DEVIL
やめて! 殺さないで!
お願いだから…
びくり、と、激しく身体が震えた。
突然、高い所から突き落とされたかのような衝撃を感じて、彼は目を覚ました。そして、自分が今何処にいるのか判りかねるように、何度となくまばたきを繰り返す。
夜明けにはまだ遠い時間、薄いレースのカーテン越しに差し込む青白い月の光が、暗い室内をぼんやりと照らし出していた。
−また、あの夢…か…
ゆっくりとした動作でベッドの上に起き上がると、身体に纏わり付いていた薄い毛布が下がって、細身の裸身が露になる。
汗で張り付いた長い前髪をしなやかな指でかき上げながら、彼は深い溜息を吐いた。
妙に目が覚めてしまって、もう、眠れそうにない。
彼、高遠遥一は最近、子供の頃の夢をよく見るようになっていた。その度に、今夜と同じように突然目が覚めてしまう。
一体何が原因でこうなっているのか、彼自身にも、さっぱりわかってはいなかった。
ただ夢を見るたび、繰り返し繰り返し、確認してしまうのだ。
自分が人としての『何か』を、永遠に失ってしまっていることを…
−それが、何だというんだ。私は今の生き方に、十分満足している。
窓に視線を向けると、カーテン越しに丸い月が見えた。その月の色にも似た彼の瞳が、一瞬、揺らめく。
−…決して、後悔などしていない。するはずが無い。あの時だって、私は…
天空に孤独に浮かぶ月を見ながら、遠い過去を思い浮かべた。ついさっきまで見ていた夢の記憶の中に、舞い戻る。
感情の見えない冷たい光を宿した金茶の瞳は、月よりも孤独で、夜よりもなお深い闇に包まれているかのように、すべての真実を閉じ込めたまま…
遥一は、物心が付くころにはすでに、父と二人でイギリスに暮らしていた。
郊外に建つ、庭付きの二人で住むには大きすぎる家。
母は死んだと聞かされていた。
仕事に忙しい父は、あまり遥一をかまってはくれなかった。
両親の温もりなど、知ることも無く育った幼少時代。けれど幼い頃から聞き分けの良かった彼は、寂しくても父親にわがままを言った覚えは一度もない。
そのころ、遥一の相手はもっぱら家政婦兼シッターであるメアリーという女性がしていたのだが、遥一はこの家政婦が大嫌いだった。
元々の気性も激しかったのかもしれないが、彼女は事あるごとに遥一にあたった。
大人しく、何でも言うことを聞く遥一が気に入らなかったのか、それとも自分の言いなりになるのが面白かったのかはわからないが、度々、虐待まがいの扱いを受けたのは確かだ。
そのくせ、父親が家にいるときは、手のひらを返したように猫なで声を出して、良い人間を演じる、そんな女。
見ているだけで、吐き気がした。
騙されている父親が、哀れな気さえした。
けれど、言いつけることは出来なかった。言えば、もっと酷いことをされる、その恐怖が先に立って、何も言えなかった。無理もない、彼はまだ幼い子供だったのだから。
けれどこの頃から、確かに、彼の中に、少しずつ、目に見えない何かが積もり始めていたのかもしれない。
遥一が子犬を拾って帰ったのは、彼がジュニアスクールの初等部の頃、いわゆる小学校低学年の頃のことだった。
イギリスはよく雨が降る。そんな冷たい雨の中、濡れて震えている小さな命を、彼は放っておくことができなかった。
メアリーに見つからないように、こっそり二階の自分の部屋まで子犬を連れ込むと、そのまま二階のバスルームに鍵を掛けて子犬を洗った。大人しい性格なのだろう、子犬は嫌がりもせず、じっとしている。
タオルで拭いてドライヤーで丁寧に乾かしてやると、濡れ鼠で貧弱だった子犬が、柔らかそうなふかふかの濃茶の毛と、くりっとした大きな黒目がちの瞳を持つかわいい子犬に変身して、すごく嬉しかったのを、遥一は大人になった今も覚えている。
「吼えちゃだめだよ。メアリーに見つかったら、追い出されちゃうからね」
子犬は盛んにしっぽを振って遥一の顔を舐めていたが、まるで言葉がわかるかのように、決して吼えようとはしない。本当に頭のいい犬だと、遥一は感心した。
「おまえは賢いね。そうだ、名前をつけよう。え〜っとね、ポアロ。おまえの名前はポアロにしよう!」
遥一の父親はかなりのミステリー好きで、古今東西の色んなミステリーが書庫には置いてあった。あまり遊び相手のいなかった遥一は、文字を覚えるなり、それを片っ端から読んでしまったのだ。
幼い頃から、普通の子供よりもずっと、理解する能力には長けていた。そんな所もメアリーの気に障る部分であったのかもしれないが、それは彼の責任ではないだろう。
遥一は子犬の名前を、そんなミステリー小説の中に出てくる有名な探偵の名前に決めた。
その日からの数日間を、遥一はどんなにか幸せに過ごしたことだろう。
兄弟のいない遥一にとって、子犬は初めての愛情を注ぐべき対象で、守るべき存在だった。
メアリーに見つからないように、自分の食事を取り置いて、ポアロに持って行ってやる。少々の空腹など、気にもならなかった。
「おまえはぼくが守るから、ずっと側にいてね」
遥一がそう言うと、ポアロはいつも丸いふわふわしたしっぽを千切れんばかりに振りながら、ぺろぺろと顔を舐めてくれる。
ポアロの頭を撫でながら、遥一は子犬と一緒のベッドで眠った。小さな暖かい存在を胸に抱きしめながら、孤独だった少年は、生まれて初めて、心の底からの安らぎを覚えたのだ。
穏やかな幸福感が彼を満たす。
ずっとずっと、こうしていたいと思っていた。
それは、祈るような想い。
なのに。
幸せは、そう長くは続かなかった。
「この汚い犬はなんだい?!」
その日、遥一が学校から帰るなり、メアリーはポアロの首根っこを掴んで目の前にぶら下げた。
ついに見つかってしまったのだ。
助けを求めるような眼差しで、ポアロは遥一を見ている。
「ポアロ!」
遥一が手を伸ばして取り返そうとすると、メアリーはフンと鼻を鳴らして遥一の手の届かない高さにまで、子犬の小さな身体を持ち上げた。摘み上げられた首が痛いのか、ポアロはキャンキャンと悲痛な鳴き声を上げ続けている。
「返して! お願い、返して!」
「あたしに黙って、こんなものを飼って! ずっとバレないとでも思っていたのかい!」
「ごめんなさい! 何でも言うこときくから! ポアロだけは返して!」
ぽろぽろと遥一の目から涙が零れ落ちる。それは穢れを知らない、とても綺麗な涙。けれどそれを見ていたメアリーの口元が、突然、にぃ、と、つり上がってゆくのが、涙に潤んだ彼の金茶の瞳に映った。
残虐な光が、彼女の青い瞳の奥で揺れているのがわかる。
遥一は今まで感じたことも無い寒気に、身体を震わせた。
目の前にいるのは、とても醜い、見たことも無い生き物のような気がしていた。
「…ああ、いいとも、返してやるとも、こうしてからね!」
メアリーはポアロの身体を思い切り振り上げると、力いっぱい床に叩き付けた。
「ぎゃん」という、犬の悲鳴。
瞬間、ぐしゃりと嫌な音が耳を劈く。それは背筋を凍らせるような、何かが潰れる音。
「うわああああ! やめて! やめて! 殺さないで!」
狂ったように泣き叫ぶ遥一の目の前で、メアリーは何度も何度も子犬を床に叩き付ける。
口元には歪んだ笑みを浮かべたまま。
子犬はもう、鳴いてはいなかった。床に叩き付けられるたび、嫌な音がして、紅い飛沫が飛んで、それは遥一の顔や身体にも飛び散った。
「…もう、やめて…お願いだから…」
ガタガタと恐怖に震えながら、目を逸らすことも出来ずに、遥一はその場にただ立ち竦むことしかできなかった。
その日からだったろうか、遥一が少し、変わったのは。
誰に対しても、妙に愛想がいい。今までの、どことなくおどおどしていた印象はなりを潜め、実に積極的になったのだ。嫌悪と恐怖の対象であるはずのメアリーにでさえ、にこにこと、親しげに接してきた。
メアリーの方が、逆にいぶかしむほどに…
そして、その数日後に、それは起こった。
メアリーが、死んだのだ。
階段の上に落ちていた遥一のおもちゃの車を踏んづけて、荷物を抱えたままだったせいもあるのだろう、バランスを崩して、頭から階段を転げ落ちた。
階段の下に崩折れたメアリーは、首や手足があらぬ風に曲がっていたという。
第一発見者は遥一だった。
「ごめんなさい、ぼくがあんな所におもちゃを落っことしてなければ…メアリーは…」
葬儀の席で、遥一はそう言って俯いて肩を震わせた。
「君のせいじゃない。あれは不幸な事故だったんだ。自分を責めてはいけないよ」
大人たちは口々にそう言って、遥一を慰めた。幼い子供が、階段から落ちて死んでいるメアリーをまともに見てしまったのだ。さぞかしショックだったろう、と、気遣ってもくれた。
目の前で、肩を震わせている遥一が、泣いているのだと皆思っていたからだ。
遥一は、肩を震わせ手で顔を覆いながら、けれど、泣いてなどいなかった。
可笑しくて、可笑しくて、腹の底から笑いたいのを、ただ、堪えていたのだ。
あんなにも簡単に死ぬんだ、と、少年は笑いをかみ殺しながら思い出す。
ポアロが死んでから、ずっと何日も、メアリーが荷物を抱えて階段を下りるのを待っていた。そう、足元が見えないくらいの、大きな荷物を。
あの時、メアリーはたくさんのシーツを抱えていた。
チャンスだと、思った。
今しかないよ、さあ、やるんだ。
自分の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
迷いは無かった。
彼女が歩いてくるテンポに合わせて、彼は階段上に小さな車のおもちゃを、転がした。
落ちる瞬間、メアリーは少年を見た。
恐怖に引き攣った、その顔。そして、悲鳴。
人の声を、こんなにも心地良く聞いたのは初めてなんじゃないだろうか。
遥一はうっとりとした表情で、長く尾を引く断末魔の叫びを物陰から聞いていた。
やがて静かになった階下を覗くために、ゆっくりとした足取りで階段に向かう。心臓が胸の中で、煩いほど暴れていた。なのに、この緊張感は悪くない、と頭の何処かで思う自分がいて、それが少し怖かった。
階下には、白いシーツが大きな鳥の羽のように広がっていた。そしてそこに、徐々に浸透して広がってゆく赤黒い血。
まるで一枚の絵を見ているようだと、彼は思った。白いシーツを汚してゆく紅は、毒々しいほどに美しい。
その中心で、メアリーは仰向いているのかと思ったら、背中の方に首が捩れてしまっているらしかった。手も足も、糸の切れたマリオネットみたいに、奇妙におかしな方を向いて、
所々白い骨が肉を破って突き出ている。それは醜い、壊れたおもちゃのよう。
ぷつんと、自分の中で何かが音を立てて切れた。
「アハ!」
抑えられなかった。
「アハハ! アハハハ! いいざまだね! メアリー! アハハハハハハ!」
喉が引き攣れたように、笑いが止まらない。今まで、自分の中に溜まっていた何かが、堰を切って溢れ出してきたかのようだった。
そうして、ひとしきり笑ってから、遥一は救急に連絡したのだ。
何も知らない、怯えた子供のフリをして。
誰も遥一を疑わなかった。事故だということで、すべてが処理された。
ポアロを殺した罰だ。
遥一はそう思った。
良心の呵責など、微塵も感じなかった。それが判るほど、少年は大きくはなかったのだ。
あまりにも幼くて、純粋すぎた。
罪には、罰を。
純粋さゆえに、一度刷り込まれた感覚は、絶対だった。
「ポアロ…」
夜になると、遥一は子犬を思い出して涙を零す。
それは愛する対象にのみ捧げられ、彼にとって興味の無い存在は無に等しい。
あの日、血に塗れて全身の骨が砕け、ぼろぼろになったポアロを抱きしめて、彼は泣いた。
小さく暖かだった子犬の身体は無残にも冷たく、ぼろ雑巾のように成り果てていた。
「ごめん…ごめんよ…守ってやれなくて…ごめん…」
泣きながら、生まれて初めて憎悪という感情を知った。
−ポアロと同じ目に遭わせてやる…
暗い、今まで知らなかった何かが、胸の内で蠢く。
−復讐するんだ!
そう考えた瞬間、奇妙に心地良い陶酔感を覚えた。まるで、そうすることが当然のように。
犯罪の知識なら、今まで読んだミステリーのおかげで、幼い年齢のわりに驚くほど豊富だ。
涙に濡れた金茶の瞳が、妖しく煌めいていた。
遥一は、庭の中でも一番日当たりの良い花壇の片隅に、小さな墓を作った。この場所なら絶えず美しい花々が咲き、ポアロも寂しくないだろうと思ったからだ。
「…花の中でお眠り、ポアロ。おまえの敵は、ぼくが必ず取るからね」
涙と泥でぐしゃぐしゃになりながらも、何かを失った綺麗な笑顔で彼は誓った。
「必ず、ぼくは約束を果たすよ」
深く深く掘った穴に、彼は子犬を埋葬した。それと一緒に、彼は何か大切なものも、土の中に埋めてしまったかのようだった。
もう、それは決して取り返しのつかないもの。けれど、幼い彼にそれが分かるはずも無い。
そして、失ってしまったのだ。
あれから、随分と時が経った。
こう思い返してみると、今の自分を作ったのはメアリーかも知れない、と遥一は思う。
人生とは、何かの冗談のように、皮肉に満ちている。
朱を引いたように紅く薄い唇に酷薄の笑みを浮かべて、彼は月を見上げる。
闇に浮かび上がる細身のシルエットは、月光のせいもあるのだろうか、青白く見えて、まるでこの世の者ではないような雰囲気を纏う。
いや、すでに『人』では無いのだろうか?
『地獄の傀儡師』として、その手を血に染めたときから。
それとも、彼女を殺したときから。
何にせよ、彼を止めるものは、もう、この世界には存在しない。
そう、ただ一人を除いて…
−…私を止めるもの…ですか…
頭に思い浮かぶのは、いつも、いつも、忌々しいほどに見事な推理力を持って、自分の芸術犯罪を邪魔してくる無粋な少年。真実だけを求めるきらめきを瞳の奥に秘めた、真っ直ぐな若者。
彼を陥れるために、罠を張ったことさえある。いいや、そうではない。むしろ自分はそれを楽しんでさえいる。
ある意味、かなり執着している相手だと言えるだろう。
目を閉じて、彼の姿をリアルに思い出す。
濃茶色の豊かな毛髪、大きな黒目がちの瞳、無造作に束ねられた長い髪は、ふわふわの丸い尻尾のようで…
そこまで考えて、彼は目を見開いた。
「………………まさか」
一瞬、脳裏をよぎった自分の考えに、遥一は固まってしまっていた。
口元を押さえて、困ったような、らしくない表情を浮かべる。
否定しようとして、けれどすぐに、それが無駄な努力なのだと思い至った。柔軟すぎる自分の思考能力に辟易することもあるが、胸の奥で何かが、それが正解なのだと告げている。
「クッ! クククッ!」
あまりにバカらしくて、込み上げてくる笑いを押さえられなかった。
「フフ…アハハハ!」
うす暗い部屋の中に、彼の笑い声だけが響いている。月は相変わらず、青白い光を投げかけている。けれど、その声は不思議と突き抜けた明るい色に染まっていた。
可笑しくて仕方がない様に、彼は身体を震わせて笑った。
繰り返し見る夢の謎も、そうとわかれば、謎でもなんでもない。
単純な心理トリックだ。
彼のことを考えるたびに、無意識に思い出していただけのこと。
小生意気な少年。
高名な探偵である彼の祖父と同じ名を掲げる少年。
自分の芸術犯罪を、何度となくぶち壊しにした宿敵とも言える存在。
だから、自分の少年への執着は、そんな彼を完膚なきまでに打ち負かしてやりたいからだとばかり思っていた。
でも、それはどうやら少し違ったらしい。
いつから、そう思っていたのかは、自分でもわからないけれど…
「…彼が聞いたら、何て言うでしょうねえ?」
クスクスと、楽しげな笑みを漏らしながら、遥一はひとり呟く。
昔、可愛がっていた犬に似ているんですよ…なんて。
じゃあ、と遥一はさらに考える。
彼を手に入れれば、失くした『何か』を取り戻すことが、出来るのだろうか?
永遠に、失ってしまったと思っていた『何か』…
この執着は、無意識にそれを望むがゆえなのか?
では、その根底にあるものは…まさか『罪の意識』なのか…?
「…馬鹿馬鹿しい…」
すっと、笑みを消した顔は無表情で、その心の動きは読めない。
音の止んだ室内は夜の静寂に支配され、移動した月は、もう窓からは見えなくなっていた。
ただ深い闇が、質量を持ってそこに存在した。
「…今さら、『人』に戻りたいと思っているわけでも、ないだろうに…」
闇の中から、呟く声が聞こえる。
それは、確かに遥一の声だったろうか?
ばさりと、漆黒の闇の中で、何かが羽ばたいたような音が、した。
05/04/21 了
_________________________
高遠遥一作文、第一弾。
妄想爆裂の過去物でございました。
ええっと、竹流的な高遠解釈でしょうか。
どうして彼が、芸術という名の下に、簡単に人を殺せる人間になったのか。
という疑問から生まれた作品です。
どうしても、母親の復讐を果たして、そのまま犯罪者としての道を
歩くようになった。というのが納得いかなくて、書いたのですが、
いかがでしたでしょうか?
楽しんでいただけたなら、幸いです。
05/04/26 UP
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