こわい話 ヒカルバージョン 完結編 




和谷の後に付いて部屋に上がる。
変に緊張してしまうけど、確かめなくちゃいけないんだ。
だって、あのクローゼットの中に女がいるのを知ってるのは、
おれだけなんだから…

               


 真夜中の電話 Ⅴ





「よお! 進藤に本田さん! 久しぶり!」
棋院に着くなり、声を掛けてきたのは噂の渦中の人、和谷義高その人だった。
人の心配をよそに、なんだか元気一杯だ。
「「わ、和谷!」」
突然で驚いたこともあったけど、その他イロイロなこともあって、おれと本田さんの声は裏返っていた。
「何なんだよ、幽霊見たような顔しやがって。おれの後ろになんか憑いてるってか~v」
おどけた口調でそう言う和谷を見ながら、おれたちはちょっと複雑な気持ちで作り笑いを浮かべる。

-憑いてるのは、おまえの家にだよ!!-

などと、言えるわけも無い。
「そう言えば、『例』の件では世話になったよなあ~」
「えっ!? 『霊』の件って?」
ちょっと、びびりながら聞き返す。
和谷、もしかして知ってんの?
「なに、すっとぼけてんだよ! 例のおもちゃの電話のことだよ!」
突然、和谷がおれの首に腕を回して、逃げられないようにがっしりと絞めてきた!
うおおおおおお!!!!!
思い出しましたああああああ!!!!!!
あっ! 本田さんが逃げやがった!
あああああ! なんでおれだけなのおおおおお!!!!!!?

「思い出したか?」
「お、思い出しました…」
「よしよし、で?」
「…す、スイマセンデシタ…」
「あ~、なんか、心がこもって無えな~」
「…ゴメンナサイ…」
「もうやらねえ?」
「し、しません…」
「じゃあ、今日の昼飯、おまえの奢りな♪」

そう言って、ようやく首を開放してくれた。
ぜはー、ぜはー、マジ苦しかったって!
恐る恐る和谷の顔を見ると、満面に笑みを湛えている。
………逆に、めっちゃ怖いっつーの!!
「お、奢らせていただきます…」
思わず下手に出ちゃうって!!!
和谷は満面に笑みを貼り付けたままおれの肩をポンポンと叩くと、そのまま何も無かったかのように対局場に行ってしまった。
…和谷を怒らすのは、やめよう! もう、絶対やめよう!
おれは固く心に誓ったのだった。

今日はおれの奢りで、いつものハンバーガー屋で昼飯を食っている。
和谷のトレーの上には、セットとそれ以外のバーガーが5個も積まれている。
今日は珍しく伊角さんの対局が無いから、二人だけだ。
本田さんは…打ちかけになってすぐに探したけど、すでに逃げられたあとだった。
くっ、卑怯者めぇぇ! あとで覚えてろよぉぉ!!
怨念を込めて、目一杯開けた口でバーガーにかぶりついたときだった。
「今日対局終わったらさ、おれん家、遊びに来ねえ?」
和谷の一言で、おれは口いっぱいにほおばってたバーガーを、思わず喉に詰めそうになった。慌てて胸をたたきながら、コーラで胃袋に流し込む。うう、苦しかった。一瞬、川の向こうで誰かが手を振ってるのが見えそうだったよ。
って……

えっ、えええええええええ~!?

「なんか用事でもあるのか?」
和谷が、ちょっぴり寂しそうな目でおれを見る。
いや、そんな「捨てられた子犬」のよう(考えすぎ)な目で見ないで欲しいんですけど…
でも、おれも気になってると言えば、気になってるんだけどさ。
あの、クローゼットのお姉さんとか、クローゼットのお姉さんとか、クローゼットのお姉さんとか………

って、同じことばっかりやんけ!!!
…自分で自分に脳内で突っ込んでみました。
………やっぱ、おれ、社のこと、好きなのかなぁ………
ああ! もう、違うって、なに現実逃避してんだよ! おれ!!
一番気になってたのは、和谷自身のことだろ! 和谷がずっと休んでたから色々と悪いことばかり考えてしまってたんじゃん!!
取り合えず、そう頭で整理してから聞いてみた。
「そう言えば、ここんとこなんで休んでたんだよ?」
言葉にしてしまうと、なんだか笑えるくらいに簡単な台詞だ。
「おまえ、先生から聞いてなかったのか? 風邪ひいて寝込んでたんだよ」
和谷が以外そうな顔をしておれを見る。
「あ~、こないだの研究会、おれ、ちょっと遅刻してったからなぁ」
「そう言や、誰も見舞いに来ねえし、薄情な奴らだと思ってたんだった」
ぶすくれた表情でバーガーをほおばりながら、和谷は恨めしそうにこっちを見た。さりげにあさっての方向に視線を逸らしつつ、おれもバーガーをほおばる。
そうか、おれが心配してたようなことは無かったんだな。
もう、イロイロ考えちゃって(本田さんのせいで余計に)どうしよう? な感じだったもん。あのクローゼットのお姉さんも、そんなに悪い人じゃなかったのかな。
少し、ほっとする。

「携帯にかけても繋がらねえしさ、これでも心配してたんだぜ?」
コーラに口をつけながらおれが言うと、今までこっちを見ていた和谷の視線が、一瞬、ふっと逸れた気がした。
「ああ、悪りぃ。携帯はちょっと…理由ありで切ってたんだ…」
なんだか和谷らしくない、歯切れの悪い答え。
「はは。まさか、夜中にイタ電が掛かってくるとか?」
おれはほんの冗談のつもりでそう言っただけだったのに…

「えっ、なんでおまえがそんなこと知ってんだよ? って、あれもおまえの仕業じゃないだろうな!!」
急にテーブルに身を乗り出してそう言う和谷を見ながら、おれは身体の奥が冷たくなってゆくような感覚に襲われていた。
本当に、ただの冗談だったのに…
頭の中で、今朝本田さんが話してくれた『都市伝説』が急に現実味を帯びてゆく。
格安の部屋、閉ざされたクローゼット、真夜中に…掛かる電話。

考えたくも無いけれど、あまりにも奇妙な符合の一致だと思った。
しかも、おれは知ってる。
あのクローゼットの中には、女が、いる…

「どうしたんだよ? 急に固まって。冗談だよ。おまえだなんて思ってないって。また、なんか奢らされるとでも思ったか~?」
おれが固まっているのを勘違いした和谷が、陽気に笑いながらおれの前髪をくしゃりと撫でた。時々、こんな風に兄貴風を吹かすんだよな、和谷って…
おれは少し考えて、やっぱり和谷の家に行くことに決めた。


今日の対局は、和谷もおれも白星を掴むことができた。
おれ的には、今日は色々と余計なことを考えてしまって正直自信が無かったんだけど、相手も調子が悪かったようで、ラッキーな白星を拾えたって感じだ。
和谷はおれとは対称的に会心の出来だったらしく、遅れて対局場から出てきたおれの姿を見るなり片手でガッツポーズして見せた。
「おっ、和谷、中押しかよ」
「おお、最近調子良いんだぜ。ってか、これがおれ様の実力よ!」
おどけた口調でそう言うと、白い歯を見せて笑った。
屈託の無いその笑顔を見ながら、おれは少し救われたような気分になる。
おれって、こんなに心配性だったっけ?
いや、きっと朝っぱらから変な話を聞かされたからに違いない。

棋院から出ると日は大分と傾いていて、街はオレンジ色に染まっていた。秋とはいえ、日中はまだ歩いていると汗ばむくらいだが、夕方になるとさすがに肌寒さを覚える。
「ちょっと、寒いな。ラーメンでも食ってくか?」
和谷の提案に、おれが異議を唱えるわけも無い。二つ返事で和谷のマンション近くのラーメン屋に寄る事になった。
「ここのラーメン、結構いけるんだぜv」
のれんをくぐって入った店はまだ開けたばかりらしく、他に客は居なかったが、おれたちはカウンターに座った。
「おじさん、ラーメン二つ」
「あいよ!ラーメンふたつね!」
頭にタオルを巻いた厳つい顔のラーメン屋の親父は、威勢良く声を上げるとテキパキとした動作で麺を茹で、その間にスープの準備をと流れるような無駄の無い動きでラーメンを仕上げてゆく。
暖かい湯気が、まるで生き物のように蠢きながら中空に溶けてゆくのを、おれはぼんやりと眺めていた。
「ヘイ! おまち!」
程無く、威勢の良い掛け声と共に、チャーシューが三枚も乗ったラーメンが出てきた。
「おお! 美味そう!」
「だろ? マジいけるぜ」
おれの感嘆に、和谷がすかさず答える。
「んん! ほんとだ!」
麺を一口すすって、おれが声を上げていると、
「嬉しいこと、言ってくれるねえ」
おれたちのやりとりが聞こえていたのだろう。カウンターの向こうから、店の親父が声を掛けてきた。
「兄ちゃんは最近、時々来てくれてるねえ」
和谷の方を見て、親父は笑った。厳つい顔が笑みの形にほころぶと、顔中にある皺が妙に愛嬌のある表情を作り出した。思ったよりずっと愛想のいい親父さんだ。
「あれ、覚えてくれてんすか? なんか嬉しいなあ。おれ、最近こっちへ引っ越して来たばっかなんすよ」
和谷が照れくさそうに頭を掻きながら、答えている。
「くす、和谷きゅんたら、照れちゃってカワイイんだからv」
おれが茶化すと、
「ん? 進藤、ここのラーメンも奢りたいってか?」
にこやかに返された。でも、おでこの辺りの血管がピクピクしながら浮いてそうで、すげえ怖い。
「す、スイマセン…」
「ん、素直でよろしい!」
和谷は偉そうに言うと、わざとらしく音を立てて麺をすすった。
なんだか和谷に弱みを握られてるようで、なんか悔しい。おれはぶすっとした顔を隠しもしないで、やっぱり同じようにラーメンをすすった。
「兄ちゃんたち、おもしれえなぁ」
親父が腕を組みながら、楽しそうにこっちを見ている。
うわあ、見られてたし!
おれは紅くなりながら、ひたすら麺をすすることに専念するしかなかった。

「最近越して来たって、この辺のマンションかい?」
親父が、また和谷に話を振ってきた。結構、話し好きの親父らしい。おれは聞くともなしに耳を傾けていた。
「あ、はい。ここの前の道をまっすぐ行って、右に曲がってちょっと行った所にある…」
和谷が全部言い終わる前に、親父がぽんと手を打った。
「おお! 知ってる知ってる! ワンルームのな! あそこか!」
「あ、知ってんすか?」
「知ってるも何も、あそこは事件があってから、この辺じゃ知らない奴はいねえよ」
「事件?」
和谷が訝しげに問いかけると、親父がしまった、というような顔を露骨に見せた。
「いや、大したことじゃねえよ…」
言いながら、親父の視線がきょろきょろと落ち着き無く動く。

………親父、うそ吐くの下手すぎ!!!

思わず、突っ込みそうになった。が、和谷の方が一歩早かった。
「なんか、あったんすよねえ? 何があったんすか?」
胡乱な眼差しで見つめる和谷。
しばらく、落ち着かなさそうにしていた親父だったが、和谷の視線に根負けしたのか、がっくりと項垂れると、
「聞きたいのか?」
と、言った。
う~ん、和谷の最近の勝負強さは、こんなところでも発揮されるのだな。と、妙に納得のいったおれだった。

「いや、おれも、詳しくは知らないんだけどな。まあ、いわゆる噂だ」
そう前置きをして、親父は話し始めた。


4,5年前、まだあのマンションが新築だった頃に、その事件は起きた。
マンションの一室で、男の死体が発見されたのだ。
第一発見者は男の恋人で、警察に通報したのは隣の住人だという。
警察が現場に到着したとき、第一発見者はひどい錯乱状態で、通報者もなぜか怯えたように何を聞いても「わからない」を連発したらしい。
埒があかないので、この部屋ですねと確認をして,警官は問題の部屋のドアを開けた。
開けた途端、警官は口を押さえた。吐き気をもよおす異様な臭いが、部屋中に充満していたからだ。
何かが腐った、強烈な腐敗臭。それは夏場とはいえ、人が住んでいる部屋にはあり得ないにおいだったという。
中に入って、警官はさらにあり得ないものを見た。
確かに、男が死んでいた。
飛び出さんばかりに見開かれた目、大きく開けられた口からは大量の涎とともに、異様に長く伸びた舌がだらしなく垂れ下がっている。
恐怖に引き攣った顔というのは、もしかしたらこんな風に恐ろしいものなのではないかと思わせる、誰もが凍りついてしまうような形相を浮かべて、男は絶命していた。
だが、見るものを恐怖の底に叩き付けるのは、その男の死に様ではなかった。
男の身体に何かがしがみ付いているのだ。

警官の耳に悲鳴が聞こえていた。途切れなく、引っ切り無しに。
だがそれが、自分の喉から発せられていることに気がついた途端、警官はその場から逃げ出した。
部屋には、男の死体と、『それ』が、残された。
クローゼットの扉が、大きく開いていたという。
男はその前で、死んでいた。
そして、『それ』は、まるでその中から飛び出してきたように、男の腰にしっかりとしがみついていた。

第一発見者である、男の恋人は、今も精神病院に入院しているという話だ。


「うう、怖えぇよぉ…」
おれは自分の身体を抱きしめるようにして、椅子の上で縮こまっているのに、和谷はといえば、カウンターに身を乗り出すようにして、親父の話に耳を傾けている。
自分の住んでるとこの話だってのに、すっげえ興味津々だ!
「で、何だったの?『それ』って?」
おれが一番聞きたくなかったことを、和谷が親父に尋ねた。
親父も、待ってましたとばかりに厳つい顔を寄せてくる。そして、ここだけの話、と言わんばかりに声を潜めた。
いや、声を潜めたって、おれたちしか居ねえって! しかも、その顔が余計怖い!!
心の中で突っ込みつつ、聞きたくないはずなのに、つい、おれも耳を傾けてしまう。
「何でも、女の死体だったそうだ」
「女の死体?」
和谷の言葉に、親父は重々しくゆっくり頷く。
「でも、それじゃあ、無理心中かなんかじゃないの?」
おれがことさら明るく言うと、親父は、分かってねえなあとでも言いたげに、ちっちっと、人差し指を振った。

なに~?! そのキザったらしいポーズは~~!!!
おれの心の叫びも知らずに親父は続ける。

「いや、それがな、もう死後何日も経って腐れ果てた女の死体だったっていうんだ。男はまだ若けえのに、心臓麻痺で死んでたっていうしな」
「「ええ!!」」
おれと和谷が声を揃えて叫ぶと、親父はその反応に満足そうな表情を浮かべた。
「しかもな、その男と恋人は長いこと旅行に行ってたらしくてな、前の日に帰ってきたばかりだったんだと」
そう言って、親父は寄せていた顔を離した。話はこれで終わりのようだ。おれはちょっとほっとする。
「う~ん、その死んだ男が、初めに女の人を殺してクローゼットの中に死体を隠してたとか…開けた途端、隠してた死体が倒れ込んできて、ショック死とか…」
和谷が難しそうな顔をして呟いていた。
「さあな、当事者が死んじまってるから、本当のことはわからねえ。でも、変わった事件だったからな、ちょっとばかし騒がれたんだよ。まあ、あんまり気にしないでくれ。」
「おれ、全然そういうの平気だから大丈夫!」
和谷が晴れやかな顔で答えていた。うん、和谷は平気っぽいよね。和谷は。
………おれが、駄目なんですけど。思わず敬語になっちゃうくらい…
「ううう、怖えぇよぉ」
おれが横で涙目になっていると、和谷が、
「なんだよ進藤。おまえ、こういうの駄目なのか? だらしねえなぁ」
そう言って、笑った。
そうこうしている内に、他の客もやって来て、親父はカウンターの中でテキパキと動き始めた。とっくにラーメンを平らげていたおれたちは、そろそろ出ることにした。
「ごちそうさま。また来るよ」
和谷が帰りがけにそう言うと、親父は厳つい顔を崩して嬉しそうに、
「まいどあり!」
そう言って、見送ってくれた。



「おっ、もう大分暗いな」
空を見上げて、和谷は言った。
おれも同じように空を見上げる。日が沈んで、深い藍色に染まり始めた空は、西の方だけがまだ少しオレンジ色を残していた。伊角さんたちと一緒に和谷の部屋に行ったときよりも、日の沈む時間が早い。
「ほんとだ」
答えると、吐く息が少し白かった。
「マジ寒いし、急ごうぜ」
ポケットに手を突っ込むと、和谷がおれの方を向いて白い歯を見せる。
…今さら、行きたくないなんて、言えないよなぁ。
溜息にも似た息を吐くと、おれは和谷と肩を並べて歩き出した。

「なんだよ、さっきの親父さんの話、気にしてるのか?」
おれが何気に元気無さげなのに気付いたのか、和谷が楽しそうに聞いてきた。
「進藤がこんなに怖がりだとは、おれ、知らなかったな~♪」 
からかい混じりの口調で、和谷はおれの顔を覗き込むようにして言う。
「あんなのは噂が噂を呼んで、話が大げさになってるだけだって。マジにすんなよな」
「う、うるせー! そんなんじゃないからな!」
言い返しながら、顔が強張るのが自分でも分かった。

バサバサの長い黒髪が記憶の中で揺れている。
ざわりとした嫌な感触が、背筋を這い登ってゆく。
ゆっくりとこちらに向けられるその顔を、おれは見たくないんだ。
和谷から顔を背けると、思わずぎゅっと眼を瞑った。

おれさ、ほんとに怖いんだよ。和谷は勘違いしてるけど、おまえの家が。
きっと、さっきの話は本当にあったことなんだ。そして、それはきっとおまえの部屋なんだと、あのクローゼットには今も女が居るんだと、おれの喉まで言葉が出掛かっている。
でも、分かってる。それは言うべきことじゃないんだ。
別に、害が無いのなら放っておいた方が良いことは多い。構うのなら、最後まできちんと向き合わなければいけない。身をもって、おれはそのことを知ってる。
和谷は見えない。そして、知らない。
ならば、そうっとしておく方が良いに決まってる。
今日おれが行くのは、ただ確認したいためだから。あれが悪いものなのかどうか。
もしも悪いものなら、和谷に引っ越しを薦めれば良いだけのことだ。
そう、自分に言い聞かせて、無理に笑顔を作った。
「平気だって! ほら、早く行こうぜ!」
おれは駆け出した。恐怖を振り払うように。
「あっ、こら、待てよ!」
慌てて、和谷が追いかけてくる。

あの扉を開けてしまったのは、おれの責任。ちゃんと見届けなくては駄目なんだ。
何度も何度も自分に言い聞かせて、おれは竦みそうになる足を励まし続けた。


マンションのエントランスを抜けると、すぐにエレベーターがある。
ボタンを押すと、すでにそこで待機していたエレベーターは嬉々としてその扉を開いた。
それがまるで魔界への入り口のように見えて、おれの気分はさらに下降の一途を辿った。
その小さな箱は、おれたちを飲み込むと目的の階に向かって音も無く上ってゆく。普段なら気にもならないほどの浮遊感が、吐き気すら覚えさせた。

「さっきから元気無えなぁ。大丈夫か? どっか具合でも悪いのか?」
おれがあまり喋らないのを勘違いしたらしい和谷が、蛍光灯に照らされている廊下を歩きながら気遣わしげに聞いてきた。
おまえン家が怖くって…などと言えるわけも無く、
「ちょっと、疲れてんのかもしんねー。今日の対局もぎりぎり勝利だったし…」
なんて、無難な返事を返しちゃうおれって大人~。
「う~ん、じゃあ誘って悪かったかなぁ」
申し訳なさそうに言う和谷に、逆に申し訳ない気がする。
「いや、いいって! ぜんぜん、大丈夫だから!」
「そうか? それならいいけど、ま、ゆっくりしてってくれよ」
言いながらドアの前に立つと、ポケットから取り出した鍵の束の中から一本を選び出し、おもむろにノブについている鍵穴に差し込んだ。
ガチャリと鈍い音がしたかと思うと鍵は抜かれ、再び和谷のポケットにしまいこまれる。
ぼんやりとそれを見ながら、腹を括る時が来たのだと、おれは思った。


和谷はドアを開けて先に入ると、真っ暗だった玄関の灯りを点けた。電球色の暖かな灯りが辺りを照らす。雑然とした玄関前の短い廊下の向こうに、スリガラス張りの部屋の扉が見えた。部屋の中は当然のように暗い。
握り締めた手のひらが、汗ばんで来るのが分かった。
「我が家へようこそ。ま、上がってくれよ」
和谷はスニーカーをポンポンと脱ぐと、揃えもせずにさっさと奥へと入ってゆく。その場につっ立っているわけにも行かず、おれも後を追うように付いて上がった。
先に部屋に入って明かりを点けている和谷の後姿を見ながら、ふとおれは、前と何かが違うような感覚を覚えていた。

あれ? なんか…怖くねえ?

以前、伊角さんたちと来たときに感じた空気の重さも、嫌な感覚も、今は何も感じない。
「ちょっとばかし散らかってるけどさ、まあ、その辺に座っててくれよ」
言いながら、和谷は廊下の横に申し訳程度にしつらえてあるミニキッチンへと足を向けた。
「おまえ、コーラでいい?」
備え付けのこれまたミニ冷蔵庫を開けながら聞いてくる。
「何でもかまわねえよ」
ずっと部屋の前に立っているわけにもいかず、おれは部屋に入ると上着を脱いだ。
「あ、上着、クローゼットに掛けとくか?」
コップとコーラのペットボトルを持った和谷が、おれを見てそう声を掛けてきた。
「ええ?! クローゼットって…和谷使ってんのか?」
思わず振り返ったおれは、見てしまった。
クローゼットは開いていた。っていうか、扉が取り外されてしまっている!
「…和谷…クローゼットの戸…なんで無いんだ…?」
「ああ、これな、閉めても閉めても嫌な音立てて開くからさ、蝶番外して取ってやったv」

マジですか!!!!!

「この方が荷物も入るし、結構重宝してるんだぜ」
部屋に入ってきた和谷の向こう側に、クローゼットが見えている。
和谷の服なんかが無造作に掛けられていて、すこぶる快適に使用中なのはよく分かる。
でも、でも…だ。
その中の引き出し付きの棚の上に、い…いるんですけど…
えっと…普通に、俯いた女の人が座っていらっしゃる!
しかも、正座でだ! 
…いや、体育座りとかだったら、もっと嫌だけどさ。
ど、どどどどどどどうしよう!!!!!
全身から脂汗が噴出した。どうすればいいのか、さっぱりわからない。
まさか、こういうシチュエーションなんて、考えてもいなかった。

和谷! おまえ、同棲してんのか!! 幽霊とっ!!!
って、冗談じゃないぞ!

そうだ! お経だ! 坊さんだ!

「ほい、コーラ」
おれの内心のパニックなどまったく知らない和谷が、気の抜けた様子でコーラを注いだコップを渡してくれた。
「あ、サンキュ…」
思わず普通に受け取って、妙に渇いていた喉を潤す。
「なんだ、喉、渇いてたのか? まだあるから、好きにおかわりしていいからな~」
なんて、コーラを一気飲みしたおれを見て、あさってなことを仰る。
み、見えないって、すごい!!!
まったくいつもどうりの和谷に、変な感動を覚えたりして…
コーラを飲んで少し落ち着いたのか、おれの内心のパニックは一段落していた。
その時になって、初めて、花の香りが部屋の中に満ちているのに気が付いた。

…この匂いは…金木犀…?

何処から匂うのかと、部屋の中を見回してみると、クローゼットの棚の上に無造作にガラス瓶に生けられた、一枝の金木犀を見つけた。
…丁度、例の女の真ん前だ。
うわああああ、どうしよう! と、一瞬思ったものの、よく見ると、俯いた女はまるで花の上に屈み込むようにして座っている。
顔は長い髪に隠れて、よくは見えないけれど、嬉しそうにしている気がした。
おれがじっと花を見ていると思ったのか、
「いい匂いだろ? この間、指導碁に行った所でもらったんだ」
和谷も花を見ながら言った。

「…なんで、あそこなんだ?」
「へっ?」
「…いや、どうしてクローゼットの所に置いてあるんだ? 服、湿気るじゃん」
おれも花の方を見たまま、和谷に聞く。
「どうしてって…言われてもなあ」
そう言って、和谷は何かを考えるように一呼吸置いた。
「なんとなく、あそこに置くのが一番良いような…気がしたんだ」
おれが和谷に顔を向けると、和谷もおれの方を向いて、ニッと白い歯を見せる。
「だから別に、理由なんて、無えよ」
そしてまた、花に眼を戻す。
「…ただ、あれを置いてから、なんでかイタ電、掛かってこなくなってさ」
たまたま、偶然なんだろうけどな。なんて、和谷は笑うけど。

ああ…、そうなのかと、おれは思った。

和谷は何も見えてないけど、寂しい魂に無意識に反応していたのかも知れない。
誰にも気付かれもせず、孤独だった魂に、花を捧げたんだ。

香木は魔を払うという話を、どこかで聞いたことがあるけれど、おれは花よりも和谷の優しさが、女の邪気に満ちていた気配を払ったのかも知れないと、思った。
そこに見えてはいるけれど、もう、女の人には、以前のような怖さは微塵も感じられない。

…この人は、和谷に救われたんだ…

素直に、そう感じた。
なんだ、何もおれが心配する必要なんて、無かったな。
和谷は、とてもいい奴だ。それはおれが、保証しちゃうよ?
ただ、それが幽霊にまで届いちゃうってのは、ホントびっくりだったけどさ。

そんなことを考えて花を見ていたおれは、すごく嬉しそうな顔をしていたらしい。
いい事でもあったのか、とか、金木犀になんか良い思い出でもあるのか、とか、和谷に色々詮索されたのは、仕方の無いことなのかなぁ?
せっかく和谷のこと心配して来たのに、なんか納得いかね~気がするのは気のせい?
ま、いいけどさ。



この後も、おれは何度か、和谷の部屋に足を運んだ。
週一で、仲間内の研究会もあそこでやってるしさ。
そうそう、最近やっと、伊角さんと本田さんも来るようになったんだ。
伊角さんといえばさ、あの例の携帯、お寺で供養してもらったらしい。なんだかな~。
和谷のクローゼットには、相変わらず花が生けられている。
服、湿気ちゃうのにな~、なんて、おれも相変わらずなことを思いながら、黙ってそれを見ていたりして。
そして行く度に、あの女の人の影が薄くなって行くような気がしていた。
そんなことが日常化していた、いつもと変わらないある日。

たまたまその日、おれは和谷の家に来ていた。お泊りセット付きで、泊まる気満々てやつ?
で、夜遅くまで、碁打ったり、酒飲んだりして楽しく過ごしていた時だったんだ。
突然すっと、クローゼットの女が立った。
おれはそんなの初めて見たから、ちょっと、ってか、かなりびびった。
だって、ここんとこ、いつも正座してたしさ。
すると、急に顔を上げてこっちを見た。

いや、あんた、行動が唐突過ぎ!
おれは、思わず身構えたよ。
初めて女を見たとき、マジで顔見たく無かったし…

でも何も心配することは無かったようだ。
女は、綺麗な顔でにっこりと微笑んで、ゆっくりとした優雅な動きでお辞儀をした。
それはとても自然で、生前の彼女がどんな人だったのか、わかるような気がするくらい。
そしてお辞儀をしたまま、すうっと、全体が薄くなり始めた。
その時が来たんだと、ようやくおれにもわかった。

-そっか、やっと、逝けるんだね。よかったね。
完全に消えてしまう最後の瞬間、その声をおれは確かに聞いた、ような気がする。

『…ありがとう…』

静かで、優しい、声だった。
ああ、よかったね、本当に、よかったね…

…あいつが消えるときにも、こんな風に送ってやりたかったなぁ…なんて、ふっと思い出したりして、思わず涙が零れそうになっておれはトイレに走った。
突然、ウルウルしながらトイレに駆け込んだおれを、和谷がびっくりしたような変な顔をして見ていたけど、おれのせいじゃねーもん。
って、なんだよ! 見てんじゃねーよ!

この後、随分和谷にからかわれたのは、言うまでも無い。
やれ失恋したのかとか、相手は誰なんだとか、あまつさえ、もしかして相手は塔矢じゃないだろうな! とか! あー、もう! なんでそうなるの?
マジ、心配なんかしてやるんじゃなかった!
おれはおまえの代わりに、彼女を見送ってやったんだっつーのに!!
なんで、こんな扱い受けてんの?!!
もう、今度変な物件掴んでも、絶対知らねーかんな!!!!
プンだ!!!!!

で、相変わらず、和谷はこのマンションに住み続けてる。
中々、快適なようで、当分は引っ越さないと仰る。
まあ、もう何も問題は無いし、いいんじゃね~の? って、感じだけどさ。
でも、新しく引っ越す時とかは、やっぱそこの物件、よく調べた方がいいかも知れないと思わせた一件だった。周りより値段が安いなんてのは、特に要注意だな。
ま、今回もホントの事情は、おれしか知らないんだけどね。
なんか、言えない秘密が増えてくようで、おれ的にちょっとビミョ~。

そう言えば、例の女が消えてから、今まで絶好調だった和谷の調子が落ちた。っつーか、元に戻った。
どうやら、あの好調さは『鶴の』じゃなく、『幽霊の恩返し』だったのかも…
花をありがとうって…さ。



プルルルルル、プルルルルル…

どこかで、真夜中に電話が鳴っている。
自分の携帯の音ではない。

さあ、クローゼットの中を、調べてみようか…





2005年4月22日      了
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______________________

『真夜中の電話』ようやく、完結です。
お待たせしすぎました。って、待っててくれてる人、おるんか?
異様に長くなってしまったのですが、しかも、初めに考えていたものとは全く別物になってしまっていたりするのですが、
取り合えず、完結ですよ。ふはははは。
あ~、終れてよかったv でも、全然怖くないよ。
どこが、こわい話やね~ん! という突っ込みは、謹んでお受けします。
しかも、和谷くん主役の予定が、なぜか影薄くなってしまって、和谷くんファンの方、本当に申し訳ないです。
では、また、次のお話で… 

14/12/17再UP
-竹流-



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