眠れぬ夜は、あなたの傍に U あの夜から、三日が過ぎた。 高遠がおれの傍からいなくなって、4日経ったことになる。 でも、たったの4日だ。 なのに、なんでだろう。 おれの中では、もう何週間も会っていない気がしていた。 広い寝室の中に一人きりでいると、時計の秒針が刻む規則正しい金属音と、おれの胸の鼓動だけが妙に耳に響いて、不安で居たたまれなくなってくるんだ。 何日経っても、この静けさに慣れることが出来ない。 傍に、たかとおの温もりが無いだけで。たかとおの、息遣いが聞こえないだけで。こんなにもこの部屋は、静かで心細い。 もしもこのまま、高遠が帰ってこなかったら…? なんて、推理以外には大して役にも立たないおれの頭は、バカなことを考え始めてしまうし。 あ〜、も〜、もう少し、前向きなことを考えろって、おれ! 高遠が傍にいないだけで、なんでこんなに駄目になっちゃうんだ?! こんなのは、絶対に、おれじゃないっ! 日本にいたときには、もっと会えないときだってあったし、声すら聞けないなんてのは、当たり前だったはずだ。それでも、こんなに寂しいと思ったことなんて、おれの記憶には無い。 そりゃあ、あの頃だって、会えなきゃ辛かったし、確かに寂しかった。 間違いなく、それは確かなことだけど。 けど、こんなにも大きな喪失感なんて、知らない。 高遠無しで、生きてゆける、気が、しないほどに。 「…たかとお…」 ベッドに転がったまま、今、高遠と唯一繋がっていられる携帯に手を伸ばす。高遠の温もりが、そこにだけはある気がして。 携帯なんて、耳元に声を伝えてくるだけの、ただのツール。そんなことは、百も承知なんだ。でも、高遠の存在を、その声を、おれに届けてくれるのは、今は、この小さな金属の塊だけ。 これだけが、高遠と繋がっていると感じさせてくれる、…マジックのタネなんだ。 手の中にすっぽりと納まる、まるで玩具みたいに軽いこの携帯で、高遠とは、もうすでに何度も連絡をとった。心配性の高遠は、一日に何度も掛けてきてくれるから。 「こんなに何度も掛けてくんな!」 って、おれが言ったら、 「傍に居られないのですから、声を聞くぐらい、かまわないでしょ?」 と、涼しい声でのたまう。 でも、本当はそうじゃないんだ。 高遠が、何度も携帯に掛けてくるのは、おれが寂しがってるのを、知ってるからなんだろう。 この間だって、おれがメールを送ってすぐに、高遠から電話が掛かってきた。 その第一声は、なんと「大丈夫ですか?」だったし。 なんで『愛してる』って、こっちが素直にメールを打っただけなのに、そういう答えが返ってくるんだよ! 普段からおれって、どういう風に見られてるわけ? でも、高遠の声はとてもやさしくて、そんな風に言い返すことなんて、おれには出来なかった。 耳元に聞こえる高遠の声は、機械越しだというのに、いつもみたいに、吐息さえ伴っている気がして。 会いたくて。 あいたくて。 仕方なくて。 おれは、高遠の言葉に、うんうんと返事をするだけで、何も言えはしなかった。 ただ、涙が零れて。 情け無いおれは、それを高遠に気づかれまいとすることだけで、精一杯だったんだ。 今すぐ、帰って来て欲しいとか。 その腕で、抱きしめて欲しいとか。 言えるわけ無いじゃん。おれ、男だし。 第一これは、おれが一番、望んだことなんだから。 高遠が、マジシャンとして生きること。 犯罪者としての高遠ではなく、高遠が、自身の手の中に持っていた、夢を叶えること。 いつの間にか、歪んでしまっていたそれを、元の形に戻して。 すべてをやり直そう。 たとえ、許されることの無い儚い夢だとしても、精一杯、最後まで追いかけてゆこう。 だから、高遠の邪魔をするようなことを、おれはしたくない。しちゃいけない。 きっと、これからこんなことは増えてくるはずだから、もっと慣れないと駄目なんだ。 ひとりで、いることにもさ。 でも、高遠は気付いていたんだろう。 携帯のこちら側で、おれが、泣いていると。 不思議なくらい、おれのことなら、何でもわかってるようなところがあるから。 でも、何も言わなかった。 もう少し、待っていてくださいね… ただ、そう言って、携帯は切れた。 うん… 待ってる。 待ってるから。 大丈夫だから。 何度も自分に言い聞かせながら、ひとりきりのベッドの上で、眠れない時間を過ごした。 そう言えば、ばあちゃんとリチャードが、なんでかおれの顔を見るたびに『大丈夫?』って聞くんだよ。 おれは出された食事はちゃんと平らげてるし、普通に話もしてる…いや、おれのフランス語って、なんだか怪しいんだけどさ。でも、今までだってそれで通してきたし。おれとしては、まったくいつもと変わらないつもりなのに、何が「大丈夫」じゃないんだろう? おフランス人の感覚は、おれにはわかんねえって。 大体、ふたりと食事をしているときは、おれ、とても楽しいんだけどな。 だって、高遠のいない部屋は、とても広すぎて寒くて。時折、耐え難い孤独に襲われるときがあってさ。でも、ばあちゃんたちと一緒にいるときは、そんなこと、全然忘れていられるんだ。だから、「大丈夫」かと聞かれても、なにが「大丈夫」じゃないのか、おれには全然、見当もつかなかった。 『これは、かなりの重症ね』 マリアばあちゃんが、「本当に困った子ね」とでも言いたげな笑みを浮かべながら、おれを見る。 いや、だから、何が重症なのかわかんないんだってば。ばあちゃん。 おれが「わからないよ」と首を傾げてみせると、ばあちゃんはリチャードと、少しの間顔を見合わせて。そしてまた、優雅な仕草でおれに視線を戻すと、穏やかな光を湛えた眼差しで、おれを見つめる。 彼女の、深く澄んだ青がおれを捉え、その瞳の中に、おれが映ってるのが見えている。なんだかそれは、深い湖に映る自分の姿を覗いているような錯覚を覚えさせて、不思議と静かな気持ちになってくるんだ。 マリアばあちゃんは、とても素敵な人だ。穏やかで、やさしくて、情熱的で。 若いときも、きっとすごく綺麗だったんだろうけど、でも、そういうのとは違った、歳を重ねて培ってきた美しさを感じさせる人なんだ。 優雅な仕草も、洗練された動きも、齢を重ねた温もりを思わせる。けれどなによりも、その純粋さを失わない瞳の輝きが、彼女の美しさを際立たせているのだろうと思う。 ああ、おれもこの人のように、歳を重ねてゆきたいな… ばあちゃんには、そう思わせる魅力がある。 そう、出来ることなら…たかとおとふたりで、長い年月を過ごしてゆきたい。 見果てぬ夢だと、わかっていても… 『あなた、ヨウイチを、とても愛しているのねえ』 ばあちゃんの言葉に、我に返った。 駄目だな、最近、やたらとぼうっとしてしまうことが多くって。 そんなおれの目の前で、ばあちゃんはやさしく微笑んでいる。 おれは、今言われたことを、もう一度ゆっくりと頭の中で反芻して、ようやくその言葉の意味を理解できた。まあ、おれの反応が遅いのは、今に始まったことじゃないんだけどさ。 『き、急に何言うんだよ、マリアさん!』 慌てて言い返しながら、顔が熱く火照ってくるのが、自分でわかってしまう。ああ、またバレバレなくらい、真っ赤になっているんだろうな。いつもながら、恥ずかしいことこの上ない。 でも、そんなおれを見ながら、ばあちゃんは微笑ましげに眼を細めた。まるで、やんちゃな孫を見つめるような、柔らかさで。 『隠さなくていいのよ?人を愛することは、とても素晴らしいこと。何も恥ずかしいことじゃないわ』 『う、うん?』 ばあちゃんが何を言いたいのかわかりかねて、おれは、また首を傾げた。なのに胸の中では、どうしてこんなに暴れるのかと不思議に思うくらい、心臓が激しく脈を刻んでいる。 『あなた、ヨウイチがいなくなってから、眠れてないんでしょう?』 一瞬、ハッと身体が強張った。 『な、なんでそんなこと…』 おれが目も合わせずに答えると、やっぱりと言う顔をして、ばあちゃんはまた、リチャードと顔を見合わせる。やれやれ、とでも言いたげにふたりで肩を竦めると、今度はリチャードが、おれに向かって口を開いた。 『はじめ、目の下に凄いくまが出来てるよ。ずっと寝て無いんだろ? いつも元気なはじめらしくないため息ばかり吐いてるし。…見ているこっちが痛々しいよ』 リチャードの言葉に、おれはもう、俯くしかなかった。確かに、そのとおりだからだ。高遠がいなくなってからというもの、不思議なくらい、満足に眠れない。 高遠が傍にいないだけで、こんなになってしまう自分が、ばあちゃんたちに心配をかけている自分が、どうしようもなく不甲斐なくて、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。 『…そう…かな…?ごめん、おれ、自分では普通にしてるつもりだったんだけど…。でも、マリアさんたちに心配掛けちゃってたんだね…』 情けない声を出すおれに、ばあちゃんは言ったんだ。 『そうじゃないのよ、はじめ。勘違いしないで? あなたのことを、心配なのはもちろんなんだけど、あなたが謝ることじゃないのよ? ただ…』 『ただ…なに?』 途中で切れたばあちゃんの言葉を、オウムみたいに繰り返しながら、おれが顔を上げると、ばあちゃんは、それこそ、その名の通り、聖母様のように自愛に満ちた笑みを浮かべた。 『ねえ、はじめ。もっと自分の気持ちに、素直になってもいいんじゃないかしら?』 『えっ?』 『ヨウイチはきっと、怒ったり困ったりしないわ。あなたをとても、愛しているから』 そうして、ばあちゃんが何を言いたいのかわからないまま、今、おれは部屋の中にいる。 なにを素直になれと、ばあちゃんは言うのだろう? 別におれは、意地を張ってるわけじゃないと、思うんだけど。 繰り返し、おれの頭の中では、疑問符が飛び交っている。まるで、謎かけだ。 さらに、ばあちゃんはこうも言う。 高遠は、おれのことを、とても愛していると。 うん、知ってる。おれも、そう信じてる。 …でも、高遠は、決して「愛してる」とは、言ってくれない。そして、それはきっとこの先も、変わることはないだろう。 高遠には、わからないんだ。自分の中の想いが、何なのか。 愛することも、愛されることも、あの人は、よくわかっていないところがある。もしかしたら、それは人として、すごい欠陥なのかもしれないと思うけれど、でも、それでもおれは、高遠のことが好きだ。 だからおれは、言葉なんかを求めているわけじゃないと思うし、そんなもので、人の愛情が量れるとも思っていない。 …なのに、少しだけ、そのことを淋しいと感じるときがあるのも、確かなんだ。 どうして、人を好きになるのは、こんなにも、苦しいんだろう… 想い合っていても、どんなに、肌を重ねあっていても、胸の中の不安は消えない。 おれたちの関係は不安定で、いつか、失ってしまうんじゃないかと、怖くて、仕方ない。 だから、言葉みたいに薄っぺらなものでも、聞いて安心できるのなら、と、思ってしまう時があるのかもしれない。 ひとりでは寂しいから、不安だから、余計にそんなことを考えてしまうんだ。 「…たかとお…おれは、あんたが…好きだよ…」 あんたのためになら、すべてを犠牲にしても構わないとさえ、想ってしまうくらい。 だから、一度でいい。 たった、一度でいい。 今だけでいいから、愛していると、言って欲しい… おれだけしかいない青い部屋で、ひとりベッドに横たわりながら、まだ掛かっては来ない、手のひらの中の携帯を見つめる。 静か過ぎる、寂しい部屋。 やけに、周りがぼやけて見えるのは、またおれが、泣いているせいなんだろう。 ああ、こうしていると、本当に海の中にいるみたいだ。 濡れて、波打つ蒼い世界。 青と白だけで統一された空間は、冷たく閉ざされた孤独を、ことさらに感じさせる。 高遠とふたりでいるときには、そんなこと、思いもしなかったのに。 そう考えて、ふと気がついた。 おれがここに来るまで、高遠はこの部屋でひとり、何を思って暮らしていたんだろうか? おれが来るという確証も無く、ずっと、ひとりで。 なんだかこの部屋は、高遠の心の中を映している気がして、胸の奥が痛くなってくる。 蒼く、冷たく、孤独な高遠の世界。 …おれは、少しでも、あんたの心を温めることができているのかな? それすら、おれにはわからない。 おれの願いを叶える為に、あんたはもう一度、自分の夢を追いかけてくれている。でも、あんたの本当の願いは、一体、何処にあるんだろう? 寝不足で、回らない頭で考えるけど、やっぱり、おれにはよくわからない。 なら、ばあちゃんの言うとおり、一度、素直に言ってみようか。 この携帯が鳴ったら。 「愛している」と、言って欲しいと。 高遠は、一体どんな反応をするだろう? 困るかな? それとも、簡単に願いを叶えてくれるかな? たとえば、ずっと傍にいて欲しいと。ずっと抱きしめていて欲しいと。 そんなわがままを言ったら、どうするだろう? すぐに、飛んできてくれるかな? たかとお、早く、この携帯に掛けてきてくれよ。いつもみたいに。 言いたいことが、いっぱいあるんだ。 早く、あんたの声を聞かせてほしい。 おれの気持ちを、もっとあんたに、知って欲しい。 そうじゃないと、この蒼い部屋の中で、硬い殻に閉じこもる貝になってしまいそうなんだ。 あんたがいないと、すごく寂しいんだよ …たかとお… なのに… 真夜中を過ぎても、高遠からのコールはなかった。 メールも、来ない。 いつもなら、とっくに掛かってきているはずの時間なのに、だ。 何かあったんだろうか? 考えたくも無いのに、マジックショーの最中の事故なんかを思い浮かべてしまう。 完全主義の高遠のことだから、万全の体制で準備しているのは間違いないと思うけど、でも、いつどんなアクシデントが起こるかなんて、誰にもわからない。 大掛かりなマジックになればなるほど、危険性もリスクも、グッと高くなるのは当たり前のことだ。 もしも、高遠の身に何かあったりしたら? もしも、高遠が死んでしまったりしたら? 不意に、魔術列車の時の、左近寺の死に様を思い出してしまって、吐き気がしてきた。 目の前に転がった、黒く、焼け爛れた死体。 いくらハンカチで口と鼻を押さえても臭ってきた、人の肉の焼ける、独特のいやな匂い。 あまりにも、リアルに蘇る死の映像に、寒気すら覚える。 絶対に違うと、そんな不安を振り払おうとするのに、いくら否定しても、次から次へと浮かんでくる死体のイメージが、頭から離れてくれない。 こんな時、いくつもの人の死に触れてきた、自分の運命を呪いたくなる。 あまりにも、人の命は儚い。それを、痛いほど、おれは知っているから。 もしも、もしもそれが、高遠の身に起こったりしたら… そんなこと、あり得ない! 高遠に限って! あの男は、「地獄の傀儡師」なんだから! どんなに追い詰められたって、絶対に、生きて切り抜けてきた男なんだから… …でも、じゃあどうして、この携帯は鳴らないのだろう? もしかして、おれのことを、忘れてしまったのかな? 突然に降ってくる恋も、世の中には、確かにあるもんな。 おれのことを、忘れて。おれとのことを、無かったことにして。 そんなのも、あるかもしれない…よな… たかとお… なんとか言ってくれよ。…なあ? おれは、どうすればいいんだろう? あんたを信じていたいのに、不安が、おれを押し潰そうとするんだよ… 鳴らない携帯を抱きしめて、メールを送る勇気もないまま、おれはベッドの上で、ただ蹲っていることしか、できなかったんだ。 06/03/09 BACK⇔NEXT ____________________ もう、すいません(汗)。最近、あとがきで謝ってばっかな気がしますが、 どうにも、まともに書けてない気がするんで、やっぱりごめんなさいです。 長く、間を空けすぎたのも、原因かとは思います。 『T』とは書きようも変わってしまっていますから。ううう(泣)。 はじめちゃん視点はここまでで、次は、高遠くん視点に切り替わる予定です。 もう、最初にちゃんと話を組み立てておかなかったもんで、視点が切り替わ ってしまうというはめになってしまったんです〜(滝汗)。 こんなですが、本当に、最後まで読んでくださった方に、感謝v 06/03/09UP −新月− +もどる+ |