冬のヴァイオリン



晴れた冬の朝、高遠とふたりで公園を散歩していると、どこからかヴァイオリンの音色が聞こえてきた。
抜けるような青空に、深く響き渡る、孤高の旋律。
趣味で弾いているにしては、扱い慣れた美しい音色。
どこから聞こえてくるのだろうと、おれがきょろきょろしていると、
「こっちですよ」
と高遠が、公園の中ほどにある池へと続く道を指差した。
「ほんと?」
おれが聞くと、
「ええ、間違いないと思いますけど」
という返事。
それじゃあ行ってみようかと、ふたりでそちらへと向かって歩き出すことにした。

陽が当たっている部分は暖かいけれど、吹きすぎてゆく風は、もう随分と冷たい。
街には、クリスマス用のイルミネーションが灯り始めている季節だ、寒いのは当たり前か。
上空を行く風は、遥か虚空で寂しげな音を立てている。

「池の近くで演奏してんのかな? こんな季節に寒くないのかな?」
「ええ、ぼくもそう思うんですけどね、いつも池の傍で演奏しているんですよねえ。何かその場所に、思い出でもあるのかもしれませんよ?」
その言葉に、おれは一瞬、あれ?と思った。
「えっ? たかとお、これ演奏している人、知ってんの?」
おれがそう言って、高遠の、おれより少し上にある顔を見上げると、高遠は今まで前を向いていた顔を、おれへとめぐらせた。風に乱れた前髪の間から、優しげな光を湛えた月色の眼が、おれを捉える。
「はじめは気がつかなかったんですか? ぼくたちの部屋の窓から、時々彼が演奏しているのが見えましたよ?」
「…おれ、全然知らなかった。なあ、どんな人?」
「行けばわかりますよ」
高遠はそう言って、静かに微笑んだ。

梢が風に揺れている。歩を進めるごとに、ヴァイオリンの音色は段々と近くなる。確かに、こちらから聞こえて来る。
風に乗って流れてくるメロディーは、どこかしら懐かしくて、寂しい、そんな雰囲気で、物悲しい冬の景色によく似合っている気がした。

木々に囲まれた道を抜けると、そんなに大きくも無い池の水面が、キラキラと光を反射して輝いているのが、まず目に入った。池の周りには落葉樹が植え込まれ、さらにその周りに廻らされた石畳の遊歩道沿いに、所々ベンチが設えてある。葉を殆ど落とした落葉樹の下の、そんなベンチの傍らに、彼はいた。
古びた黒いヴァイオリンケースひとつをベンチの上に置いて、自らは凛と背筋を伸ばして立ち尽くしたまま、冬の白い日差しの中で、演奏している。
擦り切れそうなこげ茶のコーデュロイの上着と黒いタートルのセーター、そして、上着とお揃いと思しきこげ茶のズボン。殆どが白くなっているぼさぼさの髪と、立派な白い髭。
痩せて、皺のいっぱい寄ったシミだらけの手には、使い込まれたのが一目でわかるほどの、けれど、大切に磨きこまれている古いヴァイオリンが握られている。
白い顎鬚で覆われた顎のラインでヴァイオリンのボディを挟み、古びた弓が優雅に、時に激しく動くたびに、その弦の上を老いた指は滑らかな動きで這い回り、美しいメロディーを紡ぎ出す。

おれは、かなり驚いていた。
まさか、こんな寒空の下で、老人が弾いているとは考えもしなかったから。でも、何よりもおれを驚かせていたのは、その、圧倒的な存在感。
とても裕福とは言えそうに無い身なりのヴァイオリン弾きの老人は、しかし誰よりも堂々としていて、立派に見えた。

聴衆は、おれたちだけではなかった。周りには、たくさんの人たちが足を止めて、彼の演奏に聞き入っている。おれもまた、魂を奪われたように、彼の生み出す美しい旋律に聞き惚れていた。
ひと時の至福の時間は、やがて悲しげな余韻を残しながらエンディングを迎え、老人は肩からヴァイオリンを下ろすと、恭しくお辞儀をした。
同時に、周りからは大きな拍手が沸き起こり、おれも高遠も、ご多分に漏れず手を叩いた。
音楽なんかさっぱりわからないおれだけど、今聞いたヴァイオリンの音色は、路上で聞くには勿体無いくらい、綺麗だと思ったから。
そうしている内に、おれたちの前には古い帽子が差し出された。フェルト地の、それは見るからに色の褪せた、古びた黒い帽子。
金色の巻き毛の幼い女の子が、それを持って聴衆の間を回っていた。帽子の中には、すでにジャラジャラと小銭やら札が入っていて、おれがそれを不思議そうに見ていると、隣にいた高遠がポケットから札を取り出してその中に入れたから、おれも慌ててポケットの中にあった小銭を入れた。
「メルシー」
女の子は、少し訛りのあるフランス語でそう言いながらウインクをすると、また次の人のところへと回って行く。
ヴァイオリン弾きの老人の孫か何かなのかな?
おれはそんなことを考えながら、その小さな後姿を、ぼんやりと見ていた。

「まあ、一種の大道芸人といったところでしょうかね?」
「大道芸人?」
「ええ、道端で芸を見せて、その見返りをいただくんですよ。いいと思った人は払うでしょうし、そうじゃない人はそのまま行ってしまってかまわない。そういうものなんです。そんな芸を見せる人は、イギリスでも多かったですよ。まあ、物乞いまがいと言われてしまえば、それまでですけどね」
散歩を再開すべく、おれたちはまた歩き出していた。池の周りの遊歩道だ。水面を滑ってくる風は冷たく、相変わらず、おれたちの髪を乱暴に乱している。
高遠は、上着のポケットに手を突っ込んだまま、そんな話をした。
高遠も駆け出しのマジシャンだった頃、やっぱり公園なんかで、そんなまねごとをしたのだそうだ。
「お金をいただけると、嬉しかったですねえ。自分の実力を認めてもらえた気がして、また頑張ろうという気になったものです」
高遠の言葉に、ふと足を止めて振り返ると、丁度ヴァイオリン弾きの老人と幼い少女が、大事そうにヴァイオリンケースを抱えて、いずこへと去ろうとしているところだった。
足が悪いのか、老人は少しばかり足を引きずるようにして、少女の肩に捕まりながら歩いてゆく。
「あの人たちは、どうなのかな?」
おれの言葉の意味が、高遠にはわかったのだろう。真剣な声が返ってきた。
「日々の生活の糧を得るためにやっている人も多いんですよ」
「…そうなんだ」
「いろんな問題があるんですよ。こんなヨーロッパの先進国でも、移民問題なんかを色々抱えていて、満足に生活できない人も、中にはいる…」
「あの人たちも、移民なのかな?」
「そうですね、…フランス人では無いようです」
どこか寂しそうな高遠の言葉に、おれはそれ以上何も言えないまま、歩み去ってゆくふたりの姿を見送っていた。

高遠は、以外だけれど、大きな駅には大抵いる物乞いやら、こんな大道芸人の類には、必ずといっていいほどお金を落としてゆく。
見ていたら、結構な数の人がコインを、置かれた帽子や空き缶の中に入れてゆくようだ。
「余裕のある人が困っている人に、ささやかな援助をするのは当たり前でしょう?」
おれが問いかけると、返ってきた言葉はこうだった。
なんか、すげえいい人発言のような気がするんですけど、と、おれが言うと。
「こちらでは、当然のことなんですけどねえ」
と、苦笑混じりに返された。
「イギリスの博物館や美術館は、日本みたいに入場料というものが設定されていないんです」
「なんで?」
「すべて寄付で賄ってしまうからですよ」
高遠の話だとこうだ。
本来、史物や芸術作品などは、すべての人に公開されるべきで、そのことに値段をつけることはできないと。
ただ、維持費は掛かるから、どの建物の中にも寄付を募る箱が置かれているのだそうだ。
でも、それですべてを賄えるほどの金額が集まるというからすごい。
「自分がそこにある芸術作品なりに感動した分だけ、みんなお金を払うんです。だから、払わないという選択肢も、当然ある。払えない人もいるでしょうしね。そのための無料なんですから。こちらのルーブルでも、失業者や未成年は無料だったはずですよ? 基本的に、ぼくはイギリスのことしか知りませんけど。大体、イギリス人の多くは、自分が感じたことに対する対価を払うのに、躊躇はないみたいです。博物館などでは、そこに収められているものに対する誇りもあるんでしょうね。自分の国は、こんなにも素晴らしいものを所蔵しているのだから、それをより多くの人に見てもらいたい、そんな思いもあるのかもしれません。とにかく、寄付とか慈善活動なんかは盛んですね。まあ、幼い頃から教会に通わされて、そういった考えを叩き込まれているからかもしれませんがね」
そう言って、皮肉げな笑みを、薄いくちびるに浮かべた。
「…たかとおも、子供のとき、教会に行ったのか?」
「当然です。父親に連れられて通いましたとも」
「ふうん」

人殺しの顔と、慈善活動は当たり前な顔を見せる高遠は、やっぱりどこかおかしいと思うんだけど。でも、寄付なんかを当たり前のようにできるというのは、悪くはないと思う。
それが何かの形になって、人の役に立つのなら、確かにいいことなんじゃないのかなあ。
隣に立つ高遠の吐く白い息を眺めながら、そんなことを考えた、冬の日。

あの日から、おれは部屋の窓から、あのヴァイオリン弾きの老人と少女が、池の傍に演奏をしに来るのを気に掛けるようになっていた。行ける時は走って行って、演奏を聴いた後、あの帽子にコインを入れるんだ。
まあ、おれの落とす金なんて、ささやかなもんだけどさ。
でも、じいさんのヴァイオリンの音がおれは好きだから、いつまでも続けて欲しいという願いを、小さなコインに込めていたんだ。
けれど、ある寒い日を境に、彼らの姿はふっつりと見えなくなった。
また、暖かくなったら来ますよ、と高遠は言うけれど、おれは気になって仕方が無い。
「はじめはやさしいですね」
そんな風に言う高遠も、じつの所、かなり気になっているんじゃないかなと、おれは思うんだけどね。

知っているけれど、全く知らない誰か。
そんな人たちに、想いを馳せる。
世界中には、困っている人たちがたくさんいて、おれはその人たちのことを何ひとつ知らないけれど、でも困っていることはニュースなんかで聞いて知っているし、僅かな協力なら、おれにもできる。
イギリス人っぽい感覚を持つ(らしい)高遠と暮らしていて、最近、そんなことを考えるようになった。
高遠曰く、「イギリス人もかなり利己的ですよ」なんだそうだけど。
そりゃ、あんたのことかい?っつーの。

暖かくなって、また、あのふたりが公園に来たら、
「あなたの演奏を、楽しみに待っていたんだよ」
と、声を掛けてみようか。
あの老人は、笑ってくれるだろうか。
なんだか、「お待たせしました」と、恭しく優雅に、お辞儀でもしてくれそうな気がする。
うん、暖かくなったら、きっと…

外気との温度差に曇る窓を眺めながら、おれは、やがて来る春を想い描く。
新緑が芽吹いて、綺麗な花が咲いて、新しい命に充たされる季節に想いを馳せて。
そしていつか、この世界に生きるすべての人が、幸福に充たされた人生を送れるようになればいいな、なんて、おれは考える。
悲しい事件など起きない世界、貧しさに命を奪われることの無い世界に、なればいい。

そう、思わないか?
なあ、たかとお…

この冷たい空の下、風の唸る音に混じって。
どこからか、美しいヴァイオリンの音色が聞こえてくる。
それはきっと、誰かの祈り。
教会の賛美歌のように、厳かに。
世界中のすべての人々に、等しく幸福が訪れますようにと。



06/12/06   了
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※イギリスの博物館等は確かに無料ですが、イギリス議会の管轄だそうなので、維持費を寄付だけで賄われているかどうかは、わかりません。

以前作ってた、「募金部屋」に置いていたものを、東日本大震災のときに「BLOG」にUPしたものをこちらに再UPしました。
『LOVERS』の設定で書かれております。

06/12/07UP
15/01/29再UP
-竹流-



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