ねがい
「とっても、いい夢を見たんだ♪」
珍しく、ぼくより早く起きたきみは、そう言って、朝食の仕度をしていた。
小さな木のテーブルの上には、ブルーのテーブルクロス。真っ白なディッシュの上には、トーストしたばかりの食パンが四枚。コンロに掛けられたフライパンの中では、賑やかな音を立てながら、ベーコンエッグが出来上がりつつあった。
コーヒーをドリップするのはぼくの仕事で、毎朝、豆を挽くことから始める。
今日はモカにしようか…幾つかあるコーヒー豆の中から、やや酸味のあるものを選んだ。
気分によっては、ブレンドする日もあるけれど、今日は単品で挽くことにする。
元々、ぼくは紅茶党だったのだけれど、きみが「朝はやっぱ、コーヒーじゃねえと眼が覚めねえ!」と言い張るので、いつの間にか、朝はコーヒーを飲む習慣が、ぼくにも付いてしまっていた。そう考えて、なんだかくすぐったいような気持ちになるのは、どうしてなのだろう?
「早くしろよ。トースト冷めちまうから」
言いながら、トーストにバターを塗るきみは、やはり、とてもご機嫌で。
湯を沸かしたドリップ用の銀色のケトルを持ちながら、つい、ぼくも、微笑んでしまう。
やがて、コーヒーの香ばしい香りが、キッチンの中を満たす頃、色違いの揃いのマグカップに、褐色の液体を注いできみに差し出すと、満面の笑顔でそれを受け取るんだ。
「高遠の淹れてくれるコーヒーが、おれ、一番好きだよ」
そう言いながら。
古いアパルトメントの、古びた白いタイル造りの小さなキッチンで、穏やかに一日が始まってゆく。
少しくすんだガラス越しに差し込む、柔らかな日差しが満たす、憧憬。
きみと暮らし始めるまでは、想いもしなかった普通の生活。
手を伸ばすと、大切な人が、そこにいて、微笑んでくれる。
ただ、それだけのことが、どんなに心癒すものなのか、ぼくは今まで、知りもしなかった。
闇の中にだけ、安息は存在するものと信じていたあの頃が、まるで嘘のようだ。
「で? 一体どんな夢を見たんですか?」
向かい合わせに座って朝食を摂りながら、何気なくきみに訊ねる。きみは食べることにのみ集中していた意識を、ようやく、ぼくに向けた。
「えっ? なに? 聞きたい?」
口調のわりに、聞いて欲しそうな眼差しでぼくを見る。
ああ、聞いて欲しいんだ。ぼくは胸の中で、クスリと笑みを零す。
「ええ、すごく聞きたい」
きみの誘導に、まんまと乗ってしまおう。だって、きみのことは、すべて知っていたい。
その吐息すら、からめとってしまいたいくらいに。
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きみは嬉しそうに微笑むと、少し首を傾げて、まるで歌うように言の葉を唇に乗せた。
「あのさ、高遠が大きな舞台に立っている夢だったんだ♪」
「ぼくが?」
「うん!」
マグカップを両手で包むように持ちながら、きみは視線を虚空に泳がせる。まるで、今、目の前に、その情景が浮かんでいるかのように。うっとりとした、表情をして。
「すごく、カッコ良かったんだ。たくさんのスポットライトを浴びて、会場いっぱいのお客さんの、割れるような拍手が響く中で、一流マジシャンのあんたがお辞儀して、その声援に応えてるんだ」
と、突然、ぽたりときみのマグの中に雫が落ちた。中を満たした褐色の液体が、瞬間、小さなクラウンを作る。
それはあまりに唐突で、なにが起きたのかわからなくて、ぼくは声も無くきみを見つめていた。そのまま、ぼくが見ている前で、きみの瞳からは止めど無く、涙が零れ始める。
「…はじめ?」
たった今まで、幸せそうに、嬉しそうにしていたきみが、突然、苦しそうな表情を浮かべて、泣いている。
わけが、わからなかった。
「どうしたんですか? はじめ?」
慌てて立ち上がったせいで、がたりと音を立てて、椅子が後ろに倒れた。けれどそんなことになど構っていられなくて、ぼくはテーブル越しに、きみの頬に流れる涙を指で拭った。
「た…かと…」
大きな茶褐色の眼が涙に潤んで、差し込む朝の光を滲ませている。
それは、とても綺麗に、きみの瞳を彩っていて。
どこまでも、透き通っているようで。
なのに、後悔、という言葉が、そこには潜んでいるような気がして。
胸が、苦しくなる。
この、幸せは、危うい均衡の中に成り立っているのだと、思い知らされる、瞬間。
「…なぜ、泣く…の…ですか?」
泣かないで、きみの涙は、ぼくを不安にさせるから。
闇が、ぼくを捕らえようとするから。
「…ごめんな…」
言葉と同時に、また、新しい涙がきみの頬を伝う。
一体、なにを謝っているのだろう?
ぼくの手が、震える。
「…なぜ…謝るんです?!」
俯いて、きみが力なく、首を振る。
「はじめ! 答えなさい!」
どうしようもない衝動が。怒りとも、不安ともつかない感情が、ぼくを突き動かしていて。
ふたりを隔てるように、間に置かれていたテーブルをひっくり返して、きみの手首を掴む。
物が砕け散る音が、一瞬、狭いキッチンの中を支配した。
怯えたような表情を浮かべて、ぼくを見つめるきみの瞳が、わけの分からない涙に濡れているきみの瞳が、狂気じみた苛立ちを、ぼくの中に湧き上がらせる。
暗い感情が、胸の内で頭を擡げているのが、わかる。
「答えて、はじめ…」
ぎりり、と、締め上げられるように強く両手首をつかまれたきみは、痛みに顔を顰めながらも、椅子からゆっくりと立ち上がると、そっと、ぼくに口づけた。
「…高遠、落ち着いて…おれは、何処にも行かないよ」
その言葉に、ぼくはようやく、我に返る。
見ると、ぼくにつかまれていたきみの手は、白く色が変わっていて、慌てて、指を離した。
つかまれていた部分が、痣になって残っている。
「…大丈夫ですか」
「あんたって、ホントにすぐ切れちゃうよね」
普段は、くそが付くくらい丁寧で、優しいのにね。
手首を擦りながら、きみが呟く。
口元には苦笑、瞳には、涙の粒を浮かべたまま。
まったくその通りだと、自分でも思う。
ぼくは、きみのことになると、前後の見境がつかなくなる。
よくこれで、計画犯罪などできていたものだと、自分でも感心してしまうくらいに、感情だけが先走って、冷静に物事を考えられなくなってしまう。
「本当に…すみません」
きみの手を取って、赤黒く付いた手首の痕を撫でた。
自分の愚かさ加減に、ため息が出る。
きみは、じっとぼくのすることを黙ってみていたけれど、ふいに口を開いた。
「ごめんな、高遠」
きみの言葉に顔を上げると、まっすぐな眼差しでぼくを見つめるきみがいて。
「なにが…ですか…?」
少し、怖くなる。
こんなことばかり繰り返して、きみに愛想を尽かされても、仕方がないような気がした。
でも、きみと離れることなんて、絶対に、ぼくにはできないんだ。
けれど、
「おれ、高遠を不安にさせてばっかだよな。ホント、ごめんな」
きみの口から出てきた言葉は、緊張していたぼくを、拍子抜けさせるようなもので。
なのに、きみはひどく緊張した、面持ちのままで。
ぼくたちは、黙ったまま、見つめあった。
キッチンの中に、広く満ちていた光が、日が高くなってきたせいだろうか、日の当たるスペースが小さくなっていた。床の上に散らばった、食器の欠片たちが、それでも僅かな光を反射して、不規則な光彩をあちらこちらに投げかけている。
時間の流れが、緩やかになった気がした。
沈黙に耐えられないように、先に口を開いたのは、きみだった。
「おれさ…あんたの未来を潰したって…ずっと…後悔しててさ…」
苦しげに吐き出された言葉は、また、きみの眼に新しい涙を浮かべさせた。けれど、ぼくには一体何のことだか、さっぱり、わからなくて。
「あの…それは、一体、何のこと…ですか?」
躊躇いがちに、きみに訊ねてみた。
すると、困ったような、呆れたような、ちょっと表しがたい複雑な表情を浮かべて、ぼくを見る。涙は…中途半端に、止まっているようだ。
「マジで…?」
ひとこと、それだけを言うと、盛大なため息を吐きだした。
「〜〜〜なんか、おれ、バカみてえ〜!」
脱力しきりました。とでも言いたげに、がっくりと項垂れる。
いや… きみを見てると、ぼくは飽きないですけど、その行動の意味を教えて欲しいんですよ? はっきり言って、わからないです!
ぼくの頭の中の疑問は、けれど、すぐに答えを得ることが出来た。
もう一度、ため息を吐き出すと、きみが呟くように話し出したのだ。
「…おれ、ずっと気にしていたんだよ」
あんたの、マジシャンとしての未来を、潰したって…
「それは…」
流石に、ぴんと来た。
たぶん、魔術列車のときのことを、言っているのだろう。
ぼくが理解したのを感じたのか、きみはゆっくりと頷くと、言葉を続けた。
「あのとき…もしも、完全犯罪が成就していたら、あんたは、またマジシャンに戻れていたんだろ?」
逸らすことすら許さない真剣さで、きみはぼくを見つめる。
深いきみの瞳の色は、その苦悩の深さを表しているようで、ぼくまで息苦しさを覚えた。
「…おれ、あんたとこういう関係になって…はじめて…気がついたんだ。…おれが、あんたの未来を…潰したんだってことに…」
そう言って、つらそうに閉じた瞼の下から、また透明な雫が、一粒、零れ落ちる。
居たたまれなくて、気がつくと、ぼくはきみの身体を強く抱きしめていた。
何度と無く、きみの髪や額に、くちづけを落とす。
知らなかった。
きみが、そんなことのために、ずっと、傷ついていたんだなんて。
「きみが、気にすることではないんですよ。あれは、すべて、覚悟の上でしたことです。それに、あのとき、ぼくはきみを殺そうとまでしたんですよ?」
柔らかなきみの髪に、顔を埋めて、ぼくまで切ない気分になる。
あのとき、もしも、きみが死んでしまっていたら、ぼくは今も、闇の中にいたかもしれない。
たとえ、完全犯罪が成っていたとしても、きっと、それは変わらなかっただろう。
きみが死んでいたら…、考えただけで、息が詰まりそうだ。
「きみが、生きていてくれてよかった…それが、今のぼくのすべてです」
「…たかとお…」
きみの腕が背中に回されて、自然と、お互いのくちびるが重なる。
胸の中が、とても温かい。
以前は、眩ゆいライトの下で、たくさんの人に自分の存在を認めてもらうことを、欲していたことも、確かにあった。
暗い欲望に身を浸して、人の命をかけた舞台を作り上げては、きみを困らせることに愉悦を感じていたことも、あった。
こんなぼくが、人並みの幸せを求めるのは、きっと、いけないことなのだろうけど。
でも、ぼくの幸せは、暗闇の中にもスポットライトの中にも無くて、今、この腕の中に、確かにあるんだ…
きみと共にあること、それだけが、ただひとつの、ぼくの願い。
そう考えて、ふと、思った。
「…きみの願いは、ぼくがマジシャンとして、生きてゆくこと…なんですか?」
長いくちづけの後で、きみの顔を覗き込んで、訊いてみる。
頬を高潮させて、うっとりと潤んだ瞳のまま、きみは少し首を傾げて悩んでいたけれど、
「そう…かも」
言葉を濁しながら、けれど、迷いの無い眼差しで、ぼくを見上げた。
きみが、望むのならば。
それが、きみの願いならば。
ぼくは、ぼくの持つすべてで、それを叶えましょう。
十字架を背負ったぼくは、きみの見た夢のように大きな舞台というわけには、もう、いかないけれど、でも、もう一度、一から始めてみようか。
足元を確かめながら、一歩を踏み出そう。
きみとなら、きっとそれができるだろう。
もう一度だけ。
人として…
05/06/06 了
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おまけ
05/06/07UP
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