永遠の鐘が鳴るとき
石畳の道を真っ直ぐに歩いて右に曲がるとすぐに、その目立つ紅いテントのパン屋が見える。以前、雪の日の朝に高遠と一緒にパンを買ってから、度々おれたちはそこで買い物をするようになっていた。
木製のドアを開けると、焼きたてのパンのいい匂いが鼻をくすぐる。
たくさんのパンが、やさしげな風合いの古い木の棚に所狭しと並べられ、店の真ん中に置かれている、これまた古びた木製のテーブルにも、籠に入れられた何種類ものフランスパンが、勢ぞろいして客を出迎えてくれる。
いつもと変わりない店のたたずまいに、少しだけ、おれは胸が痛くなった。
『やあ、いらっしゃい。今日はフランスパンの出来が最高だよ。いつものことだがね』
気がつくと、店の主人のおじさんが、レジの所に来てニコニコしている。
綺麗に禿げ上がった頭に、白いコックさんみたいな帽子を被って。それとお揃いの、白い制服の袖を捲り上げて、大きなお腹を揺らしながら笑う、陽気な店の主人。
『こんにちは。ここは、今日もいつもと変わらずに営業しているんですね』
高遠が、静かな口調で訊ねている。とても、穏やかな笑みを浮かべて。
『ああ、いつもと同じように営業しているよ。おれの作る美味いパンを食いたいって人は、たくさんいるからね。だから最後まで、店は開けておくつもりだよ』
『それは、みんな喜んでいるでしょう』
高遠の返事に嬉しそうに頷きながら、ふと、思いついたとでも言うように、店の主人が口を開いた。
『あんたたちは東洋人だろう? 家には帰らなくていいのかい?』
その言葉に、思わず、おれたちは顔を見合わせた。
高遠の目にも、同じ問いが浮かんでいるのを、おれは知っている。それは、もう何度も、高遠の口から聞いたセリフだ。
だから、おれは答えた。
『うん、帰らないよ。帰ったら、おじさんの美味しいパンが食えなくなっちゃうだろ?』
おれの答えに満足したのか、おじさんは、それはそれは楽しそうに、お腹を大いに揺らしながら笑い声を上げた。
何種類かのパンを選んでレジに持ってゆくと、おじさんは大きな紙の袋に丁寧にそれを詰めてくれる。いつもと変わらずに。
けれど、高遠が金を払おうとすると、おじさんは笑いながら首を横に振った。
『お代はいらないよ。今までご贔屓にしてくれたお礼だ。本当に、今までありがとう』
言いながら、高遠の手とおれの手を、順番に両手で強く握った。
おじさんの明るい緑の眼が、外の日差しの照り返しを受けているせいなのか、少しだけ、潤んでいる気がした。
店を出ると、おれたちは手を繋いで歩いた。
指と指とを絡ませる、恋人同士の、手の繋ぎ方で。
誰の目も、気になんかしない。第一、ほとんど人も歩いていないし、大抵の店は閉まっている。
平日の、よく晴れた朝。
普段なら、ありえない光景だろう。
今日は早くから、遠くで教会の鐘が、鳴っている。
「はじめ、本当にいいんですか?」
部屋に帰り着くなり、高遠はまた、同じ問いを繰り返した。
「いいんだよ。もう家には電話したし、美雪とか草太とか佐木にも電話して、あと、剣持のおっさんと…明智さんにも、連絡したから」
「明智警視にも…ですか」
「うん、一応」
だから、何も心配なんかしなくていいんだよ。
その後の言葉は、口にしないで、おれは高遠を見つめた。
高遠は、少し困ったような顔をして、おれの眼を見つめ返してくれる。
綺麗な月の光を思わせる、高遠の眼。こうして、ずっとおれだけを見つめて。誰も映さないで、最後まで、おれだけを映して。
でも、この願いは、きっと叶うだろう。
そのまま瞼を閉じて、おれは自分から、高遠のくちびるに自分のそれを重ねた。
今日の昼食メニューは、簡単なサンドイッチ。
少し厚めに切ったハムとチーズと、あと、レタスやらなんやら野菜も一緒に、さっき買ってきたばかりのパンに挟んで出来上がり。
高遠は、とっておきだと言っていたワインを開けることにしたらしい。アルミのカバーを丁寧に外して、柔らかいコルクにそれ専用の栓抜きを捻り込んでいる。
しなやかな動きでそれをしている高遠の白い指は、なんだか、ひどくエロティックだなあなんて、わけのわからない事を想いながら、おれはその様子を見ている。
ワインってさ、シャンパンとかと違って、ぽんっ!とかって音がしないから、なんか寂しいって前に言ったら、ワインに何を期待しているんですかって、高遠に笑われたっけ。
なんでだろう? 随分と昔のことのような、気がするな。
薄いグラスに注ぎ込まれる、深い赤を湛えた液体を眺めながら、おれは、そんなことばかりを考えていた。
世界は、突然の終わりを、迎えていた。
アメリカで研究開発されていた病原菌が、あろうことかその施設の研究員によって持ち出され、世界中にばら撒かれたのだ。
致死率100%。
最初は、風邪に似た咳・熱に始まり、けれどあっという間に嘔吐・吐血と症状は劇症化して、三日と経たずに息を引き取るという恐ろしいウィルス。
まだ、ワクチンも開発されていなかったそのウィルスから逃れる術はなく、各国は最後の決断を決定した。
それは、国民全員に、安楽死のための薬剤を配布するというもの。
受け取る、受け取らないは各人の自由。ただし、ウィルスによる死は、想像を絶する苦しみを肉体に与えるという。
ウィルスを撒いた本人は、当然、真っ先に死亡したが、その前にその男が各国のテレビ局に送った映像は、凄まじいものだったのだ。ウィルスに侵された自身の身体を見せ付けるという意味も、映像にはあったのだろう。
男はその中で言っていた。
『汚れきったこの世界に浄化を』と。
マッドサイエンティストらしく、自分自身をも含めた人類の滅亡を、男は望んだ。
その映像をテレビで見たとき、おれの隣で高遠がぽつりと洩らした一言が、やたらと印象に残っている。
「ああ、わかる気がしますね」
そう言って、高遠はおれに顔を向けると、笑みを浮かべたんだ。
時間は、あまり無かった。
世界中に散っていたビジネスマンたちは、大切な人の傍で最後を迎えるべく空港に殺到し、臨時の増便が各国でなされた。航空関係者は大変だったろう。けれど、事故も起こさず、彼らはよく頑張った。
その最後の便が出るのが、今日なのだ。
明日からは、この空を、飛行機が飛ぶ事はない。
「ワインってさ、渋くって、何処が美味いのかわかんねえよ」
顔を顰めながら、おれが零すのを、高遠は楽しそうに眺めている。
もう、二日酔いの心配をする必要も無いから、今日は特別に、アルコールに弱いらしいおれにも飲ませてくれているんだ。
「そうですね、初心者なら、本当はドイツの白から始めたほうが飲みやすいんでしょうけど…そんな時間はありませんしねぇ」
香りを楽しんでいるのか、軽く鼻先でグラスを揺らしながら、高遠が呟く。
「こんな軽食で飲むワインでもないのですけど、ね」
仕方がありませんよね。
言いながら、柔らかく、微笑む。
そう、仕方がない。
おれたちは、今はまだ元気だけれど、たぶん、もう感染はしているんだ。
発症するまで、そんなに時間は残されていない。
「でも、やっぱ、飲みにくい…」
なおも言い募るおれに、高遠は苦笑を浮かべながら静かに立ち上がると、なぜだかおれの横に来た。
何をするのかと思って見ていたら、いきなり、自分のグラスのワインを口に含んで、おれのくちびるにくちびるを重ねた。
条件反射のように口を開くと、少しぬるくなった液体がおれの口の中に注ぎこまれる。
こんな飲ませ方もアリかよっ?!
と、思わないでもなかったけれど、でも、口移しで飲まされたワインは、どこかしら甘い気がして、おれは素直に飲み込んだ。
「どうですか?」
「どうもこうも無えっ! いきなり、こんなことするし…」
袖で口を拭いながら、高遠を睨みつけてやる。本気じゃないから、どうせたいしたこと無いんだろうけどさ。たぶん、顔、紅いし。
すると、高遠の手がおれの頬に触れてきた。少しだけ、いつもより冷たい感触で。
「はじめ、ベッドに、行きましょうか…」
「えっ、で、でも…」
「ぼくに、メインディッシュを食べさせて」
そのまま、首筋にくちびるを這わされて。答えも返さないままに、おれは、その首に腕を回す羽目になっていた。
窓も、カーテンも開け放したままで、おれたちは愛し合った。
日中の、まだ陽の光が差し込む、ベッドルームで。
ここは、高遠がおれのために選んでくれた部屋で、これは、おれのために選んでくれたベッドで。そして今もまた、この男はおれのために、元気なフリをしてくれているんだろう。
高遠の手は、酷く冷たいのに、触れ合った身体は、まるで燃えるように、熱い。
今まで、全然気付かなかった。きっとこの男のことだから、おれに心配させまいと咳止めなんかを使って、無理やり我慢していたに違いない。
高遠は、すでに発症していたんだ。
けれど、おれは何も言わなかった。
ただ、高遠が望むままに、受け入れていた。
何度も、何度も、陽が暮れ始めるまで。
「そろそろ、行きますか?」
高遠が、おれの耳元で、そう囁く。ちょっと出かけようか、という感じの軽さで。
おれも、黙ったまま頷く。それが、当然のことのように。
それは、いまだ狂おしい快楽の最中。でも、このまま行くのも悪くない。
ふたり、ひとつになったまま、ずっと、一緒に。
サイドボードから小さなカプセルを二つ取り出すと、高遠はそのうちのひとつを、おれの口にそっと入れた。そして、部屋に持ってきていたワインを、また自分が口に含んでから、おれに与える。カプセルごと、おれはそれを飲み込んだ。
そうだな、高遠の口から受け取るワインなら、おれ、結構好きかも。
この時おれは、そんなことを、頭の片隅で考えていた。
「高遠のは、おれが飲ませてやるよ」
おれが言うと、高遠は少しだけ驚いた顔をして、でもすぐにその意味を理解したのか、嬉しそうに微笑むと、手に持ったカプセルをおれに差し出した。
体位を変えて高遠の上に馬乗りになると、おれは高遠の舌の上にそれを乗せ、そして、高遠がしたのと同じように、ワインをいったん口に含んでから、口移しで飲ませた。
高遠の咽喉が上下に動いて、それを嚥下してゆく様をじっと見つめる。
これで、いいんだよな?
そう、自分に言い聞かせながら、震えそうになる身体を押し止めている。
死ぬのが、怖いわけじゃない。でも、これでおれも、たぶん、人殺しだ。
おれは何かを振り切るように、再び、腰を揺らして快楽を追い始めた。
高遠も、おれの動きに合わせて、律動し始める。
ああ、そうだ。このまま、ふたりで天国までゆこう。
怖いことも、辛いことも、全部忘れてしまえるほどに、燃え尽きてしまいたい。
あんたと一緒なら、何処へ行こうと、おれはなにも、怖く無いよ…
「なあ、これで、あんたと同じ所に行けるかな?」
「さあ、それはどうでしょうね。根本的に、ぼくがしてきたこととは違いますからねぇ」
ふたりで息を切らせながら、汗ばんだ身体を重ねて。
まだ、深く、繋がりあったままで。
高遠の胸に、おれは身体を預けて、ゆっくりと瞼を閉じた。
聞きなれた鼓動が、心地良く耳に響いてくる幸福に、充たされながら。
でも確かに熱いのに、少しずつ身体の奥が冷えてゆく気がするのは、薬のせいなのだろう。
速攻性だとは聞いていたけど、本当にもう、あまり時間はないのかもしれない。
だから目を閉じたまま、おれは、今、言うべき言葉を、くちびるに載せた。
「あんたに会えて、幸せだった。ううん、今もずっと幸せだよ。こうして、最後まで一緒にいられて、よかった…」
涙が自然と溢れて、それが高遠の胸に落ちると、高遠の手が、おれの髪を優しく撫でた。
他にも伝えたいことがいっぱいあったはずなのに、なぜかそれ以上、おれの口からは言葉が出てきてくれない。
と、高遠が静かに、おれの好きな声で、そっと囁いた。
「ぼくも幸せですよ。誰に引き裂かれることも無く、きみと最後まで共にいることができて、本当に、嬉しい」
その時、今まで早鐘を打っていた高遠の鼓動が、おかしな風にゆるやかになってゆくのに、おれは気が付いた。
何も言えないまま、おれたちの間には沈黙が降りて、おれの髪に触れていた高遠の手が、やがて止まって。
そして、最後に、彼はその言葉を、告げた。
「愛していますよ、はじめ。きみだけを、永遠に…」
おれは、高遠の鼓動が静かになるのを、ただ、胸に顔を寄せたまま、聞いていた。
涙が、溢れて止まらなかった。
幸せで、幸せで、哀しくて。
うん、知ってたよ。
おれも、愛してる。あんたに、負けないくらい。
ゆるやかに、暗闇がおれの身体をも支配し始める。たいして、苦しくはない。
とても、世界は静かで、とても、穏やかだ。
待っていて、たかとお。
おれも、すぐに追いつくから。
絶対に、あんたを見つけるから。
だから…
遠くで、教会の鐘が鳴っている。
人々の、安らかな永遠の眠りを願う、鐘の音が、闇の中に響いてる。
「って言う夢を見たんだよ」
朝食の席で、おれは、自分の長い夢の話を高遠に聞かせていた。
高遠は、興味も無さげに新聞を広げながら耳を傾けていたけれど、おれが話し終わったのを見計らってか、いったん新聞を閉じると、胡乱な眼差しをおれに向けた。
「ものすごい夢を見るものですねえ、いっそのこと、小説でも書いてみたらどうです?」
そんな夢のせいで、なかなか起きてくれないきみを起こすこっちの身にもなって欲しいものですけどね。
そう言い捨てると、再び目の前に新聞を広げる。
高遠の顔は、新聞に隠れて、おれからは見えなくなってしまったけれど、きっと、怒ってんだろうなあ。
今日は、本当なら早くから出かける予定だったのに、おれが寝坊をしたせいで全部おじゃんになってしまったのだ。
おれが、完璧に悪いのは、わかってるつもりなんだけどさ。
でも、なにもそんなに怒んなくっても。
夢の中の高遠は、「愛してる」って言ってくれんのに、現実はそうじゃないもんなあ。
まぁ、夢って、願望が出たりするっていうし?
ああ、おれって、複雑なのね。
何気なく、視線を投げた窓から覗く青空は、とても眩しくて綺麗だ。
向うで、飛行機が雲を引いているのが、見えている。
そうだ、たかとお。あのパン屋に買い物しに行こう。
そして、昼はサンドイッチにして、一緒にワインを抜こう。
まだ続いてゆく、この世界を祝福して乾杯するのも、悪くは無いだろ?
なあ、たかとお。
そう言いかけたとき、どこからか教会の鐘の音が、遠く聞こえたような。
そんな、気がした。
06/06/01 了
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本来なら、裏に置くべき話なんですけど、いや、どうしても表に置きたくって。
なので、15禁くらいでお願いしますね!
久しぶりに降りてきたお話なので、一気に書いてしまいました。
またしても、夢オチですが(笑)。
今回は「トゥウェルブモンキーズ」あたりが元ネタですね。
そして、久方ぶりの『LOVERS』モノでしたv
楽しんでいただけたなら幸いですが、いかがでしたでしょうか?
06/06/01UP
−新月−
06/06/02若干改定
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