本当に怖いこと
「そうですねえ…ないことも、ないんですが…」
少し、困ったとでもいうような、そんな声を発しながら高遠は宙を見上げた。何かを思案している、そんな風情が心なしか漂っている。
隣に座っているはじめはというと、これまた、好奇心の塊みたいな大きな瞳をキラキラと輝かせて、高遠の横顔をじっと見つめている。
夜、眠りに着くにはまだ、早い時間。
はじめが退屈だと、高遠に怖い話を所望したのだ。
高遠は、退屈なら他にできることも色々あるでしょうと言いたかったが、はじめにまたエロ親父と言われるのも嫌なので、ぐっと堪えていた。
仕方がありませんねえ、とでも言いたげな表情を浮かべると、ついっと、高遠の秀麗な面差しがはじめへと向けられる。
「聞いても、呆れたりしないで下さいね?」
きょとんと首を傾げるはじめに柔らかな笑みを向けると、その笑みを口元に刻んだまま、高遠は目の前のテーブルに置かれたティーカップを手に取り、優雅な仕草でそれを口元に運んだ。
白く、朧にたゆたう湯気が、その赤い口元で、揺れる。
「たまには、ダージリンもいいですね」
一口だけ口を湿らせた高遠は、そう言いながら、懐かしそうに、何かを思い出すように、遠い眼差しを再び宙に向けた。
「これは、ぼくがイタリアにいた頃の話です」
そして、高遠は静かに、語り始めた。
ええ、丁度、今のきみぐらいの年頃でしたね。父が亡くなって色んな雑務が片付いてから、ぼくは本格的にマジックの修行をするために、イタリアへと渡ったんですよ。まぁ、この事はきみも知っていますよね。
父の蓄えと生命保険金を合わせて、かなりの額の遺産をぼく一人が相続することになったので、お金は結構自由になったんですけど、なんていうんですか、これから自立していかないといけないのに、親の残したお金でのうのうと暮らすことには抵抗があったんです。
だから、向こうへ行っても、父のお金にはなるべく手をつけないように、住み込みで修行をさせてくれるところを選んだんですね。
下働きをしながら、マジックの技を、言わば盗んでゆくんですよ。修行するといっても基本は出来ていて当たり前ですから、ああしろこうしろとは教えてくれない。傍で見て、盗んで行く。そうして自分なりのアイデアを構築してゆく。人の真似事をしていても、生き残れない世界ですから。
これはその頃に、ぼくが住まわせて貰っていた部屋で起こった事なんですけど。
ぼく以外にも、何人かの人がそのマジシャンの下で修行をしていたんですが、大体ふたりで一部屋を使うようになっていたんです。そう聞いていたし、実際、他の人たちはそうでした。なのに、ぼくがそこへ行くと、いきなり一人部屋を与えられたんですね。
狭くて日当たりの悪い部屋で、確かに居心地がいいとは言えない部屋でしたけど、他の人たちがふたりで使っている部屋も、そんなに大差はないんです。
新入りのぼくが一人部屋なんかを使っていいのかと聞いても、みんな、いいんだと言うばかりで、誰も何も答えてはくれない。でも、その理由は、住み始めてすぐにわかりました。
真夜中になると、男が出るんですよ。
黒髪の、浅黒い肌をした、まだ若い男が。
ええ、もちろん、生きた人ではないですよ?
なんせその男は、いつも決まった壁から出てきましたから。最初は、流石のぼくも驚きましたけどね、でも、他の人がこの部屋を使いたがらない理由がこれでやっとわかって、妙にすっきりしたのも確かでした。
後で聞いた話では、やっぱりというか、以前その部屋で自殺した男がいたらしいんです。
まぁ、ありがちな話ですよね。
ぼくも、本当に初めの頃は怖かったんですけど、でも、働いて疲れてるのに、毎晩毎晩真夜中に金縛りで起こされることに、だんだん腹が立ってきましてね。
無視して寝てたら、首を絞められたこともありましたし。
えっ? なんで、部屋を替えてもらわなかったのかって?
え〜、あ〜、まあ、色々あって、ひとりでその部屋で寝ているほうが安全だったんですよ。
そこは、あんまり深く追求しないで下さい。
それである時、また金縛りで目が覚めて起きると、そいつが壁から出てこようとしているところで。ああ、その頃には慣れちゃってて、金縛りを解く術、みたいなものまでマスターしていて。
…今、考えると、なんだかぼくも不憫ですよね。
それで、金縛りを解いて動くようになった手で、たまたまサイドボードの上に置いてあったマジックの練習用のナイフを、そいつの頭めがけて投げてやったわけです。
男の頭を通り抜けて、カツッと、壁にナイフが刺さる音がしました。
ああ、やっぱり生きた人間じゃないから、こんなんじゃ効かないかと思った瞬間、男は酷く驚いた顔をして、消えてしまったんですよ。
以外でしたねえ、死んでても、攻撃されると怖いものなんでしょうかね?
それから、そいつが現れるたびに、ナイフを投げつけてやりました。投げると、やっぱり驚いたみたいに、消える。そんなことを繰り返して、一ヶ月も経った頃でしょうか?
現れなくなったんですよね、そいつが。
それっきり、ぼくがそこを出るまで、一度も現れませんでした。
「あれは嬉しかったですねえ、やっと、ゆっくり眠れるようになったので」
ふふっと楽しそうな笑みを浮かべる高遠の横で、クッションを抱えたはじめは、恐ろしげに少しばかり後じさりながら、ポツリと呟いた。
「あんた…」
「ん? なんでしょう?」
「幽霊までビビらせちゃうんだ…」
はじめのその言葉に、さらに笑みを深くしながら、高遠ははじめのほうへと身を寄せた。
身に危険を感じたのか、咄嗟に後ろへ下がろうとしたはじめだったのだが、すぐ後ろに肘掛があって、もうそれ以上は下がれない。高遠は、圧し掛かるようにして、はじめの瞳を覗き込む。綺麗な月色の眼差しが、はじめのすぐ目の前で笑みの形に眇められた。
「…だから、呆れないで、と、言ったでしょう?」
「まさか、オチがそう来るとは思いもしなかったんだよ!」
答えるはじめの首筋に、高遠のくちびるが降りてきて、思わず、身体が震えていた。
「ふふ…そんなに、怖かった?」
高遠は、今度は耳元へとくちびるを這わせながら、わざと問いかけてくる。
「…ちがうだろっ! あんたの方が…怖いっ…て!」
漏れそうになる喘ぎをかみ殺すみたいに、はじめは声を詰まらせながら、返事を返している。死守するように、クッションは胸に抱きしめたままだ。
「今度は、きみの番ですよ」
少し身体を起こすと、高遠は熱を孕んだ眼差しのまま、はじめを見つめた。
はじめも、熱を持ち始めた自分の身体を意識しながら、高遠を見つめ返していた。
はじめの、男にしてはふくよかなくちびるが、濡れた光を宿したまま、言葉を紡ぎ始める。
「そうだな、おれの一番怖い話は…、名探偵金田一耕助の孫が、稀代の天才犯罪者の傍で、恋人として暮らしてるってことかな…」
「それは…怖いですね…」
「だろ?」
はじめは抱えていたクッションを手放すと、高遠の首へと自分の腕を回した。
「本当に、ありえない怖さだよな」
「まったくですね」
笑い合いながら、啄ばむような口づけを繰り返して。
やがてそれは、いつものように、深くなってゆくのだろう。
今夜もまた、甘く、夜は更けてゆく。
本当に怖いのは、互いの想いの深さだと、知っていながら。
06/06/20 了
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突発です。
置いとくと忘れちゃうんで、急遽書きました v
「本当に怖いこと」とかってタイトルの割に、ちっとも怖くありませんでした///
06/06/20UP
−新月−
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