催眠術
まさか、ここまでとはね。
以前から、暗示にかかりやすい体質だとは知っていたけれど、簡単な催眠術にこうも単純に掛かってしまうのは、素人探偵としての才能を発揮していた者として、どうなのだろう?
そんなことを考えながら、目の前に立つはじめを、ときめきとも不安ともつかない、少しばかり複雑な感情でぼくは見つめていた。
今、ぼくの前にいるはじめは、そのしなやかな肢体を惜しげもなくすべてさらして立ち尽くしている。いわゆる全裸、という状態だ。
ふたりきりの寝室の中とはいえ、こんなに無防備に、自ら衣服を脱ぎ捨てて裸体を見せつける彼を見るのは初めてのことで、胸の奥が騒ぐのはいたし方のないことなのだろうけど。
でも、ぼくは…
事の発端は、ぼくがマジックの練習をしている最中に、はじめが放った一言だった。
「なあ、たかとお」
「なんでしょう?」
「前にさ、あんた香港で事件を起こしたときに、おれに催眠術のマジック仕掛けたよなあ」
唐突に持ち出された話題に、一瞬、心臓が大きな音を立てた。以前の事件のことなど、今まで全くといっていいほど、ぼくたちは互いに口にはしてこなかったから。
カードを触っていた手を止めて、今さら何を聞きたいのかと、穏やかでない心持ちではじめを見やりながら、それでも何も感じていないような表情を作るしかなかった。
「ええ、それが何か?」
「あんとき、おれ、催眠術のからくりぐらい知ってるから、暗示になんか掛からないって言ったよなあ?」
「…言ってましたねえ」
「でもさ、おれたちが恋人同士になる前に、あんた、おれに夢見せて暗示掛けてたじゃん? しかも、掛かりやすいって豪語してたよな」
「眠っている人間は無防備ですからね。夢を誘導するのは、意外とできるものなんですよ。しかもきみは、思った以上に素直でしたから」
「じゃあさ、警戒心無しの状態で催眠術かけたら、やっぱり本当に掛かっちゃうのかな?」
大きな目をさらに見開いて、さも興味深々でございますとでも言いたげに、はじめはぼくの方へと身を乗り出してきた。
何を言い出すのかと思ったら…
「…掛けてみて欲しいんですか?」
ぼくの言葉に、妙に嬉しそうに笑って、きみは頷く。
「この間テレビで観たマジックショーでやっててさ。まあ、あんなのきっとやらせなんだろうけど、でも、凄く本当っぽくて。んで、もし本当に催眠術に掛かったらどんな感じなんだろな~って考えてたら、気になって仕方なくなっちゃってさ~♪ んで、できるんだろ? たかとお」
きみの言葉に、いちいち不安を感じていた自分がバカみたいに思えて、知らずため息が零れた。すると、こんな時だけ敏感なきみが、急に怪訝な顔をして、ぼくを見つめる。
「なに? そのため息?」
不審そうなその眼差しの中には、『なんだよ、やってみせてくんないのかよ、たかとおのケチ』というセリフが読み取れる。
人の気も知らないで、というのは、こういうことを言うんでしょうね?
他意はないのだろうけれど、きみは時々、残酷だ。
何人も人を殺して平気でいる人間に。以前のことをすべて忘れて生きようとしている人間に、過去を思い出させてはいけない。
きみに、憎悪にも似た執着を抱いていた頃の記憶など。
そんなのは、もう、いらない過去なのに。でもそれは、決して消えることのない、ぼくの生きた証。
深く暗い闇の中を彷徨っていた、ぼくの。
目の前のきみは、今度はおねだりするような表情で、ぼくを見ている。
感情に忠実に、ころころと変わるきみの表情は見ていて飽きないのだけど、でも、もう少し、用心した方がいい。目の前にいるきみの恋人は、鋭い牙を隠して猫のフリをした肉食獣なのだから。
だから、無防備すぎるきみに、ぼくを不安にしたことに対するお仕置きをしてやろうかと思ったんだ。
「どうなっても、知りませんよ?」
優雅に笑みを作りながら、カードを片付け始める。仕方がありませんね、という素振りを見せながら。
そんなぼくを、何の疑いも抱かない様子で見つめて、ぼくが考えていることなど何も知らずに、はじめは無邪気に、笑った。
雨戸もカーテンも閉ざした暗い寝室の中、灯りはサイドテーブルの上に置いたローソクの光だけという状況で、ぼくははじめをベッドの縁に座らせると、その目の前に立った。
「じゃあ、このクリスタルの動きを見つめてください」
金色の鎖に繋がれたクリスタルの結晶を、はじめの目の前に垂らして、ゆっくりと左右に揺らし始める。
「何も考えないで、静かにクリスタルの中心を見つめて」
クリスタルの振り子の単調な動きにあわせて、はじめの眼が右に左にと揺れる。互いの呼吸音さえ聞こえてきそうな、静かな部屋の中で。
すぐには、声を掛けない。暫くそうして、はじめの神経をクリスタルにだけ集中させる。やがて、こちらが何も言っていないのに、少しだけ、振り子の動きにつられるように、はじめの身体が揺れ始める。けれど、彼自身は無自覚なのだ。クリスタルに神経を集中するあまり、無意識に揺れている。暗示に掛かりやすくなったという、これは一種の合図のようなもの。
そこで、ぼくはようやく声を掛ける。
「だんだん、瞼が重くなってきますよ。眠くて、目を開けていられなくなってくる」
目の前のはじめの瞼が、ぼくが言ったとおりに眠そうに下がり始めて、そして閉じられた。
本当に、はじめは暗示に掛かりやすい。
第一、自ら催眠術に掛かりたいと思っている状態だったのだから、なおさらなのだろう。
「きみには、もう、ぼくの声しか聞こえません。ぼくの言葉で、状況が変わってきますよ」
目を閉じたまま、はじめは素直に頷く。
さて、どうしましょうかね?
悪戯心のままに、ぼくははじめに声を掛けてみる。
「少し、暑くなってきましたね。服、脱ぎましょうか?」
彼は、何の疑いも持たずに頷くと、ゆっくりとした動作で服を脱ぐ。
ただ、上半身に着ていたものを脱いだ所で彼の手が止まったから、ぼくはさらに、言葉を継いだ。
「せっかくだから、ジーンズも下着も全部取ってしまいましょう。立ち上がって」
再び頷くと、はじめは立ち上がりながら、履いていたジーンズに手を掛けて何のためらいも無しにファスナーを下ろし、脱ぎ始める。その下に着けていた下着も、ぼくの目の前で簡単に脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ姿をさらけ出した。
「…髪を、下ろして」
ぼくの言うとおりに、髪を止めていたゴムも外すと、長い髪が彼の肩にかかった。
思わず、咽喉を鳴らしていた。
本当に、完全な催眠状態に陥っているらしい。
全く、ぼくの意のままだ。
目の前の彼は、恥じらいも躊躇いも見せず、ただ、無防備で。
でもそれが、ローソクの明かりの中で、逆に酷く艶かしく映る。
このまま抱いてしまいたい衝動に駆られるけれど、でも、それではなんだか勿体無い気がして。ここまで自由になるのだから、絶対に普段の彼なら見せてはくれないことをさせてみようかと、よからぬことを考えてしまった。
「ベッドに横になって… そう、なんだか妙な気分になってきましたね。部屋の中には誰もいませんよ。ひとりで……気持ちよくなってみましょうか」
ぼくの言葉どうり、ベッドに横になったはじめは、何の疑いも持たずに彼自身を手のひらに握り込んで、そのままその手を上下に動かした。すぐに硬く大きくなり始めたそれの先端の括れを、もう片方の手がなぞるように刺激すると、透明な蜜が先から溢れて濡れてゆく。
呼吸を乱しながら、切なげに眉を寄せて行為に没頭しているはじめに、ぼく自身、鼓動を高鳴らせながらも、さらにその先を促してみた。
「段々、我慢できなくなってきましたよ? 後ろも、刺激しないとダメみたいですね」
信じられないくらい素直なはじめは、今度はサイドボードの引き出しの中からそのためのローションを取り出すと、指先にそれを垂らして。そして、膝を折って大きく脚を開くと、開かれた脚の間にその指を這わせた。
固唾を呑んで、その行為を見つめていた。
自らを慰める彼の姿は淫靡で、眩暈すら覚えさせる。
はじめは、指先に絡んだローションを馴染ませるように、丁寧にその部分に円を描きながら塗りこめると、静かに指をその中に突き入れてゆく。
「…あっ…」
瞬間、彼の首が仰け反り、その顔には苦しげな表情が浮かんだ。濡れた紅い唇からは、小さく声が漏れ出す。
悩ましい、という言葉が、これほどに相応しい場面は他にはないかもしれない。
そんなことを考えながら、ぼくは熱くなっている自らの身体を持て余して、シャツのボタンをいくつか外していた。
ベッドヘッドに身体を持たせかけ、脚を開いて、突き入れた指を何度も出し入れしながら、右手はそそり立った自分自身をも刺激し続けている、はじめ。
無心に快楽を追い求めている彼の姿は、見た事もないほどに淫らで、否応無しにぼくの興奮も高められてゆく。
「指を増やして。夜のときのように、声を上げてもいいんですよ?」
もっと乱れた彼を見たくて、ぼくは要求する。はじめもまた、淫乱な獣のように要求に応えてくれる。
「あ…んん…た…かと…」
荒い息の合間に、はじめがぼくの名を呼ぶ。その声音すら、濡れているようで。
身体を貫く指は三本にまで増やされ、さっきよりも動きは激しくなっている。その度に、いやらしい音がそこから溢れ出す。
「綺麗ですよ。はじめ」
「…たか…と…お…」
微かに汗ばんで、首に肩にと髪を張り付かせながら切なげに眉を寄せて、繰り返し、ぼくを呼ぶ。
そんなはじめに、ぼくの身体も高まってゆくけれど、動かずに、ただじっと、はじめの痴態を見つめていた。
「あぁっ…イクッ…イっちゃ…うッ!」
突然、小さく叫びながら、彼自身を握りこんでいる右手の動きがひと際早くなって、彼の身体が軽く仰け反り小さく痙攣したかと思うと、僅かに苦悶するような表情を浮かべて、激しい喘ぎと共に、白濁した液体が体内から吐き出された。同時に、すべての動きが停止して、彼の唇から零れる荒い呼吸音だけが、静かな室内に満ちた。
そこでようやく、ぼくは自分の身につけているものを、すべて脱ぎ捨てた。ぼく自身も、すでに、これ以上ないくらい硬く張り詰めている。彼が欲しくて仕方がない、とでも言いたげに。
実際、もう、待てそうにはなかった。
彼の身体の上に散っている体液を、そっとティッシュで拭い去ると、ぐったりとしているはじめの上に、ゆっくりと覆いかぶさってゆく。
「まだまだ、本番はこれからですよ」
ぼくの言葉に、はじめの手が上がって、ぼくの背中へと回される。
正気ではない、虚ろな眼差しのまま。誘うように、ぼくに身体を開いて。
本当に、はじめは暗示に掛かり易い。
はじめの唇を、貪る勢いで深く口吻けて、性急に彼を求めながら、ぼくは心の中で呟く。
だから、不安になるんですよ、と。
あの頃。
ぼくたちが付き合い始める前、確かにぼくは、夜な夜なはじめに夢で暗示を掛け続けた。
はじめの心が欲しくて。
どんな手を使っても、手に入れたくて。
けれど、
彼を手に入れて、そのすべてを、自分のものにして。ぼくは、逆に不安になり始めた。
ぼくを愛してくれているはじめの心は、本当に、彼自身のものなのだろうか、と。
いつか暗示から醒めて、またぼくを、敵を見るような眼差しで見つめるのではないだろうかと。
不安で。
不安で。
怖くて。
夢なら、覚めないで欲しい。
ぼくだけのものでいて欲しい。
きみを信じていないわけじゃない、けれど、そうじゃないと言い切れるほど、ぼくは楽天家でもないんだ。
許されるはずがない罪人を、きみが愛する理由を、ぼくは見つけられないでいるから。
大好きだよ、はじめ。
だから、今夜の催眠術の暗示は、こう言って解くことにしよう。
「眠って、朝、目が覚めたら、今夜のことはすべて忘れてしまっていますよ」と。
そう、今夜のことだけ、忘れて。
今夜、催眠術に掛かったことも、興味を持ったことすらも、忘れて。
無かったことにしてしまおう、今夜のことだけ。
いつも以上に、念入りに愛してあげるから。
今はまだ、ぼくだけのものでいて。
記憶だけで満足できるほど、ぼくはそんなに強くはない。
きみに求められたい。
狂おしいほどに、ぼくを呼んで欲しい。
きっと、そんなに長い時間ではないから、それまでは。
ぼくを愛しているきみの心が、たとえ錯覚だったとしても。
今はまだ、覚めないで。
ねえ。
暗示に掛かりやすい、はじめ。
それでも、もしもいつか、きみがすべてを忘れてしまう時が来ても。
ぼくは絶対に、忘れないよ。
きみと過ごした時間を、その温もりを。
最後まで、この胸の中に、抱いていよう。
しあわせで、苦しくて、儚い。
そんな恋の幻を。
07/01/26 了
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エロいんだか、切ないんだか、よくわからないお話になってしまいました(汗)。
でも、これが、『LOVERS』のお話なんかでよく出てくる、
「高遠はおれの気持ちを、どこか信じてくれてない」っていう、はじめちゃんの言葉に繋がるのです。
高遠くんの隠された本音、というか、不安というか。
な~んで、それを書くのに、わざわざ裏のお話にしてしまうのかは、竹流にもわからないことなのでございます(悩)。
背景のイラストは、裏ページのILLUSTの所に、完全版が置いてありますv
07/01/27UP
再UP 15/01/23
-竹流-
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