風を切る音 Y
闇の中、高遠がひとりで、ぼんやりと空を見上げていた。
おれも同じように見上げるけど、何も見えはしない。ただ、暗いだけの空間だ。
夜だとも思えないほどに、深く暗い、真性の闇。
でも不思議と高遠の姿だけは、おれの目に、はっきりと映っているんだ。
ただぼんやりと、所在無げに心細そうな表情を浮かべながら、佇んでいる姿が。
「たかとお!」
おれが声を掛けると、高遠は気だるげに首だけをこちらへと向けた。闇の中で、高遠の月の色を映した虹彩だけが鮮やかな色彩を放っている。けれどそれは、酷く寂しげに、見えた。
傍に行こうとしても、なぜだか、おれの足は動かない。
手を伸ばして、何度も高遠を呼んだけれど、高遠は寂しげに微笑んでいるばかりだ。
そのうち、ゆっくりと高遠の身体が闇の中に、その足元に広がる暗い闇に、飲まれてゆくように沈み始めていることに、おれは気がついた。
「たかとおっ! 沈んじまう! 早くこっちに手を伸ばせよ!」
おれは動けないながらも、助けようと必死で手をいっぱいに伸ばしていた。目の前から、高遠がいなくなってしまうなんて、そんなの、絶対にイヤだ。
それなのに、おれの必死の声にも高遠は薄く笑いながら、ポケットに手を突っ込んだまま。
こんな時に、何カッコつけてるんだよ!
頭の中でパニクりながら、それでもおれは、叫ぶことを止めない。
本当に、必死だったんだ。
高遠の身体は、確実に、ゆっくりと沈んでゆく。
まるで、底なし沼にでも、沈んでゆくみたいに。
「いやだっ! たかとおっ!!」
と、もう胸まで沈んだ高遠が、初めて、口を開いた。
「…きみを、連れてゆけない…」
「たかとお?」
「ぼくのいる世界に、きみを連れてはゆけない。この先は、とても暗くて、冷たいんです。だから、もうさよならですよ。はじめ…」
おれを見つめる、高遠の月色の眼差しは、どこまでもやさしくて、哀しくて。
おれは。
「いやだあ! いやだよお! たかとおっ!!」
涙が、止まらない。
高遠は、もうすぐ全部沈んで、見えなくなる。
おれはひとり、ここに取り残される。
この暗闇を作り出しているのが高遠だとしても、高遠がいなくなったら、この闇が晴れるのだとしても、でも、そんなの、駄目だ。
どんなに、冷たい闇の中でもいい。
あんたの傍に、居たい。
ずっと、一緒に、いたいんだよっ!
たかとおっ!
「たか…!」
「はじめ、大丈夫ですか?!」
気がつくと、すぐ、目の前に高遠がいて。
おれの顔を、心配そうに覗き込んでいる。
「…たかとお…?」
おれが呼ぶと、ホッとしたような笑みを浮かべながら、おれの髪を、その白い綺麗な手で、そっと掻き揚げた。
「急にうなされ始めたんで驚きました。怖い夢でも、見たんですか?」
「…うん…」
いつもと変わらない高遠に、なぜだかおれは泣きたい気分になってしまって。そのまま腕を伸ばすと、高遠の首に絡ませて、きゅっとしがみ付いた。
「どうしたんですか?」
おれの突然の行動に、高遠らしくない、少しばかり驚いたような声を上げながらも、どこか嬉しそうに、おれの身体を抱き返してくれる。
その手の温もりが、その腕のやさしさが、素肌の感触が、胸に暖かいのに。
どうしてだろう? おれの中の何かが、苦しいと訴える。
「…う…うっうっ…」
嗚咽を堪え切れなくて、声を洩らして泣きはじめたおれに、高遠は本気で驚いたらしい。
「はじめ? 一体どうしたんですか? 身体がつらい? 少し、無理をさせすぎました?」
「…そんなんじゃ…ないやい…」
なんで、こいつの思考回路は、そっちの方に行ってしまうんだろ?
…ってまあ、ヤッたばかりだからか。おれ、気を失っちゃったんだもんな。心配すんのも無理はないか。
高遠の胸に顔を埋めて、色々考えるけど、涙は止まってくれない。
泣いているおれの頭に手を回すと、高遠はその腕に、少しだけ力を込めた。
「…困りましたねえ。…こんなに可愛いと…攫って行きたくなってしまいますよ」
「………っていって…」
「えっ?」
「…攫って行って。…そんで、ずっと、おれの傍に…いて…ずっと一緒に、いてくれよ…」
「はじめ…?」
「…ひとりで…闇の中になんか、行かないで。…おれも、連れてって…」
「……………」
高遠は黙ったまま、突然、おれを引き剥がすようにベッドに押し付けると、その、押さえつけた姿勢のまま、怖いくらい真剣な眼差しで、おれを射た。
室内を充たすオレンジの照明を映した高遠の眼が、深く濃密な琥珀色に染まっている。その奥で、暗い情熱を湛えた焔が、燃えさかっているのが見えるようだ。
「はじめ…それがどういうことか、わかって言っているんですか?」
硬い…声だった。
真剣な、表情だった。
高遠の本気が、一瞬、垣間見えた…気がした。
「…うん…」
おれも、偽りのない心で、言葉を返す。
半端な気持ちで、おれがこんなこと、言うわけないのに。
そんなことも、わかんないのかよ…たかとお…
いつもどこか、高遠はおれの気持ちを、信じてくれていない。
男が、自分の身体を女みたいに扱われることに、どれだけの覚悟を必要とするのかを、理解できないのか。
本気でおれと、向き合うのが、怖いのか。
それとも、
…ただの遊び…だからなのか。
でも、それだけは無いと、高遠の眼差しは語る。
冷たい光を常に孕んだ、冴えた月の色を湛えた瞳。それが、おれに向けられるときだけは、違う表情を見せるんだ。
狂ったような激しさと同時に、深い慈しみをも秘めた熱を内包している。そんな、眼差し。
以前は、挑発的な、どこか憎しみにも似た執着を高遠から感じていた頃もあったけれど、今はそんなもの、跡形も残ってはいない。
おれのことを、とても大切に想っていると、ただそれだけを、語り続けているようで。
そのくせ、どこか、何かを諦めてしまった哀しさを、孕んでいるようで。
そんな高遠の瞳を見つめていると、胸が、痛くなる。
「…なんで、そんな眼で、おれを見るの? …おれが、信じられない?」
「…そんなことは、ありません。…ただ、ぼくは…」
そう言って、たかとおは、苦しげに唇を噛んだ。
初めて見せる、顔だった。
そしてそのまま、高遠は、おれの胸に顔を埋めると、少しの間、沈黙した。何かを堪えている気配が、高遠の身体から直接、おれに伝わる。
「…どうして…きみだったのかな…? …本当に神さまは…意地悪だ…」
高遠の、その呟きにも似た一言は、おれの心を、深く、衝いた。
「何度も、何度も否定したのに… 自分でも、どうしようもなかった。…あの時、きみを攫って、全部否定できると思ったのに…なのに…逆に、自分の想いをはっきりと自覚してしまった…」
高遠の声は、酷く震えている。
まるで、泣いているみたいに。
「…殺してしまえ…と、何度も思ったんですよ。…それこそ、焼け付くような、想いで…」
おれは、何も言えなかった。
今まで、一度も聞けなかった高遠の本音が、確かに語られていると感じていた。
「でも、できなかった… ぼくは、きみの心が欲しいのだと…気付いてしまったから……おかしいでしょう? 今までのきみへの執着も、すべては自分を見て欲しかったからなのだと、気付いてしまったんですよ」
自嘲するような嘲りを含んだ声で、高遠は続ける。
「……まるで…子供だ… 好きな子に振り向いて欲しくて…ぼくは更なる罪を…重ねていたんでしょうかね…?」
おれは、なにも答えられない。
その問いは、あまりにも、重すぎる。
「だからまさか、本当にきみが、このぼくに想いを返してくれるとは、想像もしていなかったんです。…血で穢れたこの手の中に、きみを抱ける日が来るなんて…本当は信じていなかった。だから…きみを手に入れて…もっと、苦しくなるなんて…思いもしなかった…」
「なんで? なんで、苦しいんだよ?」
「…きみと…ぼくの住む世界が…あまりにも違いすぎるから…」
高遠は、ゆっくりと顔を上げると、乱れた前髪もそのままに、口元に薄く笑みを刻んだ。
そうして、おれの頬に、そっと触れた。
熱があるんじゃないのかと思えるほどに、その手のひらは熱い。
「たかと…」
「…はじめ… きみは、ぼくのところまで、堕ちてきてくれるの? たくさんの人の命を奪ったぼくを、許せるの? …ぼくは、きみに見つめられるたびに、怖かった。いつか『やっぱり、許せない』と言われるんじゃないかと、怖くて仕方がなかった。…そうなったら、ぼくはきみを殺してしまうんじゃないかと… それが、一番、怖かった…」
高遠の手は、微かに震えている。
それは、どれほどに深く、おれを想っているのかということを、如実に伝えてくる。
なんだ…
たかとおも、おれと同じじゃんか。
同じように、不安を抱えて、同じように、悩んで。
殺そうと思ったとかって、物騒なこと言ってるけど、でも結局は、おれと同じように想ってくれているんじゃん。
なんだ、おれだけじゃ、無いんだ…
そのことが、単純に嬉しくて。
笑みを浮かべようとするのに、なんでか、涙が浮かんでしまっていた。
「…この涙は、なに?」
おれの眦から零れ落ちた涙を、指先で拭いながら、高遠はやさしい声で訊ねてくる。
全部、言ってしまったとばかりに、紅い唇には、苦笑を浮かべながら。
おれは、頬に当てられたままの高遠の手の上に自分の手のひらを重ねると、そっと頬を摺り寄せた。
「おれ…今まで、すごく不安だったんだ。…もしかして、高遠は遊びなんじゃないかって…思ってて…」
「どうしてそんな馬鹿なことを、考えていたんです?」
「…だって、高遠ってば、全然本音を見せてくんないから…でも、不安なのはおれだけじゃないんだってわかって、安心した」
「…はじめ…」
「おれは、なにがあっても、たかとおが好きだよ。あんたのためになら、全部捨てても…いい」
おれの言葉に、高遠が息を飲んだのが、わかった。
時間が、まるで止まってしまったかのような気がしていた。
触れ合わせたままの身体から、互いの鼓動だけを感じながら、黙っていた。
高遠は微動だにしなかったし、おれもまた、動けなかった。
乱れたままの長い前髪の間から、高遠の眼が穏やかな光を湛えているのが、見えていて。
それは、とても綺麗で。
おれはただ、魂を奪われたみたいに、見つめ続けるしかなかったんだ。
おれの、好きな人。
おれの、ただひとり。
どうしてここまで、だれかを好きになれるのだろう?
どうしてここまで、この人のことを想ってしまうのだろう?
この人は間違いなく、許されざる犯罪者なんだ。何人もの人をその手で殺して、さらには自分の手を汚さずに、犯罪に加担したりもしてきた悪い人間。
おれはというと、何度も運悪く犯罪の起こる場所に居合わせ、幾つもの犯罪を暴いて、涙する人たちをたくさん見てきた。
そのせいなのか、正直、犯罪を許すなんてことは、絶対にできないだろう。
だから、高遠の言うように、おれたちがこうして互いに恋愛感情を持っていることなんて、本来ならあり得ないことだとは思うんだ。
でも。
おれたちは、互いに、惹き合ってしまった。
まるで、正反対だからこそ引き寄せあう、対極のように。
そうだよな、たかとお。
神さまは、意地悪だよな。
もっと早く出会っていれば、おれもあんたも、きっとこんなにも苦しまずに、済んだのに。
でも、あんたが犯罪者になってなかったら、おれたちは出逢えなかったかもしれないし、たぶん出逢っても、惹かれ合ったりはしなかったんだろう。
今の、あんただからこそ。
きっと、そういうことなんだ…
「たかとお、あんたは…? おれのために、全部捨ててくれる?」
沈黙を破ったおれの言葉に、高遠は再び笑みを浮かべると、おもむろに前髪を掻き揚げた。
一瞬、形の良い額が露になって。そして、髪が落ちてきたときには、乱れはもう素直になっていた。
「きみの口から、そんな言葉が聞けるとは、それこそ想ってもみませんでしたよ」
不敵とも思える声で、けれど、瞳には穏やかな光を湛えたままで。
「最初から、きみが欲しいと思ったときから、すべてを捨てる覚悟はできていましたよ。きみのためになら、この命も捧げましょう」
おれの問いに答えながら、そのままおれの上に覆いかぶさると、高遠は唇を唇で塞いだ。
与えられたキスはかなり濃厚で、おれは、また酸欠で意識が飛ぶかと思ったくらいだ。
ようやく唇が離されたときには、おれの息は上がっていて、高遠の瞳の中には、再び欲情の色が、揺れていた。
高遠の、白いしなやかな指が、ゆっくりとおれの髪を掻き揚げる。
おれはただ、高遠を見つめていた。
「ぼくと一緒に、暮らしますか?」
高遠は、笑みを浮かべながら、そのくせ、眼には真剣な光を帯びながら、おれに聞く。
答えは?
少し首を傾げて、余裕のある表情を見せて、返答を求める。
けれど、その指先が微かに震えていることに、おれは気がついていた。
ああ、本当に高遠でも、怖いと思うことがあるんだな、なんて。意外と冷静に、おれは考えていたりして。
だから、思わず、微笑んでいたらしい。
「どうして…笑うの?」
首をかしげたまま、問いかけてくる高遠の首に、もう一度腕を絡ませて、おれはとても幸せな気持ちでいっぱいになっていた。
「うん、一緒に暮らそう、ずっと…」
おれの言葉に、一瞬、大きく目を見開いて。
そうして、今にも泣きそうな笑みを浮かべて。
「…そうですね。ずっと、一緒に…暮らしましょうか」
誓い合うように、おれたちは唇を重ね合わせた。
きっと、ふたりで暮らしても、不安が消えないのはわかってる。
この人は犯罪者で、そして、この人と共に逃亡するおれも、犯罪者になるんだろう。
未来など望めるわけも無く、きっと、恩のある人たちを、たくさん傷つけることになるだろう。
でも…
それでもおれは、この人を、選ぶ。
おれの心が、それ以外の選択肢を選ぶことができないから。
だから最後まで、見届けなくちゃいけないんだ。
おれたちが、どこへ向かってゆくのかを。
風は、常に前からきつく吹きつけてくるだろう。
容易い道などで無いのは、わかってる。
でももう、知ってしまったこの人の温もりを、手放すことなんて。
おれには、できないんだよ。
「本当に、大丈夫ですか?」
「今頃なに言ってんだよっ! 誰のせいだ、誰の!」
「返す言葉もありませんね」
殊勝なことを言う割には、ちっとも反省なんかして無さそうな高遠に、むっと来る。
バイクに乗るのを手伝ってもらいながら、思い切り睨みつけてやったけど、全然効いて無さそうだ。
無理をさせられた腰には、まったく力なんて入んないし、仕方なく高遠の背中に、全体重を預けてしがみつく。
「すみませんが、フライトまであまり時間に余裕が無いので、少し急ぎますけど…」
腕時計を覗き込みながら、何気に申し訳無さそうに、高遠が言う。
「なんでそんな時間になるまで頑張ってんだよ!」
「う〜ん、きみが魅力的過ぎるから?」
「この馬鹿っ!!」
ヘルメットの中で、真っ赤になりながら言い返していると、くすくすと高遠が笑っているのが、抱きしめている身体から伝わってきた。
…あのお、やっぱ、むかつくんですけど? 後ろから、グーで殴っちゃ駄目ですか?
とか、こっそり考えていると、高遠の笑いはすぐに収まって、おれの手の上に手を重ねると、ぎゅっと握ってきた。
「今度の仕事が終わったら、すぐに戻ってきます。だからこの手を、離さないでいてくださいね…」
ひどく、真剣な声で。
「…うん」
高遠がアクセルを吹かすと、軽快なエンジン音が響き、そして、今やすっかり夜の顔を見せている世界へと、おれたちを乗せて滑り出す。
風の唸る音が、昼間と同じように、ヘルメット越しに聞こえてくる。
向かい風の中を、ふたりで走り続ける。
高遠の背中で、その温もりを腕の中に感じながら、おれは目を閉じた。
風の音を聞きながら、この先にあるはずの、決して平坦ではありえないだろう道を想う。
大丈夫だ。
ふたりでなら、きっと、堪えられる。
いつか、失ってしまうかも知れないのなら、少しでも長く、傍に、いたい。
風を切って、走ろう。
息が切れて、倒れてしまうまで。
その時、笑っていられるように、後悔無く、生きたい。
この人と、一緒に。
ずっと、一緒に。
そう、風の音を、聞きながら。
05/11/03 了
06/06/16 改定
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「風を切る音」完結です〜。
半分以上書き直してしまったんですけれど、どうかなあ?
って、日記にアップしていた話を覚えてる人はいないと思うけど(笑)。
少しでも、楽しんでいただける事を、願って…
06/06/16UP
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