ハピネス




高遠は、黙ってる。
おれも、黙っている。
気まずい空気が、部屋の中に漂っている。

初めから、わかっていたことなんだ。
知っていたはずなんだ。
なのにおれは、なにかを、勘違いしていたのかもしれない。
高遠は、変わったんだと…



きっかけは、おれが裏の公園で拾った、子犬だった。

たまたま、いい天気だったから、公園に散歩に行ったんだ、ひとりで。
ジョギングしている人やら、ベンチでうたた寝しかかってるお年寄りやらを横目に見ながら、機嫌よく歩いていた。こっちってさ、冬場は意外と曇りの日が多いんだよね。晴れてもせいぜいが、午後のような日差ししか射さない。
太陽の位置自体が低いんだ。だから、沈むのも早いしな。なんかもう、夜が長い長い。
高遠はどっちかっていうと、夜型だから、そんなこと、気にもなんねえのかもしれないけど。
で、三月になって、やっぱり少しずつでも、春らしく日差しも明るくなってきて、気持ちがよかったから、散歩に出たってわけだ。

まだ肌寒いけど、緑はすでに小さなつぼみを膨らませていて、さりげなく春の訪れを告げている。そう言えば最近、小鳥の鳴き声も賑やかになってきたような。
そんなことを考えながら、機嫌よく、遊歩道を散策していたときのことだった。
突然、傍の植え込みから、微かな鳴き声が聞こえた気がして、おれは足を止めて、耳をすませた。確かに、どこからともなく、子犬らしき声が聞こえてくる。
おれは咄嗟に、植え込みの中に手を突っ込んで探していた。だって、子犬の鳴き声は、今にも消えてしまいそうなくらい、頼りなく聞こえたんだ。
小枝に手を引っ掛けたりして、小さな引っかき傷をいっぱい作りながら、ようやく見つけた子犬は、やっぱり、ぐったりと身体を横たえたまま。それでも、懸命におれの方に顔を向けると、ぱたぱたと力なく、小さな尻尾を振って見せた。
ガラス玉のように、澄んだ茶色い瞳の、ビーグル犬の血を引いているのだろう、垂れた長い耳が特徴的な、まだとても小さい子犬。
かなり弱っているのか、横たわったまま動こうとしない身体を、おれは両手でそっと抱き上げると、急いで部屋へ連れ帰ったんだ。

「はじめ、言い難いんですけど…、この子犬は、もう駄目ですよ」

おれが抱きかかえている子犬に怪訝な眼差しを投げてきた高遠は、読んでいた英字新聞をソファーに置くと、そばに寄ってきた。
そして、クッションの上にそっと置かれた子犬を見て、放った第一声がこれだ。
「なんで?! そんなの、医者に診せないとわかんないだろ!!」
当然のように反発するおれに、高遠は困ったとでも言いたげな視線を向けながら、少し首を傾げた。
「…じゃあ、はじめは助かると思うんですか?」
「…わかんないじゃん…そんなの…」
目の前の子犬は、息も絶え絶えに口を開け、だらりと舌を垂らしたまま、身体全体で短い呼吸を繰り返している。ものすごく、苦しそうだ。
おれが見ても…もう、だめかも…という気になってくる。
「…でも、医者に診てもらったら、よくなるかもしれないじゃん…」
おれの言葉に、高遠は口元に手を当てて、何事かを考えるポーズをとった。
「ねえ、はじめ」
「…なに?」
高遠は、おれに顔を向けると、冷たい光を纏った眼差しでおれを見た。いつもとは違う、高遠の顔で。
「安楽死、させてあげるのも、一つの手かもしれませんよ?」
何を言われてるのか、一瞬、頭が拒絶していたらしい。きっと、馬鹿みたいに間抜けな顔で、高遠を見ていたんだろう。
「はじめ? 大丈夫ですか?」
もう一度、掛けられた高遠の声で、おれは我に返った。
「そ…そんなこと! できるわけないだろ! こいつは、まだ生きてるんだぞ!!」
「感情論ですね。辛いのは本人なんですよ? 苦しみを長引かせるだけです」
「でもっ! こいつだって、一生懸命生きようとしてるんだ! 安楽死なんて…そんなの間違ってる!!」
思わず、高遠を、睨みつけていた。
子犬は、確かに、弱弱しく苦しそうな息を繰り返す。本当に、もう駄目かもしれない。
でも、公園でおれを呼んだんだ! 生きてるんだ! 最後まで、生きようとしてるんだ!
何とかしてやりたいと思うのは、間違ってんのかよっ?!

そんなおれから、高遠は静かに視線を外すと、小さくため息をついた。
「…こんなとき…きみとぼくとは違うのだと…思い知らされますね…」
感情を抑えて、呟かれた言葉に、おれはなぜだか軽いショックを受けて、涙が零れた。けれど高遠は、おれを見ようともせずに、言葉を続ける。
「きみが助けたいと言うのなら、医者に診せますか? アドレスを調べてみますよ…」
高遠は、部屋の隅に置いてあるパソコンに向かうと、黙って、近くの獣医を検索し始めた。



高遠の運転する車で、調べたその獣医の所へ向かう途中。
子犬は、力尽きたみたいに、息を、しなくなった。
おれの手の中で、最後に、小さく痙攣を繰り返して、クウンと鳴いて。
そして、動かなくなった。

高遠は、何も言わなかった。
おれも、黙っていた。
涙が、次から次へと溢れてきて。
動かなくなった子犬の上に、零れ落ちていった。
両手のひらの中に、すっぽりと納まってしまうくらい、小さな子犬。

こんなに早く天に召されて、おまえはいったい何のために、生まれてきたんだろうな…

まだ暖かいその身体を、手の中に包み込んで、おれは、そんなことを、考えていた。


結局、おれたちは、たどり着いた先の動物病院で、いくらかの金を払って、その子犬の遺体を引き取ってもらったんだ。




帰り道でも、部屋に戻ってからも、おれたちは言葉を交わさなかった。
重く、沈黙が圧し掛かる。
乗り越えられない違いを、互いに思い知らされて。

本当は、高遠の言い分も、わからないわけじゃない。
助からないとわかっていて、苦しみを長引かせるのは残酷だと、高遠は言いたいんだ。
でも、おれは、諾と頷くことができない。
そんな風に、命を、自分の判断で勝手にどうにかしていいものじゃないと、おれは思うから。
命に、決められた長さがあるのなら、目いっぱい生きないと駄目なんだと、思うから。
誰にでも、どんな生き物にでも、唯一つしかない、大切なものだと、思うから。

なあ、そうだろう?



そして、おれたちは、同じ部屋の中で、ずっと、だんまりを決め込んでいた。
高遠が時折捲る、新聞の乾いた紙の音だけが、部屋の中に聞こえる唯一の音だ。
おれは、何を言っていいのか、わからなかった。
高遠は、やっぱり高遠だったんだな、なんて、シャレにもならない。
やっぱり、たかとおにとって、命は紙切れ並みに軽いままなのかな?
ひとは、そんなに簡単には、変われない。
おれが、おれのまま、考えが変わらないように。

でも…
おれは…



「…そんな悲しい目で、ぼくを見ないでください」
最初に、口を開いたのは、高遠だった。
根負けしたように苦笑を浮かべると、広げていた新聞を綺麗に畳んで、また、ソファーに置いて。そうしてから、おれの傍に来ると、高遠はそっと頬に触れてきた。
白くて綺麗なその指先が、少し冷たい。
「おれ、そんな目で、あんたのこと見てた?」
「ええ。まるで、捨てられた子犬みたいな目で」
くすりと、高遠が口元に笑みを浮かべる。おれだけに見せる、いつもの高遠の顔で。
「たかとお、おれ…」
しっ、と言いながら、高遠はおれの唇を人差し指で押さえて、続く言葉を遮った。
「もう、何も言わないで。ぼくたちが違うのは、最初からわかっていたはずでしょ?」

うん…
知っていた。
あんたは、人殺しで、犯罪者で、悪い人だって。

それでも、
あんたは、おれの愛した、ただひとりでも、あるんだ。
だから、知りたくなかった。
おれたちは、交じり合わない平行線だなんて。
決定的に、違う何かが、おれたちを隔てているんだなんて。

「たかと…」
細い身体に擦り寄って、その肩に、甘えるように頭を持たせかけて。
涙が出そうになるのを、目を閉じて我慢していた。
すると。
「違っていても、いいじゃないですか」
突然、おれの考えを読んだみたいに、高遠は言った。
「どんなに仲のいいカップルでも、多かれ少なかれ、違いはあるものですよ」
「…うん…」
肩に乗ったおれの頭に、そっと頬を摺り寄せながら、高遠は笑う。
「それに、もうぼくたちは『交じり合わない』なんていう関係じゃ、ないでしょう?」
「…たかとお、それ、ストレートすぎ…///」
「でも、本当のことでしょ?」
持たせかけた頭を通して、高遠の身体から直接、くすくすと笑う声が聞こえて。
おれは、ほんの少しだけ、胸の中が熱くなるのを感じた。

どんなに違っていても、決して、交じり合うことのない価値観がそこにあっても、おれがこの人を好きだと想う気持ちに、変わりはない。
なら、この人の言うように、それでいいのかな?
違うことを、理解しあいながら、たまには、ぶつかり合いながら、それでも一緒にいられれば、それでいいのかな?

「ぼくは、きみが傍にいてくれさえすれば、それでいいんですよ…」
本当に、この男は…おれの考えてることが、見えてるんだろうか?
「…おれさあ、たかとおって、なんで、おれの考えてることがわかるのかって、不思議になるときがあるよ…」
「おや? そうなんですか?」
「あれ? 自分では気付いてなかったのか?」
高遠がびっくりしたように言うもんだから、おれは、思わず高遠の顔を覗き込んでいた。
もう、この男は、垂れ目をぱちくりさせて、おれを見つめ返してくるんだからなあ。
こんな時、高遠の中の純粋なままの部分を、垣間見てしまう。

怖い男で、悪い男で、頭が良くて、人を欺くのが好きで、そのくせ、どこか子供で。
おれに、どうしようもなく、好きだと想わせる。
本当に、ずるい男だ。

「…おれ、たかとおが…好きだよ…」
おれが、素直に言葉にすると、さらに、大きく目を見開いて、少しの間、おれを見つめた。
それから、高遠は、とても嬉しそうに微笑んで。
「いつも、こんなに素直だと、嬉しいんですけどねえ」
言いながら、おれの身体を抱き寄せて、そして、強く抱きしめる。
「ぼくも、好きですよ。誰よりも、きみのことが…」
ベッドの中で囁くときの、低い、掠れる感じの声で言われて。そのまま、唇を奪われて。
「…違っていても、嫌いにならないで …ぼくを受け止めていて…ずっと…」
口づけの合間に、そう囁かれて。おれは、「うん」と答えるだけで、精一杯だった。





「…はじめ…」
ベッドの中の、満たされた気だるい余韻の中で、高遠はおれの胸に顔を埋めながら、おれを呼んだ。
「…ん…?」
もう、身体がだるくて、眠りかけた頭のまま、おれは返事を返していた。
「…あの子犬は…かわいそうなことをしましたね…」
ぽつりと、高遠が零した言葉に、けれど眠りかけていた神経は、非常にクリアーな覚醒を促されて。
「たかとお…」
「名前ぐらい、付けてやればよかった…」
そう言って、高遠はおれの身体を抱きしめた。おれも、高遠の頭を抱えるようにして、抱きしめた。
高遠は高遠なりに、子犬のことを、ちゃんと想ってくれていたんだ。

うん…
知ってる。
本当は、やさしいんだよね。

残酷で。やさしくて。とても大人で。どこか子供で。
常に二つの顔を併せ持つ、たかとお。

おれとは、まるで違う感覚の価値観を持つこのひとを。
おれの知らない、暗い世界を見つめるこのひとを。

それでも、やっぱりおれは、好きだと想ってしまうんだ。
たぶん、これからもずっと、変わらずに…



そうだ、たかとお、今からでも、あの子犬に名前を付けよう。
幸薄かった、子犬に。
今度、生まれてくるときは、幸せになれるようにってさ。
短かった命にも、意味があるんだと、言えるように。

…そして、おれたちは、子犬の名前を「ハピネス」に決めた。




06/03/19   了

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久しぶりに、『LOVERS』突発モノをアップするような気がしますが、どうだっけ?
え〜〜、どうしてこの題なのかと、不思議なんですが、すごく悩んだんです。
最初に考えていたのとは、まったく違う話になってしまったものですから…
どうして、こんなにラブラブに収まっちゃったんだろう? う〜ん(悩)。

ちなみに、このお話の中に出てくる「安楽死」についての考え方は、わたしはどっちかと言うと、たぶん、高遠くん側だろうかなと思います。
はじめちゃん視点で、書いてはいますが…
考え方や感じ方は、人それぞれ違うものなのだということを、書きたかったのかな?
書きあがると、なんかよくわからなくなっちゃうのが、いつものことで(笑)。

最後まで、読んでくださって、ありがとうございましたv
なにかを感じてくだされば、幸いです。

06/03/19UP
−新月−

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