蜘蛛



「バカですねぇ。」

窓辺から何かをじっと見ていた高遠は、不意にそう言って、ため息をひとつ吐いた。
酷く自嘲気味に聴こえたその声が気になって、おれは読んでいた漫画から顔を上げて高遠を見た。相変わらず高遠は、窓枠に肘を掛けて手のひらにあごを乗せる格好で、外の何かを見つめたまま。長い足はソファーの上でゆったりと組まれている。窓からの光で、その姿は印象的な陰影を刻んでいて、まるで、一枚の絵画みたいだ。
冷たさを増した風が、高遠の髪を揺らしている。

「なに? どうしたんだ?」
どこかしら、寂しげな空気を纏った彼の横顔が気になって、おれは声を掛けた。
まさか、自分の独り言に声を掛けられるとは思ってもいなかった、といった表情で振り返った高遠は、おれを見るなり、一瞬、奇妙に真剣な顔をした。

そして。

「…ああ、『くも』を見ていたんです。」
そう言って、何かを誤魔化すみたいに目を伏せて、薄く口元に笑みを刷いた。
「雲?」
何のことかわからず、人差し指を天井に向けて聞き返すと、その意味を理解した高遠はいいえと首を振った。
「『蜘蛛』、ですよ。ほら、少し前から巣を張っているんです。」
ほらと彼が指し示す場所を見ると、外開きの雨戸と窓枠の間に、いつからいるのか、人差し指と親指を輪っかにしたのよりも少し小さいくらいの蜘蛛が巣を張っていた。

「うわ、ホントだ。」
彼の傍に寄って覗き込むと、その蜘蛛が、なにやら獲物を捕まえているらしいのが見て取れた。どうやら、つかまった獲物も蜘蛛のようだ。
高遠を見ると、感情の見えない眼差しを、獲物をせっせと糸で巻いている蜘蛛に注いでいる。何を考えているのか、まるで表情が無かった。

無表情なときの高遠の顔は、白い肌もあいまってか、酷く作り物めいて見える。元々細くつり上がった柳眉は、この人の表情や目元をさらに冷淡に感じさせて、近寄りがたい空気を醸し出す。言葉をかけるのを躊躇ってしまうほどに。なのに、やはりどこか寂しげだ。
「…たかとお、これが、どうしたんだ?」
躊躇いがちにおれが訊くと、高遠は視線を蜘蛛に向けたまま、不意にその細い眉を少しだけ寄せて、わずかにその目を眇めた。

「今、餌にされている蜘蛛は、オスなんですよ。子孫を残すためにメスに近づいて、そして捕まってしまった。」
自然の摂理とはいえ、なんだか愚かな気がしましてね…
愚かだと言いながら蜘蛛を見ている彼の瞳には、どこかしら翳りが浮かんでいるようで。だから、おれは気がついてしまった。高遠は、たぶん自分自身にメス蜘蛛を重ねているんだと。
おれはもう一度、そのたいして大きくもない蜘蛛に視線を向けた。虫などほとんど見かけなくなったこの季節に自らやってきたオス蜘蛛は、きっと久しぶりのご馳走に違いない。それをわかっていて、オス蜘蛛はどんな想いでメス蜘蛛に近づいたのだろう。

蜘蛛じゃないんだから、本当のところなんて誰にもわかるわけはない。蜘蛛の交尾が命懸けなのだって、今に知ったことじゃない。子孫を残すため。それが本能なのだから。それで片付いてしまう事柄でしかない。でも高遠は、あえておれに答えて欲しいんだろうと思った。
「オス蜘蛛もこれで満足なんじゃね?」
そう言うと、高遠は少し間を置いてから、口を開いた。
「…そうでしょうか?」
「うん、メスに自分の子供を産んでもらうために、自分から食べられてんのかも知れないだろ? この季節じゃ、もう餌もあんまり取れないだろうしね。卵を育てる栄養になるために覚悟してきたのかも。だったらある意味カッコいいじゃん。」
笑ったおれに、高遠は。

でも、何も言わなかった。ただ、静かに蜘蛛の動きをじっと見つめていた。
「たかとお?」
返事を急かすようにおれが顔を覗き込むと、ようやく高遠はおれを真っ直ぐに見た。
「餌になるために? 自分から?」
「『有り』だと思わねえ?」
「そう…でしょうか…」
よくわからないといった口ぶりの割には、彼の瞳には祈るような憂いが湛えられていて。おれは思わず、彼の頭を自分の胸元へと抱きしめていた。

「そうだよ。きっと、そうだ。」

胸が痛いと思った。おれに対する高遠の罪悪感の重さが。
「…もしかしたら、ぼくがメス蜘蛛かも知れなくても?」
「いいんだ。おれたちはお互いに納得してるだろう?」
「…はじめ…」
高遠の両手がまるで縋りつくように、おれの腰にまわされる。
「いつか、ぼくがきみを食い尽くしてしまっても、許してくれますか?」
「許すも許さないも、おれたちはとっくに覚悟してるだろ?」
高遠は返事の変わりに、おれの腰に回した腕に力を込めた。

自分がメス蜘蛛なんじゃないかと怯える高遠。
そんな彼を腕の中に抱きしめながら、おれは『でもね』と考える。
だって本当は、メス蜘蛛なのは、おれの方かもしれないんだ。
ひとりでなら自由に好きなように生きれたはずの高遠を、恋と言う名の見えない糸で雁字搦めにして。このままでは、いつか彼が破滅してしまうのがわかっているのに、手放すことなど考えもしない残酷なメス蜘蛛なのは。
彼の子孫を残すこともできないおれは、自分が捕食者であることを隠して、高遠に捕まっているふりをしているだけなのかもしれない。

でも、それでも、好きだから。愛しているから。
おれは見えない糸を吐き出し続ける。
高遠はきっと、おれがどれだけ残酷な捕食者なのかを気づいていないんだろう。ならばこのまま、気づかないでいて。

窓辺の蜘蛛の巣に目をやると、まだメス蜘蛛はオスを糸でくるんでいた。
「愛してる愛してる」と繰り返される愛撫のように、メス蜘蛛がオスを糸でくるんでゆく。オス蜘蛛はすべてを知っていながら、それでもメス蜘蛛の腕の中で笑っている気がして、おれは少し切なくなる。
「おれは、ずるいよね」
不意にこぼれたおれの言葉の意味を掴みかねたのか、高遠が不安げに顔を上げた。おれは高遠が何かを言う前に、唇で唇を塞ぐんだ。そうしておれはまた、見えない糸を絡み付けてゆく。高遠が気づかないほどの狡猾さで。

ごめんな。
おれはこのメス蜘蛛みたいに、あんたの子供を産んでやれない。何にもしてやれない。でも、最後まで一緒に夢を見てるから。そして、あんたがこの世から消えてしまう時が来たら、そしたらその時は、おれも一緒にゆくから。だからそれまで、何も知らずにおれに捕まっていて。

見えない糸に絡まりあったまま、ふたりで冬の訪れを待とう。
幸せな夢を見ながら、ふたりきりで、ずっと。

メス蜘蛛は、糸を吐き続けている。オス蜘蛛が決して逃げられないように。自らが作った小さな世界に、閉じ込めるように。
窓から吹き込んでくる風は冷たい。蜘蛛の巣が、風に揺れている。
凍える冬は、すぐ傍まで来ている。

「大好きだよ」
重ねていた唇を離すと、おれはまた高遠の頭を抱きしめて、そう呟いた。



10/11/13~11/06/17   了
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少しだけ書いたままだったお話を見つけて、以前、完成させたものです。
その頃には、まだサイトの再開も決めていなかったし、季節的にもずれていたので、ずっとUPを見合わせていたのですが、ようやく日の目を見ることが出来ました。
不肖の息子のようなものですが、何かを感じていただければ、幸いです。

-竹流-
14/11/09UP

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