右手にはナイフ




額に、ひりつくような、感触が残っていた。
冷たく、硬質な物体のはずのそれが、なぜか、焼け付くような熱さに、感じられて。

闇の中、瞬く青白い光に照らし出されていた男の姿が、残像として、瞼の裏に焼きついている。
冷たく澄んでいながら、まるで、燃え盛るような、その瞳。

「これはあの男の、情念の熱さ…ですかね?」

黒い革張りの大きなソファーに、足を組んでゆったりと腰掛けながら、高遠は軽く前髪を掻き揚げた。
白くしなやかな指先が、優美な動きで、額のその部分を掠める。

まさか、本当に引き金を引くとは…
いや、そうじゃない。間違いなく引くだろうと、初めから、わかっていた。
だからこそ、自分はけしかけたのだ。


厚いカーテンを引かれた窓辺は、明けはじめた世界を拒絶するかのように、室内に重い闇の帳を閉じ込めたまま、ひっそりと静まり返っている。
灯りも点けずに、その部屋のかりそめの主は、闇よりも深く暗い何かを秘めた金茶色の瞳を虚空に向けたまま、物思いに耽っていた。

つい先刻のことだ。あの男と対峙したのは。
間違いなく、自分を待っていたのだ。
何かあらば、引き金を引く、覚悟を持って。

燃えるような情熱を、胸に抱きながら。

いつもは癇に障るほど冷静で、人を見下すのが常のようなあの男が、まさか、あのような顔を見せるとは、誰が想像しただろう。
切れ者の警視としての顔を決して崩さない男が、あのとき、ただのひとりの男の、顔をしていた。

恋というものは、本当に恐ろしい。

自嘲を込めた笑みが、口の端に上る。
自分もまたしかり、と、思わないでもないからだ。

あの時、闇の中で、対峙したその瞬間に、すでに細工は施してあった。
その手に持つものの、引き金が、引けないように。
あの男は、気付きもしなかった。
落ち着いてる振りをしながら、本当のところ、冷静では無かったのだ。
あの男が、だ!

何故わざわざ、睨みあってみせたのか、逃げようと思えばすぐにでも逃げられたものを。
殺そうと思えば、そう、できたものを。

クッと、喉の奥で、喜色が鳴った。

あの傲慢な警視の、彼に対する気持ちなど、とっくに知っていた。自分と同じ想いで、自分と同じ眼差しで、彼を見つめていることぐらい。
思い知らせてやりたかったのかもしれない、と、思う。
居ようと思えば、いつでも彼の側にいることのできるあの警視に。彼と同じ側の、自分よりもずっと、彼に近しい位置に立つあの男に。

−わたしは、あなたよりも深く、彼に触れているんですよ− と。

この感情に、あえて名を付けるなら、おそらく『嫉妬』と呼ばれるもの。
あの男の中にも、同じものが、きっと、あるはず。
だからこそ、あの時、引き金を引いたのだ。
何の、ためらいもなく。

けれど、とりあえずこれで、互いの立場は、オープンになった。
良くも悪くも。
多少の抜け掛けは、自分の不利な立場を補うものとして、+−0といったところか。
これから、あのプライドの高い警視殿は、どう出てくるのだろう。
自分の持つすべてを投げ打つ覚悟で、抱えていた想いをさらけ出してまで、彼を守ろうとするだろうか。それとも、あくまで警視庁捜査一課の警視として、自分の想いを隠したまま、彼を守ろうとするのだろうか。
後者なら、あの男に勝ち目はないだろう。
それだけの、自信はある。
では、もし、前者なら?
目を閉じて、少し考えてみる。
常に無い、あの男の燃えるような眼差しが、過ぎる。

上等だ。
わたしも、全力を持って、相手になりましょう。

右手には、煌めくナイフを。
左手には、誰にも負けない、情熱を持って。


絶対に、負けることはできない。
この想いだけは、偽りで塗り固めた自分の中の、紛うこと無き、真実だから。
彼を想うだけで、いつもは冷たい塊の存在を感じる身体の中が、熱く滾る感覚を覚える。
あのくちびるの感触を、柔らかい髪の、その頬の感触を、失うことなど、考えられない。
この感情は、一体なんなのだろうと、自分でも思うが、正体はわからない。
正直なところ、なぜ彼なのか、それすらも、わかってはいない。
けれど、これだけは断言できる。
彼でなければ、ならないのだ。

右手には、煌めくナイフを。
左手には、彼に捧げる真実を。

…もしも、手に入らないときは、どちらをきみに、差し出そう…


ゆっくりとした動作で立ち上がると、音も無く窓辺に寄り、そして両の手で思い切りカーテンを引いた。
シャッと小気味いい音と共に、大きく開かれたその向こうは、すでに闇の気配すら無く、鮮やかな朝焼けが、眼下の無機質な街並みを、印象的に染め上げていた。
つまらない世界でも、このときだけは、闇の呪縛から解放された喜びに満ちた表情を見せ付ける。
闇は駆逐され、すべてのものが、色彩を取り戻してゆく、瞬間。

暗く閉ざされていた部屋の中に、満ち始める光の気配が、重く立ち込めていた何かを払拭してゆく。
高遠は、少し居心地悪げに、眉を顰めた。

昇り始めた太陽が、今、鮮やかな陰影を作り出す。
光ある世界に、必ず、存在する影。
まるで、彼と自分の関係のようだと思う。
背中合わせに、位置するもの。
けれど、決して離れることの無い、ひとつの、もの。
光に向かって、手のひらをかざす。
温かい、と、思った。
ふと、彼の笑顔を思い出す。煌めく陽の光を想わせる、その笑顔を。

彼という光を手に入れたいのは、その光を闇に閉ざしたいからなのか、それとも、その光に、照らされたいからなのか。

ぐっと、手のひらを握り締める。

「答えを知りたければ、勝たなくてはいけませんよね」
なんとしても…

右手には煌めくナイフを。
そして、左手には…

掴みたいのは、彼の心。

けれど、もし、手に入らないときは?
その時は…

微かに、口元に歪んだ笑みが、浮かぶ。

陽の光に照らされた彼の後ろには、黒く暗い影が、まるで黒い大きな翼のように、長く長く、伸びていた。



05/06/02     了
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05/06/03
−新月−

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