Pleasant despair
「遊びですよ」
あの日、この男、全国指名手配犯『高遠遥一』は、おれに触れながら、そう言った。
それが、無理やりだったのは、確かなこと。
気がついたときには、すでに両手をベッドに縛り付けられていて、薬のせいなのか、自分の意思で身体を動かすことさえ出来なくされていた。
おれを汚したいのだと、酷薄な笑みを浮かべる目の前の男を見ながら、けれど、おれはどうすることも出来なかったんだ。
何ひとつ抵抗も出来ないまま、受け入れさせられて、揺さぶられて。
けれど、頭の中が酷くぼんやりとしていて、今、起こっていることが、夢なのか現実なのかわからない、そんな状態だった。
すべてが終わった後も、まだ効き目が残っている薬のせいでなのか、おれは朦朧としたままで。
そんな、意識さえもはっきりとしないおれに向かって、この男は言った。
「…これで、きみはもう、ぼくのものですからね」
そうして綺麗に微笑んだのだけは、今も、記憶の底に残っている。
その後、意識を失ってしまっていたのか、次に目が覚めた時には、おれはちゃんと制服を身に着けて、ベッドに横たわっていた。
まるで、何事も無かったかのように。
「気がつきましたか?」
傍にこの男がいなければ、全部夢だったと思っていたことだろう。身体に妙な違和感を感じはしたけれど、別に派手な痛みがあるわけでもなかったし。
ただ手首には、くっきりと紐か何かで縛られたと思しき赤い痣が付いていて、あれは夢なんかではなかったのだと、主張しているかのようで。
ベッドの上に起き上がりながら、おれは手首をさすっていた。そこに着いた汚れを、必死で取ろうとするみたいに。
そうしながら、どうしても、高遠の方を見ることが、できなかった。
「…おれを、どうしたいんだよ…」
暗い声を零すおれとは対称的に、この男は、不気味なくらいあっけらかんとした態度で。
「どうぞ、帰ってくださって、結構ですよ?」
そして、なぜだかおれは、そのまま解放されたんだ。
あっさりと、あっけなく、戸惑うほどに。
だから、思わず訊いていた。それは、あまりにもすんなりと解放されることに、逆に奇妙な危機感を感じたせいかもしれない。
「…おれをこのまま、帰していいのかよ」
「どうして?」
なぜそんなことを訊くのかわからない、とでも言いたげに、目の前の男はきょとんと首を傾げてみせる。だからおれは、敢えて、踏み込んだ物言いをした。
「このまま…警察に駆け込むかもしれないだろ? いいのかよ」
なのに高遠は、お好きに、と、なんだか余裕をかました態度で、口元に薄い笑みを刻んだだけだった。
外に出ると、今までいたそこは、繁華街にあるそれなりのクラスのホテルだと知れた。学生服のまま、鞄を提げて廊下を歩くおれは、さぞかし浮いて見えたことだろう。
…でも、全国指名手配犯がこんなおおっぴらな所に泊まってるってのも、案外灯台下暗し、ってとこなのかな?
まぁ、どうせ、変装して部屋を取ったんだろうけどさ。
本当に、何を考えているんだか…
帰る道すがら、おれはそんなことばかりを考えて歩いていた。
そうしていないと、自分を保っていられなくなりそうで。
今にも、叫び出してしまいそうで。
途中、交番の前も通りかかったけれど、おれは見ないフリをして、その前を素通りすることを選んだ。
結局、最後まで警察に通報することも無く、おれは真っ直ぐに家に帰ってしまっていた。
帰ってくるのが遅いと、親から小言を食らった程度で、誰にも、何も気付かれなかった。
たぶん、誰にも気付かれないようにと、最初から、あの男が仕組んだ計画のとおりに事は運んでいたのだろう。
おれが警察に行かないことも、きっとあの男の計算には入っていたに違いない。
警察に駆け込んだところで、なぜ攫われたのか、どうして攫われたのにすぐに解放されたのか、なんて、おれには上手く説明ができないし。すべてを隠して、連続殺人犯を見かけたんだと話したとしても、最後まで上手く嘘をつき通す自信も無い。ましてや、剣持のおっさんや明智さんを前にして、真っ直ぐに顔を上げて話すことなど出来ないだろう。
けれどそうすれば、聡い明智警視には、何かを勘付かれてしまうに違いないんだ。
…そんなリスクは、怖くて犯せない。
だってそうだろ? おれは男なのに、あの男に…
つまらない意地かもしれないけれど、それだけは、誰にも知られたくない。
学校の帰りに、いきなり後ろから薬を嗅がされて、気がつけばあの男が目の前にいて…
………………………。
いや、後のことは、もう全部忘れてしまおう。
どうせ、朦朧としてたから、よく覚えてねえし。
今も酷く身体はだるかったけれど、痛みも特には感じないし、動けないわけでもない。
それはあの男が、おれに無理を掛けないようにしていたから…なのかもしれない。
だって、高遠の手は、とても優しくおれに触れていた…気がするから。
でも、それもきっと計画の内、なのだろう。
色々考えていても、警察という選択肢を、おれはどうしても選べなかった。
それは、大いなる間違いだと、頭ではわかっていたけれど。
ただ、今は、自分の身体を抱きしめて、震えていることしか、出来なかったんだ。
そして、あれから数日が経っていた。
あの日以来、おれの周りは特に変わることも無く、平穏な日々が過ぎている。
アームバンドで隠していた両手首の痣も薄くなり、普段と変わらない生活を続けているうちに、あれはやっぱり悪い夢だったんだと、おれが思えるようになり始めた矢先のこと。入れた覚えの無い着信音が、突然、おれの携帯から鳴り響いた。
それは、聞きなれないクラシックのピアノ曲。
部屋でひとりくつろいでいる所を、見計らったかのように送られてきたメールの送信者を、おれは確認するまでも無く、誰なのか知っていた。
あの男しか、いない。
震える指先で、メールを開いてみると。
『この写真をお友達にばら撒かれたくなかったら、ぼくの言うことを聞いて下さいね v 』
やたら軽い印象の、脅迫状。
敬語でしかも、ハート付きだ。
さらにメールには、画像も添付されていた。
添付されていた画像には、目を覆いたくなるほど哀れなおれの姿が映されていた。
全裸で、まだ手首には紐を絡みつかせたまま、乱れたシーツの上に解けた髪を散らせて。
汗ばんだ頬に首筋にと、いく筋もの髪の毛を纏わりつかせているその姿は、小さな画像とはいえ、見ている自分に寒気を覚えさせた。さらに追い討ちをかけるように、そんなおれの身体の上には、白っぽい液体が散っている。
誰が見ても、どういう状況で撮られたのか、一目でわかる代物だった。
目の前が、暗転してゆく感覚を、眩暈とともにおれは感じていた。
そこに確かにあると思っていたものが、脆く足元から崩れて、まっ逆さまに暗闇の中に落ちてゆく、そんな、絶望感。
身体が震えて、涙がこみ上げてくる。
でも…
なんとなく、わかってはいたんだ。
こんな風に、おれの弱みを握るために、あの男はあんなことをしたんだろうって。
そして、それをネタに、また連絡してくるだろうって。
わかってはいたんだ。
でも、どうすることも出来ない。
馬鹿なおれは、誰に助けを求めることも、できないんだから。
結局、メールで指定された日時に、腹をくくって、その場所に向かうしかなかったんだ。
「おや? ほんとに来たんですねぇ」
高遠の第一声がこれだ。殴ってやろうかと思うのは、当たり前だよな?
おれが、どんな思いでここまで来たのか、この男はこれっぽっちも理解してはいないんだろう。いや、そんなことも含めて、楽しんでいるのか。
「…あんたが…呼びつけたんだろうが! おれを脅迫してっ!!」
拳を握り締めながら、おれが声を荒げても、目の前の男は、涼しげな顔で。
ああ、そう言えばそうでしたね。
なんて、嘯く。
そこは、普段なら、絶対におれなんかが寄り付かない、高級ホテル。
その最上階に位置する広い一室で、おれは高遠と向かい合っていた。
もう、夏だというのに、真っ黒な長袖のシャツに身を包んで、この男は窓辺に佇んでいる。
窓の外には、眩い青空と、眼下に広がる街並みが広がっている。
気持ちのいいほどの、パノラマ。
おれの気分とは、真逆の世界。
高遠は、きっといつもの人を小ばかにしたような笑みを浮かべているのだろうけれど、逆光になっていて、こちらからその表情はよく見えない。
おれを見つめたまま、それ以上、何も言わない。
まるで、値踏みするみたいに。
おれは、握り締めた手のひらに汗をかきながら、それでもしばらくの間、高遠と睨み合っていた。
そんなに長い時間でもなかったはずなのに、おれは、酷く疲れていて。
まったく動こうとしない高遠に、戸惑いすら感じていて。
このまま、何もしないで帰してくれるんじゃないかと…そんなことも淡く期待し始めていたのかもしれない。
「用が無いんなら、帰るぜ」
おれが、思い切って踵を返そうとしたとき、ようやく高遠が動いた。
「…きみに送った画像は、とてもよく撮れていたでしょう? じつはあれ以外にも、色々ありましてね。一人で見ているのもつまらないんですよ。そうそう、きみの幼馴染みの少女は…美雪さんでしたっけ? 彼女はあの画像を見たら、なんて言うでしょうねえ?」
その言葉に、おれは足に根が生えたように動けなくなる。
本当に、ここまで卑怯な手を使ってくる男だったとは。
いいや…そうじゃない、ただ、この男は、楽しんでいるだけなんだ。
おれを、いたぶって。
おれは、今出来る精一杯のきつい眼差しを、高遠に送った。
そんなおれを綺麗にスルーしたまま、高遠が手にした小さな黒いリモコンを窓の方に向けると、突然、大きな嵌め殺しの窓を覆うべく、窓際のカーテンが自動で引かれ始めた。外の世界と決別するように、高い遮光性を誇っているのだろう重厚な布は、静かに闇を室内に導く。
すべてリモコンで操作できるのか、闇が降りると、次は室内のあちらこちらに備えられた間接照明が明かりを灯し、光量を抑えたオレンジ色の光が広い部屋に満ちると、急に夜がやってきたような奇妙な錯覚を、おれに与えた。
「…なんのつもりだよ…」
「わかっているんじゃないんですか?」
人工的な灯りの下で、高遠が、その紅い唇を笑みの形に歪める。それは、綺麗に左右対称に引き上げられ、まるで作り物めいた印象をおれに抱かせた。
「あのメールの意味がわからなかったとは、言わせませんよ」
高遠が、ゆっくりとした足取りでおれの傍まで来ると、いきなり、おれの髪を止めていたゴムが消えて、おれの髪が肩に掛かった。高遠の手には、確かに今までおれの髪を縛っていたはずのものが握られている。
余裕を見せ付ける高遠に、おれは唇を噛むしかなかった。
「こうしていると、きみも結構可愛いんですけどね」
クスクスと、さも楽しげに忍び笑いを洩らしながら、おれの手を取ると、ベッドへと誘う。
「逃げないんですか? 今なら、まだ逃げられますよ?」
おれの手を引きながら、この残酷な男は、まだそんなことを言うんだ。
「そんなことをしたら、また、あの画像をばら撒くって脅すんだろ!」
「物分りが良いのはいいことです」
そしてそのまま、おれの身体をベッドに押し倒して。なぜだか一瞬、笑みを消した。
おれの上に圧し掛かる形になった高遠の顔に、サラサラの黒髪がかかっているのが見えている。
それは、暗い灯りの中で、とても印象的で。
元々整った造形のこの男の顔は、やたらと綺麗に見える気がして。
そんなことに気を取られていたら、フッと、再び笑みを浮かべながら、
「もう、初めてじゃないんだし、きみも覚悟が出来ているってことですかね」
この男は、おれに喧嘩を売っているとしか思えないセリフを、吐き出す。
「その初めては、あんたが無理やり奪ったんだろうがっ! まさか、あんたにこんな趣味があるなんて、思いもしなかったぜ!!」
嘲るような高遠の眼差しに、怒りのあまり紅くなってしまいそうな顔を逸らして、おれは精一杯の憎まれ口を叩きつけたつもりだったんだ。
けど、
「別にこだわりは無いんですけどね。男が好きだとは、思いませんねぇ」
「じゃ、なんでこんなことすんだよっ!」
咄嗟に、高遠に向き直って、そう口走っていた。
「いいじゃないですか、遊びなんだから」
今度は、凍えるほどに冷たい金色の眼差しで、おれを捉えながら、この男は答えた。
…ああ、そっか。この男は、本当に、おれをいたぶりたいだけなんだ。おれを辱めて、おれが絶望に落ちてゆく様を、見たいだけなんだ。
そう、理解した途端、一瞬にして、怒りに昂ぶりかけていた感情は、冷めていた。
奇妙に冷めた感情の中で、じゃあ、おれは、どうすればいいのかと考えていた。
きっとこの男は、おれが、とことん駄目になってしまうまで、離さないだろう。そのことが、透けて見えるだけに、悔しさが込み上げて来る。
なら、おれもこれを遊びとして捉えないと、割り切らないと、この男の思う壺なんじゃないのか?
この時おれは、なぜだか、本気でそう思ったから。
だから。
「遊びなんだったら…じゃあ、ゲームでも…しようか?」
高遠のお月様みたいな色をした眼を、挑発するように、真っ直ぐに見据えて。
おれは、言った。
絶対に、逸らしちゃ駄目だと。余裕のあるフリをして、高遠に、これは予想外でしたね、と思わせないと駄目なんだと。自分に言い聞かせながら。
「ゲーム…ですか?」
案の定、意外そうな顔をしたこの男に、おれは、知らず笑みを浮かべていたらしい。高遠が、少しだけ、目を見開いた。
「…ルールは簡単、『本気になった方が負け』っての、どう?」
「どうですかね、お互い、別に男が好きって訳でもないんですから、勝負になるんでしょうか?」
「そんなの、わかんないだろ? おれも、ただあんたの言いなりになってんの、嫌だし。ああ、それともあんた、自信無いんだ? 案外、おれのこと気に入ってたり?」
おれの言葉に、ちょっとばかり、高遠が不機嫌な表情になった。
心外ですねえ…
とでも、言いたげに。
へえ、この男でも、こんな風に感情を顔に出すことがあるんだなあなんて、こんな状況で、おれも、変に冷静な頭で感心したりして。
だって、どこまでが真実で、どこからが偽りなのか、全然見せない男だろ?
それとも、高遠という男のすべてが、偽りで出来ているのか。
この男にとっては、人生そのものが、退屈しのぎのゲームなのかもしれない。
「そこまで言うのなら…いいでしょう。じゃあ、ゲームとして、ぼくも本気で掛かりますから、覚悟してくださいね」
突然の宣言に、今度はおれが、驚かされる番だったらしい。
驚いた素振りを見せてしまったのだろう、目の前の男は、余裕の笑みを浮かべて見せた。
「絶対に、きみを落としてみせますよ…」
その言葉が吐き出されると同時に、高遠の薄い唇が、おれの首筋に吸い付いて、その状態のまま、左手を使って器用におれのシャツのボタンを外し始める。
そっか、ゲームなんだもんな。ゲームに勝つために、本気で掛からなくちゃならないんだよな。おれが、言い出したことなんだから。
たとえ、それが、本意じゃなくても…
まるで、他人事みたいに考えながら、それでも覚悟を決めて、おれはぎゅっと目を瞑った。
けれど、どんなに強がってみても、身体は素直で。恐怖感からなのか、それとも嫌悪のためになのか、おれの身体は無意識のうちに、小刻みに震え始める。
高遠が、おれの身体に触れながら、ふっと笑みを洩らす気配を感じた。
悔しくて、悔しくて、涙が出そうになって。
でも、どうすることも出来ない。警察に助けを求めなかったのは、おれ自身だ。
そう、わかってる。
後戻りなんて、できないのだと。
何も知らなかった頃の自分には、もう二度と、戻れない。
突然、ふと、思い出したとでも言いたげに、高遠が手を止めた。
「あの着信音は、気に入ってもらえました? サティの曲なんですけどね」
言いながら、おれの耳元で、クスクスと笑みを零す。
「きっと今のきみに、ぴったりの曲だと思いますよ?」
『快い絶望』って、いうんですよね
行き着く先に何があるのか、自分でもわからないまま、この冷酷な悪魔にゲームを持ちかけたことを、おれは。
後悔していた。
06/06/23 了
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え~、「GAME」シリーズの始まりのお話です。
何気に裏っぽく暗いお話でしたが、少しでも楽しんでいただけたことを願って…
06/06/24UP
14/12/15再UP
-竹流-
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