、今もおれに繰り返している。
「目が、覚めました?」
おれが目を覚ましたことに気が付いた高遠は、間接照明が照らす、薄暗い部屋の中で、そう言って微笑んだ。
「眠り姫が王子さまのキスで目覚めたって言うのは、あながち嘘でもありませんね?」
今まで何をしても、目を覚まさなかったですもんねぇ…
感心するような、揶揄するような声音で、高遠は楽しげに呟く。
「だれが姫だ! だれが!」
真っ赤になって言い返すおれに向かって、クスリと、意味ありげな笑みを零すと、おれの髪を一房持ち上げて、恭しくくちびるを寄せた。
「きみですよ」
悩ましげな眼差しで見つめられて、おれは、さらに紅く染まる。
この人の一挙一動に、簡単に心を揺さぶられて、胸の鼓動が早くなってしまう。
ああ、おれは、このひとが、本当に、好きだ。
たとえそのせいで、傷ついてぼろぼろになったとしても、おれは、決して後悔なんてしないだろう。
たとえそのせいで、だれかを、傷つけていたとしても。
罪を重ねながら、生きてゆく。
この人とふたりで。
だれかがおれたちを裁く、その日が来るまで。
そのくせ、そんな日が来ないように、と、願いながら。
おれは、髪を、伸ばし続ける。
罪の重さに比例して。
長く、なってゆく。
05/06/22 了
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05/06/23UP
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