眠れぬ夜は、あなたの傍に V 鍵穴に、キーを差し込むと、ゆっくりとそれを回す。 そんな単純な動作を二度繰り返して、ぼくたちが借りている部屋のドアを開くと、そう長く離れていたわけでもないのに、温かいような、切ないような想いが、突然、胸に湧きあがって、ひどく懐かしい気持ちに捉われてしまっていた。 安心感とでも呼べばいいのだろうか。ホッと肩の力が抜けて、今まで気付きもしなかった疲労が、身体に押し寄せてくる感覚さえある。 こんなことは、彼と暮らし始めるまではあり得なかったことだと自覚があるだけに、よけい始末に負えない。 はじめの元が、自分の帰る場所。 いつの間にか、そんな刷り込みが、無意識のうちに、自分の中ではなされているようで。 苦笑が口元に浮かんでいても、胸の奥の手触りは、甘い。 今すぐベッドにもぐりこんで、彼を抱きしめたまま、深い眠りに落ちてしまおうか。 そんな抗いがたい誘惑にも駆られるけれど、でも、今回ばかりは、おあずけだ。 ねえ、はじめ。 突然、戻ってきたぼくに、きみは一体どんな反応をするのだろう。 いつもの、微妙に歪んだストレートな感情で、ぼくを迎えてくれるのかな。 それとも、ひとりの生活が気楽だったと、その表情に、困惑を浮かべるのかな。 きみを驚かせようと企んで、一切連絡をしなかったのに、きみからの連絡もなくて、逆に不安に陥ってしまう羽目になろうとは、思いもしませんでしたよ。 そう言えば、きみからの連絡と言えば、初日のメールだけで、それ以外はまったくと言っていいほど、ありませんでしたしね。 でも、あのとき… 『愛してる』と、普段なら、なかなか素直に言ってはくれない言葉を、突然、送られて。 すぐにでも飛んで帰りたくなったのは、ぼくだけの、秘密です… 足音を忍ばせながら、気配を殺して、ゆっくりと暗い廊下を進む。こういう芸当は、昔から得意だったなと考えて、また、苦笑が浮かんだ。 闇の中で息を潜め、まるで安息などとは無縁の、冷たい世界の住人であった自分。 けれど、それはもう、昔のこと。 彼と共に生きてゆこうと決めた自分は、あの頃の自分とは、別人のはず。 彼の、温もりに触れて。 彼の、暖かい光に、充たされて。 もう一度、生きようと思った。 重い十字架を、背負ったまま。 ノブに手を掛けると、慎重な動きでそれを回転させる。 真夜中といっても、もう明け方に近い時間だ。はじめはきっと、深い眠りについているに違いない。そう考えながら、そっと、寝室の扉を開いた。 聞こえてくるのは、はじめの安らかな寝息…のはずだったのに。 なのに。 聞こえてきたのは、声を押し殺した、嗚咽。 誰のものかなど、考えるまでもなかった。 「はじめ…? 起きているんですか?」 驚いて、ドアのすぐ横にあるスイッチを押して明かりを点けると、暗さに慣れていた目が、一瞬、眩さに眇められる。と同時に、見慣れたはずの青い色の壁紙が、酷く暗く感じた。 「たかとお…?」 ベッドの中で蹲っていた塊が、ぼくの声と点けられた明かりに反応して、掠れた弱弱しい声を上げながら、ごそりと緩慢に動いた。何かに怯えているのかと思えるほどに、恐る恐るといった風情で。 やがて、起き上がってきたのは確かにはじめなのだけれど、いつも目にしていた元気な彼とは、まるで別人のように、頼りなげな姿だった。 ふとんの中に潜り込んでいたせいなのか、長い髪を酷く乱して、驚きにめいっぱい見開かれているその目は、泣き腫らしていたのが一目でわかるほどに、真っ赤に染まっている。 涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになったままの顔は、けれど、ぼくを見るなりさらに歪んだ。 「た…かと…?」 鼻に掛かった掠れた声で、疑問符を付けながら、ぼくを呼んで。新しい涙を溢れさせて。 そして、小さな子供が母親を求めるみたいに、ぼくに向かって、両の手を差し出した。 「はじめっ!」 傍に駆け寄って、強く、その身体を抱きしめる。 「たか…とう…たかと…」 繰り返し、ぼくを呼びながら、はじめもまた、ぼくの身体にしがみついてくる。 スーツが皺になってしまうとか、涙と鼻水で汚されてしまうとか、そんなことなどどうでもいい。こんなにも、弱りきっている彼を見るのは、初めてで。 ひとりで寂しかったのだと、全身で訴えてくる姿が、かわいくて仕方がない。 どうして、こんなにも大切だと思えるものが、この世に存在するのだろう。 胸の奥に痛みを、覚えるほど。 深い疼きを、感じるほど。 狂おしいほどに、好きだと言い切れる。それは、焼け付くほどの、想い。 好きだと自覚した頃から、ずっと変わらずに、胸の奥で燃え続けている、炎。 けれど、そんな想いは、きみも同じなのだと、繰り返し、きみは訴える。 わかってほしいと。 信じてほしいと。 決して、口にはしないけれど。 本当はね、わかっているんですよ。はじめ。 きみが、ぼくのことを、愛してくれていることぐらい。 ただ、不安で、ふあんで。 …ぼくは、きみにはふさわしくない人間だと、知っているから。 でも。 手放せるわけがない。 離れられるわけがない。 こんなにも深く、ぼくたちは、求め合っているのに。 「好きですよ、はじめ」 「…うん …うん、おれも。おれも、たかとおが好きだよ…一番好き…」 何度も何度も、腕の中で、うわ言のように、きみは呟く。 このまま、きみを抱いて。 誰の手も届かない所へ、行ってしまおうか。 本当に、ぼくは、きみさえいればいいんですよ。 潰えた夢も、きみが望むから、追いかけてゆけるんです。 この血で汚れた身体も、死に充たされた魂も、何もかも全部捨てて構わない。 きみさえいれば、何もいらない。 この、命さえ。 奪うように口吻けて、そのままベッドへと押し倒すと、ぼくの首に腕を絡ませて、きみも懸命に答えようとしてくれる。 舌を絡ませ合って、何度も角度を変えながら、不在だった時間を取り戻そうとするみたいに、長く激しいキスを繰り返して。 もう、待てるわけがなかった。 性急に高まってゆく感情のままに、ぼくたちは互いの服を脱がせ合おうとして。 そして、はじめの着ているパジャマのボタンにぼくが手を掛けたとき、無情にもストップを掛ける音が、窓の外から響いた。 それは、あまりにもタイムリーに鳴らされた、ぼくを現実に引き戻す、軽いクラクションの間抜けな音。 そうだった… 忌々しげな思いとともに、自分が何をするためにここへ帰ってきたのかを思い出していた。 ぼくのシャツのボタンに掛けられているはじめの手を、押しとどめるようにそっと手のひらで包みながら身体を起こすと、きみは怪訝な表情を浮かべる。 「どうしたの?」 目の周りを紅く染めながら、不安そうにぼくを見つめる眼差しは、きみにはそんなつもりは無いのだろうけれど、酷くぼくの理性を揺るがせる。 そんな顔で見つめないで。 本当はぼくだって、このまま、きみを抱いてしまいたいんだ。 けれど、いけない。ここは耐えなくては。 「今は、ダメです。はじめ、用意をしないと」 何のことかわからないとでも言いたげに、首を傾げてみせる、きみ。 なのに、そんな単純な仕草さえも、ぼくを煽っているようにしか思えなくて。全部投げ出して、きみに溺れてしまいたい気分になってしまうのを、根性でぐっと押さえる。 だって、きみは、喜んでくれるはずだから。 そのために、ぼくは、来たのだから。 そう、 「一緒に、イタリアへ行くんですよ」 「えっ?」 ぼくの言葉に、目の前の、元々大きな眼がさらに大きく見開かれて、今まで不安に閉ざされていた褐色の瞳に、希望を映す光が点る。 はじめ、きみは本当に、わかりやすい。 「ほ…んと?」 「ええ、迎えに来たんです。ホテル側から、ショーの延長が打診されましてね。それで、滞在する期間が長くなるのなら、ステディーを連れて来てもいいかと交渉したら、OKだということになったので」 ちょっとばかり、無理を言ったんですけどね… とは、胸の中だけで言っておきましょう。どうやら、その甲斐はありましたから。 「だから、早く用意をしてください。タクシーを待たせてあるんです」 「えっ? えっ? マジっ? 何をどうすればいいんだ?」 いつもの調子を取り戻して、明るい表情できみはぼくを見つめる。 「顔を洗って、髪を整えて、服を着替えて。ぼくが適当に着替えを詰めておきますから、足りないものは向こうで買えばいいんですよ」 「うん、わかった!」 そうして、ようやく、きみは笑顔を見せた。 ああ、やっぱり、きみはぼくの太陽だ。 きみが笑ってくれるだけで、ぼくの胸はこんなにも温かく充たされる。 きみが笑っていてくれるなら、ぼくはどんなことでもしよう。 潰えたはずの夢を追いかけることも、人であったはずの頃の心を、取り戻そうとあがくことも。 きみのためになら。 きみのためにだけ。 その果てに、なにがあろうと。 ボストンバッグにはじめの着替えを詰めながら、これから共に追いかけてゆくはずの、遠い過去の夢を想う。もう、ずっと以前に失くしたとばかり思っていたのに。この身を怒りに染めたあの日に、それは失くなってしまったのだと。 なのに今、確かな高揚感が、胸の内に湧き上がるのを感じている。 彼と見る夢だからなのか。それとも、この身体の奥には、まだ覚めやらぬ夢の名残があったということなのか。 どちらにしても、ぼくたちは、歩き始めた。 あの頃のように、大きな夢を紡ぐことは出来ないけれど、行けるところまで、行こうか。 「たかとお、用意できたぞ」 振り返ると、はじめがいつものラフな格好で、ぼくに微笑みかけている。 「ええ、こちらも準備できました」 答えながら、ぼくも微笑む。 「じゃあ、行きましょうか」 「うん!」 ふたりで暮らしている部屋に、鍵をかけて。 ふたりで一歩を踏み出してゆく。 「どのくらい、留守にするのかな?」 「1、2ヶ月ぐらいですかね。延びる可能性もありますけど」 「ふうん、そっか。しばらくマリアさんたちとも会えなくなるんだ。…なんだか寂しい気がするな」 「でも、ぼくと一緒だから、寂しくないでしょう?」 鍵を閉める手元を見ていたきみは、そのぼくの言葉に顔を上げると、微かに頬を染めて。 「…うん///」 小さく答えながら、また俯くと、いつになく素直に、そっとぼくの肩に寄り添った。 離れてみて、初めて互いの存在の重さを、ぼくたちは知ったのかもしれないね。 どこまで続いているのかわからない暗い道を、ふたりで歩き出すために、必要な時間だったのかもしれない。 でも、大丈夫だ。 ぼくたちは、こんなにも、互いを必要としているから。 きっと、迷うことは、ないよ。 慌しくタクシーに乗り込むと、待ちくたびれたように大きなあくびをしながら、タクシーの運転手が振り返った。まず、はじめに視線を投げてから、ちょっと意外そうな顔をして、ぼくを見る。 タクシーを待たせてまで連れて来るのは、きっと女性だと思われていたのだろう。 『じゃあ、空港までお願いします』 ぼくの声に、壮年と思しき運転手はなにも言わずに頷いて、ハンドルを握った。 空港からここまで乗せてきてもらったのに、また空港に逆戻りだ。まったく、忙しいことこの上ない。だが運転手にしたら、ぼくはかなりの上客なのだろう。気前よくチップを弾んでくれた上、さらに往復分の金を吐き出すのだから。 滑らかな動きで、ぼくたちを乗せた古いタクシーは走り出す。 夜明け前の、まだ暗い、闇の中へ。 行く先の見えない、ぼくたちの未来へと。 車が走り出していくらもしないうちに、横に座るはじめの身体が寄りかかってきた。ぼくの肩に頭を乗せて、すやすやと寝息を立てている。安心しきったような表情を浮かべて。 ずっと、眠れていなかったんだろう。眼の下に隈が出来ているのは、部屋にいるときから気付いていた。 不安な思いを、させてしまったに違いない。 きっと、ぼくと同じくらい。 どうして、誰かを好きになればなるほど、胸の中の不安は大きくなるのだろう。 信じているはずなのに。ゆるぎない確信が、あるはずなのに。 なのに、失うかもしれないという想いは、常に頭から離れないんだ。 こんなにも弱い自分が存在するなんて、きみと暮らし始めるまで、知りもしなかった。 ずっと傍にいれば、安心できると思っていた。ただ漠然と、全て自分のものになるのだと。 けれど、そうじゃなかった。 以前よりももっと、きみを必要としていて。少し離れるだけで、不安で苦しくて、どうしようもなくなってしまう。 でも、それでも、きみと暮らし始めたことを、後悔なんてしたことはないんだよ。 だってぼくは、こんなにも、きみのことが… 「好きだよ…」 小さく呟いて、もたれかかってくる彼の頭に、そっと頬を寄せる。と、 『その兄ちゃんは、あんたの恋人なのかい?』 今まで無口だった運転手が、突然口を開いた。バックミラー越しに、こちらを伺っている。 『…ええ、大切なひとです』 『そうなんだろうなあ。その兄ちゃん、幸せそうな顔して寝てるもんな。かわいいもんだ、大事にしてやりなよ』 そして、若いもんはいいねえ、と笑う。 幸せそうな顔をして… ただ、それだけで、ぼくの中は、穏やかな幸福感に充たされてゆく。 きみだけが、いつも、ぼくに与えてくれる。 冷たく乾いていた、ぼくの中に。 きみだけが。 『できるだけ、ゆっくり走ってもらえますか?』 『あん?』 ぼくの言葉に、運転手がいぶかしげな声を上げた。 『フライトの時間まで、まだ余裕があるので、もう少しだけ、彼を眠らせておいてあげたいんです』 一瞬、バックミラーに映る運転手の目がきょとんと見開かれたけれど、すぐに全てを理解したのか、次の瞬間には、それは笑みの形に眇められていた。そしてさらに、ぼくに向かって「承知したぜ」とでも言いたげに、右手の親指を上げてくれる。 そのわかりやすい行動に、思わずぼくも、笑みが零れていた。 窓の外を見ると、明け始めたばかりの青い世界の中に浮かび上がる古い石造りの街並みが、ゆったりとした速度で後方に流れてゆく。 じき、闇は払われ、光が訪れるだろう。 街にはもうすぐ朝が来るというのに、肩にもたれかかる温もりと、心地よい重みに誘われるように、ぼくもまた、彼と共に眠りの世界へと落ちてゆく。 しっかりと、指を絡ませ合って。 互いの存在を、確かに、感じ合いながら。 ねえ、はじめ。 眠れなかったのは、ぼくも同じなんですよ。 どんなに疲れていても、きみという温もりが傍になければ、駄目だった。 まるで、半身を失ったように。 だから。 眠れない夜は、離れないで。 どこにも行かないで、ずっと。 傍にいて。 07/05/09 了 BACK ________________ |