ご注意
このお話は、パラレルなので、普段のお話とは、まったく関係がありませんが、死にネタな上に、はじめちゃんが、痛い目にあっているシーンがございます。
苦手だと思われる方は、このまま、窓を閉じてお戻りください。
大丈夫かな? と言う方は、このままスクロールしてお読みください。
かなり、ストイックな箇条書きですが、楽しんでくださることを、願っています。
死の天使
深い霧が、一面を覆っていた。
白くねっとりと纏わりつく、濃密なミルクを思わせる、水蒸気の群れ。
漂う大気の流れさえ見える気がするほどの、けれど、伸ばした手の先すら見えないほどの、深い霧だった。
湖の上に、一艘の小船が揺れていた。
櫂もないその船は、まるで鏡を思わせる暗い湖面に、ささやかな波を起こしながら、ゆっくりと、ゆっくりと、何かに導かれてでもいるかのように、白い霧の向うへと、溶けてゆく。
緩やかな波の軌跡だけが、湖面を流れて、やがて、消えていった。
後には、なにも、残ってはいない。
岸辺に打ち寄せる波は冷たく、ただ、白い霧だけが、すべてを覆い隠して、沈黙している。
少年は、気だるげに瞼を開けると、目の前の男を静かに見つめた。
穏やかな、けれど何かを秘めた、眼差し。
少しばかり、赤み掛かった髪の色は、天然のものなのだろうか。大きな瞳が印象的な少年。
きっと、陽の当たる場所で笑っているのが、一番似つかわしいと思えるその造形は、けれど、酷く顔色が蒼く、何処か苦しそうだ。
「もう、ここまでなんだな…」
少年が、口を開いた。
どことなく舌足らずな、幼い印象を抱かせる声。
そのくせ、何かを諦めた響きを含んだ、声音だった。
「ええ、そうですね」
静かなテノールが、その声に答えていた。
男は、まるで闇の化身かと思わせるほどに、全身を黒い衣装で包み、白い霧の中でさえも、それとわかるほどの漆黒の髪をしている。
けれどその瞳は、月の光を映した湖を思わせる、暗い金色を湛えて、その白い美貌とともに、現世離れした印象を抱かせる。
「怖いですか?」
臆することなく、まっすぐに自分を見つめている視線を受け止めながら、男は柔らかく微笑んだ。美しい微笑。他に見る者がいれば、きっと、心奪われずにはいられないだろう。
けれど、その手には、長年使い込まれた『M29 44マグナム』が握られている。
細身の男には、不似合いなほどに大きなこのリボルバー銃は、銃身が長く、44口径というサイズのマグナム弾を使うだけあって、殺傷能力は高い、が、反動が若干大きいという難点も持っている。けれど、男にはそんなことなど問題にもならないらしい。プロの殺し屋として、今までずっと愛用し続けてきた得物だった。
一撃で相手をしとめるなら、威力は大きい方がいい… 誰に教えられたのだったか、もう記憶に残ってはいないが、その言葉を基準に選んだのは確か。
いつの頃からか、誰かが言った。
美しい、死の天使。
まさに、男にはふさわしい、呼び名だった。
「弾はあと二発、残してあります」
シリンダーの中に装填されている弾を確認しながら、男は言った。
あまりにも冷静な男の言葉を受けて、少年は微かに、笑みの形に口元を歪めた。
「うん、覚悟はできてる…つもり」
言いながら、湖面に手を伸ばして、そっと水に触れる。
波紋がゆるやかに、霧の向うにまで広がってゆくのを、感情を見せない眼差しで見つめながら、少年は、小さなため息をひとつ吐いた。
「…おれ、昨夜ね、洗面器にいっぱい血を吐いたよ。もう、ぼろぼろなんだろうな、おれの身体 …あの薬がないと、まともに動くことも出来ないしね」
そして苦しげに眉を寄せると、もう片方の腕で、湖面に伸ばしている腕を掴んだ。
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう? おれ、なんか悪いことでもしたのかなあ…」
掴んだ袖の下には、無数の注射の跡がある。黒く変色したそれを、まるで、拒絶するかのように、少年は俯いた。
長い髪が、霧のせいで湿り気を帯びて、彼の首に纏わりついている。
その様子を見ていた男は、気まずそうに、少しだけ視線を逸らせた。
「きみが悪いわけではありません。少しばかり、運が悪かっただけですよ」
「少しばかり…?」
男の言葉に、少年は自嘲を含んだ声を上げた。
「さらわれて、薬漬けにされて、たくさんの男の玩具にされて… それが、少しばかり運が悪かったってことなのかよ!」
何を振り払おうとしたのか、少年が湖に浸していた手を勢い良く振ると、水滴が男の顔に飛んだ。
「あっ…」
それを見た途端、少年の怒りは一瞬にして収まったらしい。船が不安定に揺れるのも構わず、慌てて男の傍に寄ると、自分の服の袖でその雫を拭った。
「ごめん…あんたが悪いわけじゃないのに…ホントにごめんな? あんたこそ、おれを助けたから、こんなことになっちゃったんだよな…」
申し訳無さそうに自分を映す、大きな茶褐色の瞳を見つめながら、思わず抱きしめたくなる衝動が沸き起こるのを、男は懸命に堪えていた。
「…いいんですよ…ぼくのは、自業自得なんですから」
もういいとばかりに、少年を手で制しながら、男は冷たい笑みを浮かべる。
氷の彫像を思わせる美貌に、その笑みはあまりにも似合いすぎていて、少年は微かに頬を染めた。けれど男は、そんな少年には気付きもしないで、遠い眼差しを湖に投げていた。
白い霧に閉ざされた暗い湖面は、幾ばくも見えはしないが、それは、過去も未来もない自分には、酷く相応しいと、男は思う。
たくさんの血に染まったこの手は、決して拭うことの出来ない、穢れを纏っている。そのすべてを隠してくれるこの冷たい霧は、正直、心地良い気がしていた。
この、自分の中の不可解な感情も、全部、霧が覆い尽くしてくれればいい。
そんなことを、考えながら…
男は、組織の殺し屋としてしか、生きることが許されなかった。
選択肢などない、そんな世界に、気がつけば置かれていた。
それは、早くに死んだ自分の父も、そうだったからなのかもしれない。
幼い頃から、銃やナイフを玩具代わりにして育てられた。人を殺す手立てを教わり、人といかに係わらずに、いかに欺いて生きるのかを教えられた。物事の善悪など、聞いたこともない。必要のないことは、すべて、隠された世界。
そんな中で、男は生粋の殺人者として、育てられたのだ。
躊躇いも、罪悪感もない。人を殺すマシーンとして。
そう言えば、母親の記憶など、まったくと言っていいほど自分の中には存在しないと、男は時折、他人事のように思うことがある。
生きているのか、死んでいるのかすら、わからないひと。
けれど、もし、生きているのなら、こんな自分を知られたくは無いとだけ、男は思う。
あなたの生んだ息子は、人を殺す道具になりましたと…
そんな残酷な現実は、きっと知らない方が、いい。
でも、ひとつだけ。
ただ、ひとつだけ、許されるなら、訊いてみたいと想うことはある。
それは、ずっと抱え続けている、疑問。
なぜ、生んだのかと… その答えを、問いたい。
初めて、自分の手を血に染めたとき、男はまだ十にも満たない子供だった。
その時、殺した男のことは、今も良く覚えている。
手が震えて、小さな手に握ったグリップは大きすぎて、上手く急所を狙えなかった。
何発も撃ち込んだのに、なかなか相手は死んでくれない。
結局、長く苦しんだ末に、ターゲットのその男は、やっと絶命した。
部屋の中は、想像以上に荒れて血まみれになり、それが、酷く怖かった。
苦しむターゲットの声も、断末魔の悲鳴も、忘れたことは一日としてない。
だから、もう、そんな声を聞かなくて済むようにと、ひたすら射撃の腕を磨いたのだ。
気がつけば、組織の中でも、ナンバーワンと呼ばれるほどの腕前になっていた。
命令があれば、誰でも殺す。男でも、女でも、年寄りでも、若者でも、子供でも。
自分が、生き残るために。
殺人マシーンに感情などいらない。そう、思っていた。
その信念が揺らいだのは、組織の、あるアジトのひとつに赴いたときのこと。
何度か足を運んだことのある、その建物の中の雰囲気が、その日は明らかに違っていた。
いやに、好色そうな男たちが、出入りしている。
理由は、すぐにわかった。
一人の少年が、その建物の中の一室に、拉致監禁されていたのだ。
男は少年を一目見て、自分の身体が強張るのを、感じた。
薬漬けにされているらしい少年は、虚ろな眼差しで瞬きもせずに、虚空をぼんやりと見つめている。涙も枯れ果てたのか、その跡だけが、眦から幾重にも伝っていた。
いったい、どれだけの男たちの玩具にされてきたのだろう。身体中のいたるところに、うっ血の跡や、何かで縛られたと思しき痣ができている。
力なく手足を投げ出して、今も男に組み敷かれたまま、時折、掠れた声で「いやだ」と小さく呟いている少年を、それ以上見ていることもできずに、男は後悔にも似た思いを抱いて、背を向けた。
少年を初めて見たのは、じつは、2ヶ月ほど前のこと。
ある男を消せ、との組織からの命令を受けて、その行方を捜している最中だった。
少年はターゲットの息子で、父親が麻薬の密売組織の一員だというのに、まるで何も知らないのか、ごく普通の高校生をしていた。
くるくるとよく動く表情豊かな少年の瞳は、常に明るい色を湛え、屈託のない笑顔は、太陽そのもののように眩い気がして。穢れのない美しさを、男は少年の中に見出していた。
決して、自分が持つことを許されなかった、光。
すぐ目の前にあると言うのに、手の届かない、遠いせかい。
まるで、少年は、その申し子のように感じられて。
そうして、何度となく彼の姿を見るたび、いつしか男は、いつまでもそのままでいて欲しいと、憧れにも近い想いを抱きはじめていたらしい。
気がつくと、少年の姿を見るのを楽しみにしている自分がいて、このまま、ターゲットが現れないことすら、心のどこかで願ったりもしていた。
なのにある晩、愚かにも、ターゲットは少年の所に戻ってきたのだ。普通のサラリーマンとおぼしき格好をして、手には、少年への贈り物なのだろう包みを抱えて。
自分が狙われていることぐらい、知っているだろうに。組織がわざと流した情報を真に受けて、姿を現したのは、明らかだった。
「奴が現れなければ、息子を殺せ」
子供の命を、引き換えにはできなかったのだろう。
愚かな男だ、と、思った。
同時に、この男は息子を愛しているのだな、とも理解していた。
だからこそ、少年はあんなにも明るく笑っていられるのだろう。
少年にも母はいないが、この男が、その分の愛情を注いで育てたのだろう。
けれど…
家に帰りつく前に、ターゲットは永遠の眠りに就いていた。
少年の笑顔が、脳裏に浮かんだ。
父親が死んだと知れば、きっと、涙にくれるに違いない。これからは、ひとりで生きてゆくことにもなる。
あの綺麗な笑顔も、翳ってしまうのだろう。
でも、仕方がない。これが、自分の仕事。
組織を裏切って、大量のドラッグを横流ししたターゲットが悪いのだ。
その金を持って、組織から逃げようとしたことに対する制裁は、同じことを企む他の者にとっての牽制にもなる。
これが、自分の生きる、闇の世界。
男はいつものように、愛用のマグナムを懐にしまった。
いつもなら気にもならない銃の重みが、今夜はやけに、重い。
男は、自分に言い聞かせる。
感情など、いらない。そんなもの、邪魔なだけ。
死体の始末は、それ専門のやつらがやってくれる。男の仕事はここまでで、もう二度と少年に会うことはない。
あの時、そう思いながら、夜の闇に紛れたのだった。
なのに、なぜ彼が、こんなところにいるのだろう?
なぜ、こんな変わり果てた姿を、さらしているのだろう?
部屋の前で、呆然と立ち尽くしている男に、組織の誰かが近づいてきた。
名前も知らない、組織の男。
けれど相手は、男の顔を知っているらしい。妙に馴れ馴れしく、声を掛けてきた。
「お前も興味あるんだったら、一度やってみるか? 結構、いい感じだぜ」
にやにやと、薄ら寒い笑みを顔に貼り付けたまま、組織の男は言う。
「あの…少年は?」
自ら問いかけてきた男に、組織の男は、珍しいものでも見るような表情を一瞬だけ浮かべて。また、すぐ、にやにやと笑った。
「へえ、お前、ああいうのが趣味なのか。あいつはさ、この前、お前が殺ったヤツの一人息子らしいんだけどさ。あいつの親父の出した損害の穴埋めに、あてがわれたんだってよ。マニア向けのビデオを、何本か撮ったって聞いたがな。今じゃ、ああやって玩具扱いさ。まあ、他に身寄りもなかったらしいから、都合がよかったみたいだぜ?」
目の前が、真っ赤に染まるほどの怒りを、生まれて初めて、感じていた。
気がつくと、辺りは血の海で。
死体の山が、自分の周りにできている。
持っていた弾は、全弾、使い果たしていた。使い慣れたナイフも、血と脂にまみれたまま、同じく血まみれの手に握られている。
地獄とは、こういう景色のことを言うのかもしれないと、男は辺りを見回しながら、けれど、冷めた頭で考えた。
壁を埋め尽くすほどに、飛び散った血飛沫と、残る弾痕。
床には、脳漿とおぼしき物体がぐちゃぐちゃにばら撒かれ、赤黒い、内臓らしき物も、血の海の中には浮かんでいる。
空気すら、赤く染まっている気がするほどの、血臭。
そして、血まみれの、死体、死体、死体。
笑いがこみ上げてくるぐらい、無残な殺戮現場だ。
男は、自分の身体にも視線を落とした。手も服も靴も、ドロドロの血にまみれてはいたが、かすり傷程度の怪我ぐらいしか、負ってはいない。
「さすが、ナンバーワンと呼ばれるだけのことは、あるんでしょうかね?」
自嘲じみた言葉を吐きながら、男は、少年のいる部屋へと足を向けた。
ぐちゃりと、靴の下から、湿ったイヤな音が、聞こえた。
部屋の中で、少年はさっきと同じ粗末なベッドの上で、さっきと変わらず、全裸のままで横たわっていた。そのベッドの下には、頭から血を流した、太った男の死体が転がっている。それは、さっきまで少年を組み敷いていたヤツの、成れの果て。
どうやら、男に頭を打ちぬかれ、一発で絶命したらしい。
…もう少し、苦しめても、よかったんでしょうけど…
男は、血でどろどろの手に銃を握り締めたまま、少年に向かって、歩み寄った。
近づいてくる、血まみれの男をぼんやりと見つめながら、少年は怯える様子も見せずに、静かに口を開いた。
「…死の…天使…おれを迎えに…来てくれたの…?」
薬漬けにされた少年の目に、男の姿は、どう映っていたのだろう?
僅かに聞き取れるほどの掠れた声で、少年は血まみれの男を、天使と呼んだ。
その呼び名を、知っているはずもない少年は、けれど、ゆっくりと、嬉しそうな笑みを浮かべながら、両手を男に向かって差しだした。
「おれを…この地獄から…自由にして…その…銃で…」
痩せて、筋肉の落ちた細い腕には、黒く変色した注射針の跡が無数に残っている。
どうせ、使い捨てのつもりで、無茶な薬の与え方をしたのだろう。それも、無理やり。
もう手遅れだと、一目で男にはわかった。
あの、光に満ちていた瞳が、どろりと濁って、暗く閉ざされている。
男の秀麗な眉が、痛ましげに寄せられた。
「…ねえ…おれを…好きにして…いいから…自由に…」
なおも言い募る、少年の手を取りながら、男は、言った。
「ええ、連れ出してあげる。自由にしてあげるから、今は、眠っていなさい」
その言葉に安心したのか、少年は穏やかに微笑むと、憑き物でも落ちたかのように、意識を失った。
その瞬間、眦から一粒だけ、透明な涙が零れ落ちた。
アジトに残っていた薬と、持てるだけの弾と、そして少年を愛車に乗せると、男は建物に火を放った。
そんなことをしても、誰の仕業なのかぐらい、すぐにばれてしまうだろう。
けれど、燃え上がる炎を見ながら、男は心の中で、何かと決別していた。
それは、誰かに命令されて動くだけだった自分に、なのだろうか。
炎に背を向けて、歩き出した男の顔には迷いなどない。
逃げられるだけ逃げようと、固く心に決めていた。
たとえそれが、僅かな時間でしかなくとも。
なぜこんなことをしたのか、男は自分でも、はっきりとした理由を見つけることができないまま、車を走らせ続けていた。けれど、気持ちのいいほどに、後悔は無い。
少年を、放って置くことができなかった。
もう一度、太陽の下で笑って欲しかった。
それだけのことだったのかもしれない。
命令されて人を殺すことに、嫌気が差していたのも確か。
そのことで、誰かをさらに不幸にするのだと、少年を見て、気付いてしまったということもあったのかもしれない。
でも、もう、そんなことはどうでもいい。
リクライニングさせた助手席で眠っていた少年は、目覚めたとき、酷く驚いた顔をしていたけれど、結局、何も訊かずにいてくれた。
どこへ自分を連れてゆくのかとも、何をしようとしているのかとも、男の正体も、何も。
ただ、窓を開けていいかとだけ、男に訊いた。
まだ風の冷たい季節だというのに、少年は窓を開けると、懐かしげに目を眇めた。
ずっと、閉じ込められていたのだろう。
彼が、地獄だという場所に。
穢されて、心も身体も、ぼろぼろにされて。
それでも今は、たとえ艶を失ってしまっても、綺麗な赤みを帯びたままの少年の髪が、陽の光をはじいて輝いている。
下ろされたままの彼の長い髪が、たおやかに風に靡いている。
そんな些細なことで、男は不思議と気持ちが安らいでくるのを、感じていた。
自分の命に代えても、この少年を守りたい。
できることなら、この少年の命が尽きるまで。最後まで。
男は、生まれて初めて、なにかを守りたいと、強く、願った。
「寒くは、ありませんか?」
少年にだけ向ける、やさしい笑みで、男は問いかける。
少年は、小さく首を横に振った。
長くは逃げられないことなど、わかっていた。
少年はもはや、薬無しでは生きられず。かといって、薬を使い続ければ、身体をぼろぼろにして生きられない。
最後の薬を、昨夜、使った。効き目が切れるのも、時間の問題だ。
組織の手から逃れていられるのも、もう、限界だろう。
だから、ふたりで、この湖に来た。
旅の、終点として。
一年の大半を霧に閉ざされ、人里はなれた場所にあるこの湖は、一度沈めば、二度とは浮かんでこないと言われるほどに、深く、冷たい。
自分には、似つかわしい、最後の場所。
でも、この少年は、こんな所で終わっていいはずが、なかったのに。
「すみません…きみを、助けてあげられなくて…」
後悔を滲ませたその声に、少年が、答える。
「…ううん、あんたは、おれを自由にしてくれたよ? おれを今まで守ってくれて、ありがとう。もう充分だよ」
少年は蒼い顔色のまま、懸命に明るく笑おうとして、急に、思いつめた表情になった。
意を決した、そんな風情が漂う唇が、開かれた。
「ねえ、なんで? なんで、おれなんかを助けたの? あんたは他のヤツらみたいに、おれに触れようともしなかったし。なんのために、おれを助けたの? あんなにたくさん、人を殺してまで…」
今まで、何も訊こうとはしなかった少年が、突然、自分に突きつけてきた問いに、けれど男は、静かな笑みを湛えた。
「きみには、以前と同じように、笑っていてほしかったから」
答えにもなっていない、男の答えに、少年は戸惑いを隠せない。
「以前…って、なんでそんなこと、あんたが知ってんの?」
「…知っていたんですよ。君のお父さんを殺したのは…ぼくなんですから」
想ってもいなかったのだろう男の言葉に、凍りついたように、少年は固まった。
「ぼくが、きみのお父さんを殺しさえしなければ、きみも、こんな目には合わなかったかもしれませんよね」
言いながら、ほんの少しだけ、男は苦しげに眉を寄せる。
「…それ…って…あんたは…罪滅ぼしのつもりで、おれを逃がしたって…こと?」
「そう…かもしれません…ね」
少年が、息を飲むのがわかった。
沈黙が降りて、小船にぶつかった波の立てる小さな水音が、急に耳に聞こえ始める。
少年は、元々から大きな目をさらに見開いたまま、身じろぎもしない。
きっと酷く責められるだろうと、男は覚悟していた。二、三発、殴られるくらいは当たり前だと考えていた。
訊かれないのをいいことに、ずっと隠していた真実。
少年が怒るのは当然のこと。殺されても、文句なんか言えない。
それだけのことを、今まで、自分はしてきたのだ。
たくさんの人を、この手にかけてきたのだから。
血まみれの、この手に。
だから次の瞬間、少年が穏やかに微笑んだのを、信じられない面持ちで、男は見つめた。
「…そっか、あんただったんだ…なら、安心だ」
「なにが、ですか?」
少年の言葉にさらに驚かされながら、男は思わず、といった風に訊き返していた。
少年は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「あんたでも、そんな顔するんだな」
そう言ったあとに、クスクスと小さな声を立てて笑う。
久しぶりに聴く、少年の笑い声。けれど男には、事態がよく飲み込めない。
「…ぼくを…責めないんですか? すべて、ぼくのせいかもしれないのに?」
強張った男の声に、少年はまた、小さく首を横に振った。
「あんたのせいじゃないよ。父さんは…おれにはいいお父さんだったけど、悪いことしてたんだよね? こんな薬を売って…たくさんの人を苦しめてたんだ。でもあんたなら、父さんは苦しまずに死ねたんだろ? もしも他の人だったら、すごく苦しい目にあわされて父さんは死んでいたかもしれない。だからよかったんだ、あんたで。おれは、きっと最初から…こうなる運命、だったんだよ…」
言ってから、少年は、視線を白い霧の空間へと向けた。
諦めを浮かべた眼差しを、男には見られたくなかった。
自分のために、すべてを犠牲にした男を責めることなど、できなかった。
なによりも、自分の感情が、それをさせない。
「おれのことは…もう、いいんだ…おれは、あんたに…感謝してるよ」
そして、少し俯いて、僅かに頬を染めた。
「…あんたの傍にいられて、嬉しかった。だから、もう、いいんだ…」
少年は、そっと自分の胸に手を当てていた。
…いいんだ、これで…。
「そろそろ、行こっか」
少年が屈託の無い声で、男に告げる。まるで、これからピクニックにでも出かけるみたいに。
以前の、何も知らなかった頃の、明るい笑顔で。
男は、眩しげに目を細めた。
「後悔は、ありませんか?」
装填した弾を、もう一度確かめながら、男が言う。
「後悔…か。じゃあ最後に、教えて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」
少女みたいな大きな瞳に男を映しながら、少年は首を傾げる。ほんの少し、男は心拍数が上がったのを、自覚した。
「なんでしょう?」
男が、平静を装った声で答えると、少年は笑った。
「あんたの名前、聞いてない」
「…言ってませんでしたか?」
「うん。だっておれたち、互いを呼ぶときはずっと、『あんた』と『きみ』だったじゃん」
男は、戸惑った色をその表情に浮かべながら、ゆっくりとその答えを、唇に載せた。
「高遠遥一と、いうんですよ」
「ふうん、たかとお…さん、なんだ」
「ええ、こんな風に、誰かに本名を言うのは、もしかして初めてかもしれません。いつも偽名で通してましたから。なんだか、不思議な気がしますね」
高遠の言葉に、少年は嬉しそうに微笑む。
「ふふ、じゃあおれ、あんたの初めてをもらっちゃったんだ?」
「それは…誤解を生むセリフですねえ」
高遠も、静かに笑う。
「どんな…漢字なの?」
「高く、遠く、遥かな一つ。そんな字ですね」
「へえ、いい名前だね。誰がつけたの?」
「それは、知りません。父なのか、顔も知らない…母なのか」
「…きっと、お母さんじゃないかな? おれ、そんな気がする…」
「どうして?」
「おれの勘、よく当たるから」
悪戯っぽく首を傾げてみせる少年に、高遠は何も言わずに、ただ、やさしく微笑んだ。
「おれは、はじめ。金田一はじめ。おれの名前もね、死んだ母さんが付けてくれたんだ。って、なんだか変だね、最後の最後でお互いに名乗りあうなんて。何ヶ月も一緒にいたのにね」
「そうですね」
少しの間、見つめあって。そして、ほんの少しだけ、少年は切なげな表情を浮かべた。
目の前の男の姿を、その瞳に、焼き付けようとでもするように。
高遠も、真剣な眼差しでまっすぐに少年を見つめながら、けれど、何を考えているのか、その感情を見せない。
少年は、静かに目を閉じた。
「痛くないよね? 一発で決めてくれるよね?」
「ええ、一瞬です。痛くも苦しくも、ありませんよ」
カチリと安全装置がはずされる音が、耳の傍で聞こえると、やっぱり、どうしようもなく、はじめの身体は震え出す。
「大丈夫、怖がらないで」
やさしい高遠の声に、はじめは意を決して、悩んでいた一言を告げた。
目を閉じて、何も見えていないから、これが最後だから、勇気を振り絞れたのだろう。
「…たかとお…さん…おれ、あんたのことが………好きだった…よ」
目の前で、高遠が息を飲む気配を感じた。
どんな顔をして自分の告白を聞いているのか、気にはなったけれど、はじめは目を開けなかった。
高遠の答えを知るのが、怖かったからかもしれない。
高遠はこの逃亡生活の間、本当に一度も、はじめに触れてくることはなかったのだ。
逃げ回っている間には、安ホテルの一つしかないベッドに、ふたりで眠ったこともある。
けれど、高遠は決して何もしては来なかった。
きっと彼には、そういう趣味がないのだろう。
最初はそのことに安心感を覚えていたはじめだったのだが、傍にいるうちに、そのことをひどく寂しいと思うようになり始めていた。
高遠を見ていると、なぜだか胸がドキドキしたり、苦しくなったり。
そして、自分はこの男のことが好きなのだと、気がつけば、自覚していた。
高遠はとても綺麗で。肌理の細かい白い肌も、長い睫を持つ少し下がり気味の目許も、男には過ぎるほどに紅い唇も、どう見ても、金色にしか見えない瞳の色も。
男にしておくには勿体無いくらい、綺麗すぎて。
洗練された動きも、他の男がしたらキザったらしいと鼻につく仕草も、高遠がすると、とても自然でかっこよくて。
その上に、はじめにだけ、高遠はやさしかった。
もしかしたら、高遠も自分のことが好きなんじゃないかと、勘違いしてしまいそうになるくらい。
…でも、好きだとは言えなかった。どうしても。
夜、目が覚めて。
隣に、高遠の綺麗な寝顔があって。
衝動的に、キスしたいと思うことがあっても、全部、我慢した。
高遠にそんな趣味はない。
なによりも、たくさんの男に穢されて汚れている自分に、そんな資格は、無い。
そう思うと、涙が零れた。
それでも、高遠の傍にいられるだけで、幸せだったのだ。
薬がなければ、苦しくてまともに動くことすらできない生活でも。ただ、ひたすらに逃げ続けなくてはいけない生活でも。高遠が、傍にいてくれるだけで。
たとえ一度も、触れ合うことができなくても…
そう。もう、何も思い残すことはない。
…たかとおに出会えて、おれは幸せだった。それだけで、充分だよね。
心の底から、そう思えた。
これは、最初で最後の、本気の恋に違いないから。
目を閉じたままの暗い闇の中で、少年は、ずっと言いたかったことをやっと言えたと、淡い満足感に浸っていた。
少し寂しいと感じるのは、これが最後だと、わかっているからなのだろう。
そんなことを考えていたはじめの唇に、突然、柔らかな感触が、触れた。
驚いて瞼を開くと、すぐ目の前に、綺麗な顔があって。
「だめ、目を閉じてください」
唇を触れ合わせたまま、そう言われて、はじめは素直に、また目を瞑った。
「はじめ…ぼくも…ぼくもずっと、きみが好きでした。初めてきみを見たときから、ずっと。でも、君に嫌われたくなくて、怖くて触れられなかった。…だから、本当に、嬉しい」
熱っぽく、けれど掠れた、少し震える声で囁かれて。
甘い吐息を、感じて。
「たかと…」
熱い口付けを与えられて。
強く、抱きしめられて。
幸せで、涙が、頬を伝った。
あの時、あの部屋の中で、血まみれの高遠が近づいてきたとき。
本当に、その背中に、大きな黒い翼が、見えた気がしたんだ。
…ああ、おれだけの死の天使、どうか、今、奪って。幸せな時間ごと…
白く、霧で閉ざされた湖に、乾いた銃声が響いた。
それは、長く尾を引いて、静かな湖に響き渡った。
一瞬、霧が紅く染まる、気配があった。
そして、そんなに間を置かずに、もう一発、同じ音が響いた。
まるで、追いかけるように。
湖には、もう、人の気配はない。
静かな波紋が、湖面に、幾重にも重なる丸い紋様を、描いていた。
深い霧は、すべてを覆い隠して。
何も無かったとでも言いたげに、ただ、そこに漂っている。
どこからともなく、水鳥の羽ばたく音が、聞こえていた。
時折、湖の霧が綺麗に晴れ上がると、広い湖の真ん中に、一艘の朽ちかけた小船が見えることがあるという。
ゆらゆらと静かに波に揺れながら、その船は湖の中を漂い、またすぐに、霧に隠されてしまうのだという。
きっと今も、その小船は彷徨っているのだろう。
ふたりの孤独な魂を、乗せたまま。
永遠に、閉ざされた、深い霧の中を。
黒い、死の翼を纏ったままで。
06/03/11 了
06/03/17 改定
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きょ~ふの箇条書き攻撃とでも、申しましょうか?
もう、ここまできたら、開き直るしかないないような、見事な箇条書き作文でございます。
しかも、自分の趣味に走りまくったお話で、言い訳のしようもございません!
最初は、もっとストイックなお話にしようかと考えていたのですが、それだと、「高金」で書く意味がないので、後半は頑張って、若干「高金」になったんじゃないかなと…(汗)
でも、はじめちゃんが、可哀想な役柄になっちゃって、ごめんなさい(滝汗)。
しかも、死にネタだし(泣)。
ホントはもうちょっと、『死の天使』を生かした作りにもしたかったのですが。
力量不足と申しますか、企画倒れと申しますか…しかも長い!!
本当は、二つに分けた方がいい長さなのですけど、適当な所がありませんでした(汗)。
うう、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
感謝でございますv
06/03/11UP
-竹流-
で、あんまり酷かったんで、少しばかり書き直し&書き足しました。
…でも、そんなに代わり映えしないかも(汗)。
06/03/17再UP
14/09/06 再々UP
-竹流-
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