闇の中に降り続く
雨の音が、聞こえていた。
夜の闇の中に、静かに降り続く、雨の音が。
その日、なぜだかおれは、真夜中に目が覚めた。
いつもなら、朝まで絶対に目なんか覚めないのに。起こされても、なかなか起きられないのに。この時おれは、なんだか妙にすっきりと目覚めてしまって眠れなくなった。
何度となく目を瞬きながら辺りを見回すけど、目の前には闇が広がっているばかりで、朝までには、まだ随分と時間がありそうに思えた。
暗い室内に聞こえる音といえば、すぐ隣に眠る男の規則正しい安らかな寝息と、これまた規則正しい目覚まし時計の秒針の響きだけで、不安になるほどの静けさが漂っている。
…いや、そうじゃないのか?
窓の向うから、微かな雨音が聞こえていた。
「雨、降ってんのか?」
もしかしたら、この音で目が覚めたのだろうかと、おれはゆっくりと身体を起こした。
静かなのに、どこかしら寂しげに存在を主張する、雨音。
それがなんだか、ひどく気になって、眠っている高遠を起こさないようにと気をつけながらベッドを抜け出すと、暗がりの中、窓辺へと向かった。
灯りのない室内は、確かに暗い。それでも何にもぶつからずに歩けるのは、どこに何があるのか見えなくてもわかるくらいには慣れてしまっているということなのだろう。それは、ここでの高遠との生活に、どれほど自分が馴染んでいるのかということに他ならない。
そう考えて、少しだけ、胸の奥がくすぐったい気分になる。
…おれって、変なトコ、乙女だよな…
苦笑を浮かべながら窓辺に辿り着くと、夜の闇に染まっている青い色のカーテンをそっと開けた。少しだけ、雨の音が大きくなる。けれど、月明かりのない窓の外はやはり暗くて、その姿は見えない。
さあああと降る、静かな雨音だけが、聞こえていた。
天から降り注ぐシャワーのように、地上に撒かれる水。
まるで、そこにある穢れを、洗い流そうとするかのように。
全部、洗い流してくれないかな。
窓ガラスに当てた手のひらに、ぽつぽつと窓に当たる雫の振動を感じながら、おれは想う。
雨が降って、大気中の汚れが洗い流された後の青空のように、朝目が覚めたら、すべてが綺麗に無かったことになっていればいいのに。
あの人の犯した罪、全部…
馬鹿だな、おれ。
まだ、そんなことを考えてる。
すべて納得して、ここにいるはずなのに。
全部、わかってる上で、選んだ道なのに。
…ううん。
見えない雨に、少し、切なくなっただけ。
ただ、それだけだ…
そう、自分に言い聞かせながら、暗い窓の外を見つめたまま、おれは、じっと動けないでいた。
どのくらい、そうしていたのだろう。
「どうしたんですか? こんな時間に」
突然、後ろから声を掛けられて、飛び上がった。慌てて振り返ると、闇の中、確かに男が立っている気配。
雨に気を取られていたせいなのか、近づいてくる足音に全く気付かなかった。
…いや、違うな。この人が気配を殺すことに、慣れてるからだ。
「たかとお…?」
「こんな夜中に何をしているんです? 目が覚めたら隣にきみがいないので、驚きましたよ」
そのまま高遠は、おれを背後から抱きしめてくる。
寂しがりやの、子供みたいに。
「何処かへ、行ってしまったのかと思いました…」
何人も殺したはずのこの人は、けれど、少しだけ声を震わせた。
おれは、高遠の腕にそっと片手を重ねる。確かな温もりが、手のひらから伝わる。
「目が覚めたら、雨の音が聞こえてたもんだからさ」
言いながら、窓ガラスにつけていて冷えたもう片方の手のひらを、おれの顔のすぐ横にある高遠の頬に引っ付けてやる。
冷たいですよ。
不機嫌そうな声を返しながらも、どこかホッと安堵した空気が高遠からは感じられて、おれも、なんだかホッとする。
だって、ほんの少しでも不安な思いをさせたのなら、それは、おれにとっても辛いこと。
寂しがりやの高遠。
残酷で、冷たくて、誰よりもやさしい、おれだけの人。
高遠に凭れかかりながら心の中で、おれは繰り返す。
大丈夫だよ、大丈夫だよ、あんたの傍を離れたりしない…
そんなおれの想いが伝わったかのように、高遠は、抱きしめる腕に力を込める。
ぎゅっと抱きしめて、そして、小さく息を吐いた。
「…雨の音が聞こえて…不安だったんです…」
搾り出すような声で、高遠は言った。
「なんで?」
咄嗟に反応したおれに、高遠が、また息を吐いたのが、凭れた身体を通して伝わる。
「どう言えばいいのか… そうですね、子供の頃の寂しかった記憶のせいなのかもしれません」
「子供の頃?」
「ええ、ぼくの父は仕事で不在のことが多かったものですから、一人で夜を過ごすことも度々あったんですよ」
「…初めて聞いた…」
「初めて話しますから」
今度はクスリと笑みを零したのが、身体から伝わった。
やさしく、いとおしい、感覚。
雨の音は、相変わらず続いている。
「夜、目を覚ましたときに雨の音が聞こえていると、とても寂しかったんですよ」
そう高遠は言った。おれは、静かに聞いていた。
「他の音は何も聞こえなくて、ずっと単調に繰り返される雨の音を聞いていると、なんだか、世界から自分ひとりだけが取り残されているような気がして、ひどく寂しかった」
「そうなんだ…」
「ふふっ、馬鹿な話でしょう? でも、暗い闇の中に聞こえ続ける雨の音は、本当に怖くて不安だった。子供だったからなんでしょうけどね」
灯りも点けないままの室内は、暗くて。なのに、高遠が窓の外に視線をやったのが、おれには、なんとなくわかった。
窓の外も真っ暗で、やっぱり何も見えはしない。けれど、高遠は別のものを見ているように感じた。
暗く深い、闇の中から聞こえる雨音の、その向う。
そこでは、まだ、幼い高遠が震えている。
ひとり、ベッドの中で震えながら、朝が来るのをずっと待っている。
お母さんはいない、お父さんも、今夜はいない。
抱きしめて、安心させてくれる人のいない夜の闇の中で、今も幼い高遠が、この雨の音を聞きながら、ずっと寂しがっている。
そんな気がした。
「でも今は、おれがいるから寂しくないだろ?」
おれは高遠の腕を抱きしめるみたいに両の腕を回すと、横にある高遠の頬に額を摺り寄せた。
高遠の、半そでのパジャマから出ている二本の腕は、男の割には滑らかで、細くて。でも、とても筋肉質で硬く引き締まっている。おれは、その腕の中に閉じ込められながら、なぜか泣きたい気持ちになっていた。
高遠の鼓動を、その息遣いを全身で感じながら、静かに目を閉じる。
世界から隔絶されたかのように、小さな空間を支配する、水の音。
まるでこの世に、おれたちふたりしか存在しないような、そんな錯覚を起こさせる、雨音。
世界にただ、ふたりだけ。
それは、常に不安を抱えるおれたちとっては、とても幸せな空間に思えるけれど、でも、もしもこれがひとりきりで過ごす夜ならばと考えると、なんだか少し怖くなる。
今までそんなことを考えたことも無かったのは、おれが、本当の孤独を知らないからなのだろうか。
高遠の中には、そんな寂しさが、きっとどこかに凍りついていて。
だからこそ、この人の中の何かは、歪んでしまったのかもしれない。
平気で人を殺して、何も感じない、歪んだ心。
取り返しのつかないことを、それとは気付かないままに通り過ぎてしまう、凍った心。
じゃあ、おれは、どこまでその寂しさを癒すことができるだろう。
どれだけ、この人に温もりを与えることができるだろう。
そして、いつまで、この人の傍で、この雨音を聞くことができるだろう。
ふと、高遠が口を開いた。
「そうですね、…きみがいれば、きみさえいれば、寂しくなんかありません…」
そうして器用におれの身体の向きを変えさせると、再び腕の中に閉じ込めて唇を奪った。
すべてを奪い取ろうとするかのような激しさで、突然、与えられた口吻け。
けれどそれは、高遠の不安を物語っている気がして、胸が苦しくなる。
いつか、失ってしまうんじゃないかという、不安。
孤独の影に怯えながら、けれど、何も気付かないフリをして、何の心配もない顔をして、おれたちは生きている。
苦しいよなぁ、たかとお。
ふたりで生きて行くのは、幸せなのに、酷く苦しい。
でも、それでも、ずっとこの人の傍にいたいと、おれは願うんだ。
ずっと、ずっと、離れないで、ずっと、一緒にいたい。
何を犠牲にしてもかまわないと思うくらいに、この人のことが、好きだから。
どんなに重い罪を背負っても。
決して許されない穢れを、纏うことになっても。
閉じた瞼の裏に、膝を抱えながら震えている幼い高遠の姿が、見えた気がした。
雨は、止む気配も無く、降り続いていた。
その日も雨が降っていて、路面はかなり濡れていた。
ふたりで買い物に行くつもりで、傘を差しながら、いつもと同じように石畳の歩道を歩いていた。
その時、おれたちが歩いている歩道に向かって、スピードを上げすぎてスリップした車が突っ込んできたんだ。
高遠は、咄嗟におれを突き飛ばした。
何が起こったのかわからないまま、おれは、耳障りなタイヤの軋む音と、鈍い衝突音と、ショウウィンドウのガラスが割れる音を聞いていた。
まるで、映画のアクションシーンみたいな派手な音を辺りに響き渡らせながら、でも、その場面はなんでか、スローモーションのように、おれの眼には映っていて。
高遠の身体が、玩具みたいに跳ね飛ばされる瞬間を、おれは、ただ見ていた。
グレーと黒の格子柄の傘が、軽く、宙を舞った。
「た…かと…?」
上体を起こしかけたまま、おれはその場で固まっていた。
高遠が突き飛ばした勢いでおれも倒れていたけど、そのおかげで、おれは難を逃れたんだ。
すぐ目の前では、突っ込んできた車がブティックのショウウィンドウに頭を突っ込む形で止まっている。その前部は見事に潰れ、ボンネットが醜く歪んで、隙間から灰色っぽい煙が上がっている。石畳の歩道にはガラスの破片がたくさん散っていて、高遠は、少し離れた路面に倒れている。
けれどおれは、何が起こったのかをちゃんと理解できなくて、ただ、震えながら、呆然とするしかなかったんだ。
気がつくと、車やおれの周りや高遠の周りには、何事かを言いながらたくさんの人が駆け寄ってきていて、その中の誰かが、震えているおれを抱き起こしてくれた。
おれはそのまま立ち上がると、覚束ない足取りで高遠の元へと向かった。周りにいる人たちはおれを見て、道を空けてくれる。一様に、痛ましげな表情を浮かべたまま。
その先に、高遠は横たわっていた。
水に濡れて黒っぽく変色している石畳の上に、鮮やかな赤黒い水溜りが広がり、それは雨水の流れに沿って、排水溝へと細い筋を引いていた。
高遠の胸は、まだ微かに上下していた。けれど、足はあらぬ方を向いており、今日彼が身につけていたシャツも白だったはずなのに、今は奇妙な紅と白の斑模様に染まってしまっている。
そんな高遠を見ながら、おれは。
きっと高遠は、こんな柄のシャツは嫌いだと言いそうだな、なんて、関係のないことを考えていたりして。
なにも、認めたくなんかなかったんだ。
けれど、そんなおれを打ちのめすように、その紅い部分は見る間に大きく広がって、おれに現実を見ろと、鋭い切っ先を突きつけてくる。
もう、時間はないぞと、告げている。
おれは傍らに跪くと、青ざめたその頬に、そっと震える手を伸ばした。
「たかとお?」
おれの声は、酷く震えていた。自分の声ではないみたいに。
高遠の頭の下からも、赤黒い血は湧き出る水のように広がっている。
なのに、そんな状態だというのに、おれの声がわかったのか高遠の瞼が微かに震え、やがてゆっくりと擡げられた。
相変わらず、綺麗な月の光を宿した眼が、静かに、おれを捉える。
それはまるで、夢でも見ているような、穏やかな眼差し。
高遠の手が、酷く動きにくそうにおれに向かって伸ばされるのを、おれはしっかりと両手で掴むと、自分の頬にその手のひらを当てた。
「…おれは、無事だよ…」
そう言ったおれに向かって、高遠は、何事かを言いたげに、小さく口を動かした。
ゆっくりと、緩慢な動きで。
けれど、それは声には、ならなかった。
「なに? なんて言ったの? 聞こえないよ、たかとお」
顔を傍に寄せて、聞き返すおれに、高遠は少し、笑って。
そして、そのまま、動かなくなった。
おれの手の中にある高遠の手から力が抜けて、急に重くなって。
でも、まだ、確かに温かいままで。
おれは、その手のひらを頬に当てたまま、高遠の顔を、見つめ続けていた。
高遠も、おれを見つめていた。
高遠の顔は、傷ひとつ無く綺麗なままで、いつもと同じように柔らかく微笑んで、おれを見ている。
光を失った、瞳で。
瞼を閉じなかったその眼に、雨の雫が落ちて、まるで、高遠が泣いているみたいに見えた。
雨は降り続いていて、高遠の流した血を、洗い流そうとしている。
周りのざわめきなんか、何ひとつ聞こえない。
ただ、雨の降る音だけが、静かに聞こえていて。
ああ、高遠は、許されたんだ。
なんとなく、そう、思った。
遠くから、救急車のサイレンの音が近づいてくる。
雨は、おれたちを濡らしている。
ぽっかりと、おれの中には大きな暗い空洞が出来て、苦しくて苦しくて仕方がないんだ。
まだ、おれの目の前に高遠はいるのに、もう、高遠はいない。
もう、抱きしめてもくれない。キスしてもくれない。好きだと、囁いてもくれない。
哀しくて、苦しくて、胸が潰れてしまいそうで。
でも、ほんの少しだけ、おれは幸せだったんだ。
高遠は、最後の最後まで、おれだけを見ていてくれた。
おれだけに微笑んでくれた。
それだけで…幸せだと、想えた。
おれはようやく、涙を零した。
一度、堰を切った涙は、止まることを知らないみたいに、次から次へと溢れ出して来る。
「…好きだよ…ずっと、ずっと…たかとおだけが…好きだよ…」
雨のためになのか、急速に体温を失い始めた高遠の手を握り締めたまま、おれは、二度と答えてはくれない人に、繰り返し囁き続けた。
ずっと好き…ずっと、変わらずに…
あれから、何年かが過ぎて。
今夜も雨の音が、闇の中に、聞こえている。
夜、目が覚めても、おれの隣に高遠はいない。
やさしい温もりも、穏やかな寝息も、初めから何も無かったかのように。
目覚ましの秒針を刻む音だけが、部屋の中には響いていて、おれはひとり、小さく息を吐く。
高遠がおれの傍からいなくなって、おれは本当の意味で、高遠の言っていたことがわかる
ようになった。
静かな雨の降り続く夜は、寂しいと。
雨の音を聞きながら、おれは、繰り返し思い出すんだ。
高遠の言葉を、あの夜の温もりを、微かに震えていたあの人を。
降りしきる雨に、閉ざされた世界の中で。
ひとり、取り残された世界の中で。
膝を抱えたまま、おれは、闇に降る雨を見つめ続けている。
この暗闇の向うで、あんたがずっとおれを待っている。
幼いままの高遠が、泣きながら、寂しがっている。
そんな気がして、仕方がない。
でも、おれはひとりで生きてゆくよ。
リタイアすることは許されないと、知っているから。
それがきっと、犯罪者を愛したおれに与えられた罰。
でも、後悔なんてしていない。
とても、しあわせだったから。
ふたりで、幸せだったから。
だから、今は、寂しくても、大丈夫だよ。
何度も、自分に言い聞かせながら、おれは、目を閉じた。
暗闇の中、今夜も雨の音は、聞こえ続けている。
止むことのない涙雨が、おれの中に、降り続いている。
06/07/19 了
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暗い、死にネタでした。
梅雨の時に書いたものなので、時期をかなり外していますが…
ありがちな事故ネタで暗いんで、ボツネタだったのですが、このところ時間が無くて書くのもままならないんで、アップすることにしました。
最近、同じような暗いのばっかり書いておりますね。ええ。
こんなのでも、楽しんでいただけたら…いいな。
06/09/23UP
−新月−
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