ああ、こんなものかと、ぼくは思う。
空はずっと、夜なのか朝なのか、晴れているのか雲っているのかさえ判然としない、薄墨を混ぜたような暗い血の色で、ただよう空気でさえも紅く染まっているかのようだ。
歩き続けている足元は踏みしめる度、不自然に滑る感覚が気持ち悪く、視界に入る限りでは、足下は当然のこと、辺り一面無数の死体で埋め尽くされている。
真新しそうなものは、まだ固く踏みしめ安いが、明らかに青黒く変色し、腐敗が進んでいるものほど踏むごとに腐汁が滲み、嫌な臭いが鼻腔を刺す。それだけならばまだ良い方で、ともすれば、傷んだ骨ごと踏み抜いてしまい、腐った臓物が足に絡み付くこともしばしばあった。それでも、休むことも知らぬげに自分は足を動かし続けている。まるで『歩け』と、頭にインプットされてでもいるように。
一体、いつからこんなところにいるのか、なぜ、こんなことを繰り返しているのか。何よりも、自分は何を目指しているというのか。

なんてね。

少しばかり、うんざりしたため息が唇から零れ落ちる。
死体ばかりの荒野に何があるわけでもなく、大体がなぜ自分がこんな場所にいるのかということぐらいの見当は、すでについている。

「ここが地獄、とでもいうところなんでしょうかね?」

まるで他人事みたいに唇から零れ落ちた言葉は、空気を震わせることもなく、霧散してゆく。ここには空気すら、あるかどうか分からないらしい。言葉はその意味も持たずに消え失せてゆく。
そのくせ、どこからか吹いてくる粘り付くような風に漆黒の髪は揺れる。気味の悪い風に吹かれながら、ぼんやりと考えていた。
靴にこびりついた腐った臓物もそのままに、果ても見えない、死体で埋まった世界を見渡していた。

おそらく自分は死んだのだ。
そしていつか、力尽きた時には、自分もこの世界の一部になるのだろう。
悲しさも感慨もない眼差しで、ただ乾いた眼差しで、何の感情も見せない眼差しで、ただ死体の山を見つめていた。

此れが罪。
自らが犯した罪。
死体の山を築き上げ、自らの芸術を目指した果てにあったもの。
取り立てて、何も思う事は無かった。
ああ、自分が目指したものは、こんなものだったのかと思っただけだった。
いつか、この世界の一部になるときがきても、きっと同じようにしか感じないのだろう、ぼくは。

相応しいじゃないか。
地獄の傀儡師として、これ以上の結末はないだろう。
この異常な血と共に埋れてしまうには、これ以上の舞台はないはずだ。
もう、何も望まない。
望む必要もない。
ぼくは幸福だった。
それだけで、十分だ。
ぼくには、光があった。
それだけで。
これ以上、何を望むことがあるというのだろう。

どれだけ死体を踏みしめようと、いつか立ち上がれなくなって、意識在るままに地獄の土に成り果てようと構わない。
臓物をぶちまけ、永劫の痛みにのたうってもいい。後悔など有りはしない。
ぼくには、光があったから。
彼と幸せだったから。
その記憶だけで。

なのに。
神様は、なんて残酷なことをなさるのだろう。
犯罪という点に置いて、これ以上のことはないのではなかろうか。と、ぼくの狂った頭脳ですら思うほど。

ただ、純粋に愛していた相手が犯罪者だったというだけで、何故?
沢山の人を救った。どれだけの人の為に、その優秀な頭脳を推理力を使った彼が、沢山の助けられ無かった人の為に涙した彼が、どうして?

頭の中には、疑問しか沸かなかった。
でも、間違いなく、あれは。

「はじめ?!」

空気を震わせることなどないと分かっている声で、ぼくは叫んだ。彼に届くはずがないと分かっていても、そうせざるを得なかった。

どれ程の距離があるだろう。
ずっとずっと離れた、遠くの僅かに小高くなっている死体の山の上に、人が屈んでようやく入れる程の檻が浮いていて、その中に彼が、血にまみれた姿の彼が、小さく蹲っているのが見える。
見間違える筈もない。間違いなく彼だと分かった。

「はじめ!」

届く筈もない声を、有らん限りに振り絞って、もう一度ぼくは叫んだ。彼に届きますようにと。
その願いが通じたのか、彼はうつ向けていた顔をふと上げた。そして、力の無い緩慢とした動作でこちらに顔を向けた。ずいぶんと青ざめた顔色の彼は、それでもぼくを認めると微笑んだ。

「たかと…」

彼の唇がぼくの名を刻んだ。声は聞こえなくとも、ぼくにはそれがわかった。
その途端、足下も見ずに駆け出していた。何度も死体に足をとられながら、躓きながら、それでも走るのを止めなかった。
どれ程走っただろう。気が付くと、身体中、随分と血で汚れてしまっていた。なのに、これっぽっちも彼に近付けてはいない。遠くに見えているのに、今すぐにでも、檻から出して抱きしめたいのに。届かない。
彼は微笑んでいる。諦めたように。何かを悟っているかのように。乾くことのない鮮血を、今も背中から流し続けながら。
ふと、ぼくの目が彼の背中に止まる。何故、彼は背に傷を負っているのかと。
身に纏った白い粗末な衣服は、ほとんど彼の血で紅く染まって痛々しいばかりだ。まるで、無理矢理翼でももがれたみたいに、その傷は大きい。

翼を、もがれた…?

その考えが頭をもたげた途端、身体中の血が引いてゆくのがわかった。
この短時間、見ているだけでも、彼が衰弱してゆくのが手に取るように分かった。自分などよりも、遥かに彼の限界は早いだろう。
背中に冷たい汗が流れる。
恐る恐る足下の死体に目をやる。僅かに身体が震える。視線は足元に転がる死体の、その背中辺りに集中していた。翼をもがれた跡が在りはしないかと、確認を嫌がる気力を振り絞る。

まさか。

思ったのだ。気付いたのだ。
ここにある死体は、罪人のものではないのではないかと。
何の罪もない人々、本来ならば、こんな所に来るはずではなかったはずの人々が、翼をもがれて堕とされた姿なのでは、と。
もしかすると、罪びとを愛したという、ただそれだけの理由のために。

はじめが、自分のせいで罰を受ける?
こんなところで?
死してもなお、許されない罰を受ける?
そんな、ばかな!

すべて、ぼくのせい?
彼を愛して、彼を自分の下へと引きずり込んだぼくのせい?
愛してはいけない人だと、分かっていたのに。
初めから、分かっていたのに。
自分の我侭で、半ば無理やりな恋のはずだったのに。
そんなぼくのせいで、彼が罰を受ける? いや、すでに受けている?

気が狂うかと思った。
神様はなんて素晴らしい地獄を犯罪者に用意されているのかと、感心するほどだった。
きっと未来永劫、ぼくは歩き続けながら、彼の元へ辿り着くことはないのだと、確信があった。
そして、衰弱し、生き絶え、果てには朽ちて行く彼をぼくは見続けながら、自分の犯した罪をまざまざと思い知らされるのだろう。

罪には罰を。
間違いなく、自らにふさわしい罰を、ぼくは与えられている。
ぼくのただひとつの光が、温もりが、すべてが。
理不尽な罰の対象になっている。
それは、かつて自分が犯してきた罪の重さだとでも言うのだろうか。
ぼくに直接殺された人々、間接的とは言え、ぼくに殺された人々。きっと彼らにも、大切な人はいただろう。彼らの死に、嘆いた人もいただろう。
罪しか見なかったぼくは、そんなことなど考えもしなかった。いや、分かっていても見ようとはしなかった。
瑣末なことと、深く考えもしなかった事柄が、後悔に変わる。

永遠に届きはしないだろう彼に手を伸ばす。
謝らない。謝っても仕方がない。彼もきっと覚悟はしていたのだ。彼の微笑がそう語っている。
だから、ぼくは心の底から、願った。
後悔だけはしないで、と。
ぼくを愛したことを。共に過ごした時間を。
ぼくは歩みをやめないから。君が朽ち果てても、君が何所に埋もれたか分からなくなっても、永遠に探し続けるから。

誰のものかわからない、黒くどろどろに変質した血に塗れながら、ぼくは薄く唇に笑みを浮かべる。
檻に囚われて、蹲りながらぼくを見つめている血塗れのはじめに向かって。
ぼくの考えていることが分かったかのように、彼は嬉しそうに微笑むと、一粒だけ涙をこぼした。
そして、檻の間から弱弱しく彼もまたぼくに向かって腕を伸ばした。もう二度と触れることは出来ないだろう、その腕を。

ああ、もっと触れておけば良かったね。こうなることが分かっていたなら。

はじめ…君とはもっと違う出会い方をしたかった。
ぼくが罪びとになる前に、出会えてさえいれば。

いや、それは、最初から無理なことだったに違いない。ぼくがぼくである限り。
高遠遥一である限り。

くず折れそうになっていた足を、もう一度立て直しながら、真っ直ぐにはじめを見つめる。
死体の山を踏みしめながら、再び歩き始める。
目の前に広がる朽ちた世界が、新しい自分の世界。
終わりなき地獄。
ならば、行くしかないだろう。彼が待っている…



「……と」
「たかとおっ!」
身体を大きく揺すぶられて、目が覚めた。
目の前には、心配そうに覗き込むはじめがいた。辺りはまだ暗く、ベッドサイドのオレンジの灯りに照らされて、はじめの顔は深い陰影に彩られている。その顔に、ふと血に塗れた彼の姿がダブって、胸がどきりと音を立てる。
「…はじめ…?」
ふとこぼした自分の声に、酷く安堵した。ちゃんと声が出る。現実に戻ってきたのだ。あれは、夢だったのだ。
「もう、スッゴイうなされ出したから、びっくりしたよ~。嫌な夢でも見たの?」
何度起こしても起きないんだもん。と、はじめが安堵したように、肩を下げる。
「汗びっしょりだよ? 着替えたら?」
上から見下ろしながら言うはじめの身体を、濡れたパジャマのまま、抱き寄せた。
「わっ、何すんだよ! おれまで濡れちゃうじゃんっ!!」
「じゃあ、一緒に着替えれば良いじゃないですか。まだ、朝までは時間がありそうですし」
言いながら、体位を変えて、彼の着ているものを脱がそうと手が動く。
「あっ、こら、何やって…こらっ! だめだって!!」

却下です。

もがく彼を組み敷いて、慈しむように肌に触れてゆく。現実に触れられる今のうちに、できるだけ触れていたい。
「たかとお? どうしたの?」
ぼくの様子が何かおかしいと感じたのか、彼は急におとなしくなると、ぼくの頬にそっと手のひらで触れてきた。夢の中での、檻から伸ばされた弱弱しい腕がそれに重なって、軋むように胸が痛くなる。
「…何でもありませんよ、きみに触れていたいだけ…」
微笑んだつもりが、少しばかり、眉根が寄っていたかもしれない。
そんなぼくに、はじめは不思議そうな顔をしていたけれど、それ以上は何も言わずにぼくの首に腕を回してくれた。

あれは夢。間違いなく夢。
そんなことは分かっている。

でも、いつか。
いつか本当に、あんな日が来るのかもしれない。
ぼくは許されざる罪びとで。手にこびりついた血は決して消えはしない。
そして…はじめは犠牲者だ。

ならば、共に連れてゆくこと自体が罪なのかもしれない。
たとえそれが彼の望みでも。そして、自らの望みでも。

それこそが互いに課せられた罰なのだとしたら、神様は素晴らしく頭が良い。
誰も好きになってはいけない罪びとが、恋をしたときから、それは始まっていたのかもしれないね。
時間をかけて、熟成させて、すべてを最後に奪うなんて。ぼく並みに、いや、ぼくよりもよっぽど性質が悪い。
これが謀だったと分かったとしても、もう遅い。
もう、離れられない。離れることなんて考えられない。

せめて、ぼくが終わるその日まで、触れ合っていたい。
そして、ぼくの罪に彼を巻き込みたくない。

ここまで計算されていたのだとしたら、なんて、考えるだけ無駄なことなのだろう。
神様は、すべてお見通しなのだから。





15/04/28(火)  了
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暗いですが、もう、夢シリーズとでも言いたくなるくらい、またしても夢のお話です。
罪悪感などなさそうな高遠くんですが、こんな風に、罪を考えることがあっても良いかなと。
いや、自分の書く高遠くんは、結構罪について考えてますが。
こんな地獄があったら嫌だなというお話でした。


15/04/29 UP
-竹流-

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