春が告げるもの





「桜が、散ってしまいましたね」
不意に、高遠がそんなことを言った。

高遠が眺めている窓の外には、桜の木なんか一本も生えてはいない。日本から遠く離れた異国の地に咲く春の花が、今が盛りとばかりに色とりどりに咲き誇っているばかりだ。

「桜なんか、ドコにもないじゃん」

おれがそう言うと、高遠はやけにゆっくりとした動作で、こちらに顔を向けた。
穏やかな春の陽気の中で、高遠はまるで幻のように、柔らかく微笑んで見せた。

「きみには、まだ、見えないんですねえ」

そして、その微笑んだ表情のまま、再び窓の外へと視線を投げる。
そんな高遠の姿は、とても凶悪な犯罪者だとは思えないほどに、やさしい空気を纏っていて、おれはなんだか、不安になる。
このまま、高遠が何処かへ行ってしまいそうな気がして。

「桜なんか、ないよ。ドコにも咲いてない。ここには、おれとあんたのふたりしかいない。あんなに簡単に散ってしまう花なんて、おれには見えないよ!」

おれは、高遠の腕に飛び込んで、その細い身体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
少し、震えていたかもしれない。
でも、そんなおれを受け止めて、まるで大切な花を抱えるみたいにそっと厳かに、高遠はおれの身体を、抱き返してくれた。

「ごめんね…」
ただ、そう呟いて。

春の、ぼやけたような陽の光がおれたちを照らし、温めている。
花を咲かせる慈愛に満ちた光は、けれど、どこかしら胸を苦しくさせて、切ない気持ちを抱かせる。
高遠の腕に抱きしめられて、高遠を腕の中に抱いて。
なのに、この温もりが、すべて幻のようで。

柔らかな風が、頬を撫でてゆく。
それは、儚い春の花を、散らせる風。

もう一度、高遠は呟いた。

「ごめんね、はじめ。ごめんね…」




目が覚めると、午後の光がおれを温めていた。
窓は開いたままだったが、風はそんなに冷たくはなく、春の陽だまりの中は穏やかな温もりに満ちている。
一度起きたはずなのに、いつの間に眠ってしまったのか。
おれは軽く頭を振ると、ベッドから起き上がった。今日は休みだというのに、せっかくの休日を無駄にしてしまった気がしていた。

「このところ、休み無しで忙しかったからな…」

口を突いて出た言葉は、自分への言い訳めいていて、苦い笑みが浮かんでくる。
疲れているのは確かなことだし、睡眠時間まで削って忙しく働き続けていたのだから、たまの休みに、こうしてゆっくりと身体を休ませているのは当たり前のことであって、何も悪いことじゃない。
なのに、静かに休んでいると、どうにも落着かないんだ。なにかしら、不安で仕方がなくなってしまうから、身体を動かして誤魔化そうとしているだけなんだろう。
自己分析を脳内で簡単に済ませると、もう一度おれは、ごろりとベッドの上に寝転がった。
忙しくしていないと落着かないなんて、単に仕事に逃げているだけだと、自分でもわかっている。本当の辛さから目を反らせて、考えないようにしているんだ。
『本当の辛さ』、それがなんなのかわかっているのに、その何かを考えようとはしない。
弱くなったなと、自分でも思う。
でも、そうしていないと、辛すぎることも世の中にはたくさんある。それがわかるくらいには、自分は大人になったのだろう。

それにしても…、おかしな夢を見たものだ。
ついさっきまで見ていた夢のことを、思い出していた。

高遠とふたりで、おれはどこか異国の地で暮らしていた。
夢の中でおれは、とても幸せで、切なくて、苦しくて。
あの男を、失うのが怖くて、怖くて。
それでも、後悔などしていなかった。

「…おれは… あんな風に笑う高遠なんて、見たことなかったよな…」

夢の中の高遠は、どこまでも優しげで柔らかくて、慈しみに満ちた微笑を浮かべていた。
でも、と思う。
もしも、ふたりで暮らしていたなら、高遠はあんな顔を、おれに見せてくれたのかもしれない。
あんな風に、抱きしめてくれたのかもしれない。
選ばなかったから手に入らなかったのだと、その事実が、胸に突き刺さる。

「……選べるわけが…ないじゃないか…」

自分の我侭を押し通せるほどの勇気が、あの時のおれにはなかった。
犯罪者を愛して、すべてを捨てることは、簡単ではなかった。
だから、今おれは、ここでひとりでいるのだ。
自分の想いだけで人生を貫けるほど、おれは、強くはなかったんだ…

開いたままの窓から、ひらりと一枚、桜の花びらが飛び込んできた。
それは、くるくると空気中を舞いながら、ゆっくりとおれの上へと降りてくる。
おれはそっと手を出すと、その花びらを手のひらに受けとめた。

「そうか、もう、桜が散る季節…なんだな…」

夢の中の、高遠の言葉を思い出す。
『桜が散ってしまいましたね』
夢の中で、高遠はこうも言っていた。
『きみには、まだ、見えないんですねえ』

忙しくて、季節の移ろいさえわかってはいなかった。
いや、そうではないのか。頑なに何かを閉ざしていたから、気が付けなかっただけなのかもしれない。そんなおれに、あの男は何を言いたいのだろう。

もう一度身体を起こして、窓の外に目をやると、近所の庭先で咲いている桜の木が、まだ、僅かに花をつけたまま、緑色の葉を茂らせ始めているのが目に入った。満開のときは、さぞかし美しく咲き誇っていたに違いない。
仕事中にも、きっと何度も桜の花を目にしていたはずなのに。なのに気付きもせずに、自分は通り過ぎていたのだろう。
自分の恋心にも、ずっと気づかないでいたときと、同じように。
ただ目を伏せて、心を閉ざしていたのだろう。

もっと早く、あの男が好きだと気付けていたなら、結果は違うものになっていたのだろうか。
あの夢の中のおれたちみたいに、ふたりで暮らして、幸せにしていただろうか。
考えても考えても、空回りするばかりの心の中に、それでもおれは、ただひとつの真実を見つけた気がしていた。
今もおれは、あの男のことを、愛しているのだと。
この胸の中には、赤い薔薇の花が一輪、ずっと咲き続けているのだと。
孤独に、風に揺れながら。

「…わかっていたつもりだったのに…おれはまた、無いことにしようとしてたのかな…」

抱かれたこと、愛していたこと。
そのすべてを、心を閉ざして忘れようとしていたのかもしれない。
辛すぎて。
けれど、自分の心から逃げることなど、出来るはずもない。


空を見上げると、どこかしら眠たそうな色をした青が、目に沁みる。
握り締めた手のひらの中には、一枚の桜の花びら。
美しく咲き誇っては、簡単に風に散ってしまう儚い花。
けれどその一瞬の美しさは、目を閉じなくとも、すぐにイメージすることが出来る。
艶やかに美しく、まるで夢のように柔らかく、風に花びらを舞い散らせるその姿が。

そんな桜の潔さが、どこか、あの男の最後を思い出させるのだろうか。
春に思い出すような、穏やかな男では、なかったはずなのに…

すべてを焼き尽くすような、激しい男だった。
そのくせ、静かな水面を思わせる、冷ややかな男だった。
激情家で、冷静で、相反するものすべてを抱えているような男だった。
酷い目にも、何度も合わされた。
なのに思い出すのは、最後に会った時の、穏やかで寂しい笑顔ばかりで。

思い出の中は、いつも優しい風が吹いていて、春を思わせる。
高遠の赤い薔薇が、その風に吹かれて、揺れている。

『ごめんね』
と、声が聴こえた気がした。
傍にいられなくて、ごめんね、と。

握った手のひらを空に向けて開けば、薄桃色の花びらは、柔らかな風に乗って。
淡く青い空に、舞った。


08/04/18   了
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「紅に染まる空」『暮れる空』の続きという設定です。
またしても、時期を外してのアップになってしまいました(涙

08/04/18UP
−新月−

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