旅の吟遊詩人 2
湿った風に頬を撫でられ、ふと、意識が戻った。
雨が降るのかもしれない。
頭の片隅で、そんなことをぼんやりと感じていた。
今は夜なのか、昼なのか。
けれど盲いた目には何も映らず、ボロボロに傷ついた身体には、もはや感覚などはない。
傷ついたその身には衣服ひとつ纏わず、いたぶるだけいたぶられて打ち捨てられたときのままに手足を投げ出して、冷たい土の上に横たわっていた。
旅の途中、人気のない森に迷い込んで、盗賊に襲われたのだ。
持ち物はすべて奪われ、そしてその身は、たくさんの男たちに穢された。
ひとかけらの食料も、一滴の水も与えられずに、傷つき弱り果てるまで玩具にされ、そして、捨てられた。
もはや、ほとんど意識をなくした状態で、けれどその時、旅人は考えた。
もう、こんなに穢れた身体では、彼に会いに行けない…と。
命を失うことなど、どうでもよかった。ただ、恋人に合わす顔が無いと、そのことだけが哀しかった。
それが、一体どのくらい前のことなのか。
ほんの数刻前のことかもしれないし、もう、何日も経っているのかも知れない。
再び目覚めてしまった旅人は、思った。
−…ずっと、探して…旅を続けてきたのに…もう…探せない…
そう考えるだけで、今にも止まりそうな鼓動しか刻まない胸の奥が、軋むように痛む。涸れ果てたと思っていた涙が、またこみ上げてきそうになる。
と、ぽつりと、頬に冷たい雫が落ちてきた。
雨が降り始めたらしい。
ぽつりぽつりと落ちてきていた雫は、見る間にその数を増やして、動けない旅人の身体から、容赦なく体温を奪い去ってゆく。
ああ、これで最後なのだなと、旅人は感じていた。
乾いてかさかさになっていたくちびるから、口の中に入り込んできた雨水を、旅人は僅かに咽喉を上下させて飲み込むと、残された最後の力を振り絞って、微かな、ほんの微かな掠れた声で、メロディを口ずさんだ。
それは、彼のために作った歌。
彼のために歌い、彼を探すために歌った歌。
もう、その手には竪琴も無く、すべてを失くしてしまったけれど、この気持ちだけは変わらない。そのすべてを託す思いで、最後に、旅人は歌った。
聴くものの無い、暗い森の中で。
と、突然、誰かが傍にいる気配に、旅人は気が付いた。
何の足音がしたわけでもない、声を掛けられたわけでもない、けれど確かに、誰かがいる。
「…だれ…? そこに…いるのは…」
弱弱しく、ほとんど声にもならない声で旅人が尋ねると、柔らかく、笑う気配がして。
そして、誰かの手が、そっと頬に触れた。
ふうわりと暖かな、手のひらの感触。
旅人はその感触に、覚えがあった。
「…ま…さか…」
あの時、町を襲った盗賊と戦ったとき、自分は視力を失い、彼は、帰らなかった。
そう、彼はそのまま、旅に出たのだ。
けれど、本当はわかっていた。
戻っては来ない彼が、本当は、どこへ行ったのか。なぜ、帰って来なかったのか。
ただ、信じたくなかっただけだ。
だから、彼を探す旅に出た。
いつか彼に、逢えることを、信じて。
「迎えに来たよ」
懐かしい声が、耳に心地良く響く。
旅人は、ゆっくりと手を伸ばした。
温かい腕が、傷ついた身体をいたわるように、優しく包み込んでくれる。
「会いたかった…」
「うん、おれも…会いたかった」
強く抱き合って、幸せに、涙が零れた。
やっと、旅は終わったのだ。
雨が上がり、日差しが雲の切れ間から零れ落ちると、木の葉に溜まった水滴は眩い光を反射して輝き始める。
暗かった森は、水と光を得て、息を吹き返したように明るい光に充たされている。
その中で、冷たく動かなくなった旅人が一人、ひっそりと木立の間に倒れていた。
痛々しく傷ついた身体はぐっしょりと濡れそぼり、青白い肌からは、もはやそれが息をしていないだろうことが容易に伺える。
無残な最期だと言えた。
けれど、どうだろう?
その顔は、穏やかに、幸せそうに微笑んでいるではないか。
最後の瞬間に、旅人は何を見たのか。
それは誰にもわからない。
ただ、暖かな陽の光が、彼の身体の上で揺れていた。
きらきらと、ゆらゆらと。
やさしい恋人の、愛撫のように。
06/11/02 了
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完結していたはずなのに、続きを書いてしまいましたよ。
しかも、もの凄く悲惨です(汗)。
でも、これが最初から考えていた結末で、単に書いていなかっただけなのです。
今、考えているお話はどれも長くなりそうで、しかも最近書いていなかったから、
リハビリがてらに短いのを書こうと。で、これ。
もう、恐ろしいほどの箇条書きですよっ!
こんなのでも、読んでくださった方、ホントにありがとうございましたm(_ _ )m
−新月−
06/11/02
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