蜩
「なあ、たかとお」
ぼんやりと、窓辺に肘を着きながら、暇そうに外を見ていたきみが、突然、ぼくを呼んだ。
「なんですか?」
カードマジックの練習をしていたぼくは、その手を止めて、きみの方へと顔を向けた。
外開きの窓をフルオープンにして、外からの眩い日差しを一身に浴びている君の姿は、今にもその向こうに見える蒼い空へ飛んで行きそうな気がして、ふと、微かな不安をぼくに抱かせる。
その背中には、本当は真白い翼が隠されていて、いつでもぼくから逃げてゆけるように窓の傍から離れないのだと、一瞬、馬鹿な妄想をしてしまう。
ひとり、苦笑を浮かべているぼくに気付きもしないで、こちらに背中を向けたまま、きみはつまらなそうな声を上げた。
「フランスってさ、夏なのに、蝉、鳴かないのな」
何を言い出すかと、思ったら…まだまだ、子供みたいですね。
ぼくはそう考えて、なんだかほっとする。
「そうですね、蝉は本来、南の国に生息する生き物らしいですから、フランスでは寒すぎるんでしょう」
「ふ〜ん、そっか」
相変わらず、ぼくの方を見もしないで気の無い返事をするはじめに、今度は違うことが気に掛かり始めて。
「どうしたんですか? 急にそんなことを言い出して」
素早くカードを片付けると、はじめの傍に寄って、はじめの見ているものを確かめるように、窓の外を覗いた。
そこには公園の木々が、深い緑色を湛えながら目いっぱい枝を伸ばし、まるで、波のようなうねりを連ねていて、その隙間から僅かに遊歩道やベンチが見えている。向こうで煌めいているのは、池だろうか。水面に陽の光を受けて、キラキラととても綺麗だ。
広い公園内には、不思議なほど、人影は見えない。
すぐ傍で、はじめがクスリと笑みを零す。
「別に、綺麗なお姉さんを見ていたわけじゃないぜ?」
言いながら、悪戯っぽい眼差しでぼくを見上げた。
夏の日差しを浴びて、きみの大きな黒目がちの眼が、光りを捕らえて、明るく輝いている。
それは、煌めく水の眩さにも負けないくらい、美しいと、思う。
「…読まれてましたか…」
「うん、そんなに短い付き合いじゃねーもん♪」
楽しげに微笑むきみを見ながら、ぼくは今度は、幸せな気持ちになる。
どうしてかな?
きみの仕草一つで、ぼくは簡単に、不安にも、幸せにもなってしまう。
できることなら、このまま時を止めてしまいたい。
きみと、離れることの、無いように…
「たかとお? どうかした?」
きみの言葉に、我に返る。少しぼんやりしていたらしい。
「ああ、すみません。少し、考え事をしていたようです」
「ふうん」
少しの不安を滲ませながら、はじめがぼくを見上げている。
ぼくたちの暮らしは幸せだけれど、いつも、どこかしら不安を抱えていて。
けれど、きみだけは、その瞳を曇らせないで、真っ直ぐに、光りを湛えていて欲しい。
そのためになら、ぼくは、どんなことでもしよう。
「で、蝉が、どうしたんですか?」
話の本題に戻すべく、ぼくは、蝉のことを聞いてみた。
「ああ…うん。蝉な…」
言い出したはずのはじめが、今度は言葉を濁した。視線を逸らしながら。
「どうかしましたか?」
ぼくが顔を覗き込むと、一瞬だけ、悲しそうな表情を浮かべた…気がした。
「…うん。ほんとなら、日本では今頃、蜩が鳴いているんだろうな、と思ってさ」
「ひぐらし?」
「うん。あの、『カナカナカナ』って鳴くヤツ」
「ああ、聞いたことあります」
「おれのジッちゃんがさ、あれは、『かな、かな、かなしい』って、言ってるんだって教えてくれたんだ」
「かなしい、ですか」
「そう」
窓の外に視線をやりながら、寂しそうに、懐かしそうに、きみは微笑む。
なにを思い出して、そんな表情をしているのか、ぼくは酷く気になって。
「はじめ?」
けれど、ぼくの声に、こちらに顔を向けたきみは妙に真剣な顔つきで、思わずぼくは息を飲んだ。
「ジッちゃんがさ、あれは夏が終わるのが悲しいんだって、言うんだ。だって蝉ってさ、外に出てきたら、短い夏を謳歌してすぐに死んじゃうだろ? その夏を最後に惜しむのが、蜩なんだって」
今にもきみが、泣きそうな気がして、ぼくはそっと、きみの頬に手を当てた。するときみは、ぼくの手の上に手のひらを重ねて、ぎゅっと握り締めてきた。
「暗い土の中では、何年も生きていられたのに、外に出て、自由に飛びまわれるようになったら、あっという間に死んじゃうなんて…さ……かなしいよな」
堪えかねたように、ゆっくりと閉じられた瞼の下から、雫が一粒、零れ落ちる。
きみが、なにを言いたいのか、なんとなく、ぼくにはわかった気がした。
「…きっと幸せですよ。たとえ短くても、精一杯生きたのなら…」
陽の光を受けて、まるで美しい宝石のように光りを弾いて煌めくきみの涙を、くちびるで拭いながら、ぼくは囁く。
「…たかとおは…後悔してない?」
「なにを、後悔することがあるんですか?」
「…だって…あっ…ん…」
きみの涙で濡れたくちびるのまま、きみのくちびるを塞いで。
その言葉も、吐息もすべて、奪い取って。
強く、抱きしめる。
後悔なんて、するわけが無い。
たとえ、これが短い夏だとしても。
暗闇の中で暮らすよりも、ずっと、幸せだよ。
「きみは、後悔、してるんですか?」
長いくちづけの後で、きみを胸に抱きしめたまま、今度は、ぼくが問いかけた。
きみは、ゆっくりと首を横に振りながら、ぼくの背中に腕を回す。
「そんなの、するわけ無いだろ」
迷い無く返される答え。
「でも、おれって我侭だからさ。いつまでも、ずっと一緒に居たいと思っちゃうんだ」
背中に回されたはじめの腕に、力がこもる。
「短い夏なんて、おれは嫌なんだよ。たかとお…」
その声は、少し、震えていた。
ずっと、一緒に、いたい
それは、ぼくも同じだよ。はじめ。
けれどいつか、ぼくたちは離れ離れになるときが、来るだろう。
そして、それはすべて、ぼくのせい。
決して、好きになってはいけない人に、恋をして。
道連れにしてしまった、ぼくの罪。
でも…
やっぱり、後悔なんて、しないんだ。
我侭なのは、きっと、ぼくの方だね。
「大丈夫ですよ。心配しないで」
「たかとお…?」
真っ直ぐに、潤んだ瞳で見上げてくる、きみの眼差しを受け止めながら、ぼくは微笑む。
「もしも、今、ぼくたちが離れ離れになってしまったとしても、いつか必ず、きみを迎えに行きます」
「たかとお…おれは…」
「たとえ、死んでしまったとしても、いつか遠い未来でまた生まれ変わって。それでも必ず、きみを見つけるから。何度でも、きみを探すから……だから、泣かないで」
大きな眼から、ぽろぽろと涙を零し始めたきみの額に、そっと誓うように、くちづけを落として。壊れ物を扱うように、抱きしめる。
「…おれは…やだよお…そんなの…いやだ…ずっと…たかとおと…一緒にいたい…」
ぼくにしがみつきながら、きみは嗚咽を、洩らし始めた。
ぼくのシャツが、きみの涙を含んで湿り気を帯びて、きみの痛みを、ぼくに伝える。
抱きしめる手に、力を込めよう。
きみに、この想いが、伝わるように。
「…そうですね、ずっと、一緒に、いましょう…」
はじめの身体を抱きしめながら、ぼくの頬にも、雫が零れ落ちて行く。
誓いますよ、はじめ。
ぼくたちの夏は、終わらない。
たとえ、どんな姿になろうとも、ずっと、きみの傍に。
ぼくの心は、未来永劫、きみだけのものだよ…
抜けるように、蒼い空に。
眩い日差しが、輝いている。
風に梢を揺らす、木々のざわめきに混じって。
ふと、聞こえるはずの無い、蜩の鳴声が。
聞こえた。
気がした。
一生に、ただ、一度の恋。
一生に、ただ、一度の夏。
儚い恋人たちの運命を、哀れむように。
かな かな かなし
かな かな かなし
蜩が、泣いている…
05/08/28 了
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−新月−
05/08/28UP
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