1ペンス硬貨の思い出
その日高遠は、窓辺に一輪の白薔薇を挿した細長いグラスを飾り、その横で普段なら絶対に吸わないメンソール系の日本製の煙草を、薄いくちびるに咥えた。
おれが一度も見たことのない、古びた鈍い色で輝く銀色のジッポを、無造作に黒いボトムのポケットから取り出すと、慣れた手つきで蓋を上げ、シリンダーを回す。
ポッと、温かいオレンジ色の炎が上がると、静かにそれを顔に近づけ、もう片方の手で炎を守るような仕草をしながら、咥えた煙草に火を着ける。
カチンと硬質な音を立てて彼の右手の中でジッポの蓋が閉じられると、彼の左手は長い指の間に煙草を挟みながら彼の顔から離れ、次の瞬間、形の良いくちびるが少しだけすぼめられて、開け放した窓の外に向かって白い煙が吐き出された。
窓辺にもたれ掛かりながら行われた一連の動作は、とても優雅で洗練されていて。
おれは言葉もなく、ただ、眺めていた。美しい風景を、眺めるみたいに。
半分にまで水を充たされたグラスは、陽の光を透かしながら弾きながら、キラキラと眩く輝き、活けられた白い薔薇の花を美しく彩っていて、その横に佇む黒ずくめの細身のシルエットとはまるで対照的でありながら、不思議な調和を醸し出している。
窓辺に立つ彼の姿はおれからは逆光になっていて、その表情は暗くてわからなかったけれど、漆黒の髪や細い身体を縁取るように照らす光を、その一連の行動を、おれはなぜだか厳かな気持ちで眺めていたんだ。
だけど、ほんの一瞬、彼の顔がライターの炎に照らされたとき、伏せ目がちになったその表情が、酷く寂しげに見えたような気がして。
高遠が再びくちびるに戻すことなく、グラスの横にあらかじめ用意されていた小さな陶器製の灰皿に、煙草を消さずにそっと置いたとき、おれは思い切って声を掛けた。
「それ、何のまじないなの?」
おれの声に、高遠は横を向いたまま、口の端を上げて微笑んだ。彼のラインを縁取るように照らす光に、紅いくちびるが印象的に浮かび上がっている。
「1ペンス硬貨を…思い出したものですから…」
「1ペンス硬貨?」
「ええ、…そうです」
言いながら、高遠は、すっと視線を晴れた空に向けて。
「知ってました? イギリスでは、生え変わりのために子供の歯が抜けると、枕の下にそれを入れておくんですよ?」
「へえ、なんで?」
おれが合いの手を入れるように言葉を挟むと、高遠はいたずらっぽい笑みを零した。
無邪気で残酷な、子供のように。
「夜の間に、ねずみがその歯を取りにやってきて、代わりに1ペンス硬貨を置いていってくれるんです」
「え〜、いいなあ。おれの歯なんか、屋根の上に放り投げて終わりだぜ。で、貰えたの? 1ペンス硬貨?」
「ええ、生え変わった歯の数だけ」
微笑みながら、ようやくおれの方に顔を向けた高遠の表情は、けれど、また影になって見えにくくなる。
「でも、本当は、ねずみが硬貨をくれるわけはありませんよね。みんな、親が子供を喜ばせるために、子供が眠っている間に、抜けた歯とコインを取り替えていたんですよね」
その声は、いつもよりも少しだけ、低い気がした。
それは、忘れていた記憶なのだと、高遠は言った。
幼い高遠が、初めて歯が抜けた次の日の朝、枕の下に置かれているコインを見つけて、嬉しくて、朝早くから父親の寝室までコインを見せに行ったのだと。
普段から厳格な高遠の父親は、朝から騒ぐんじゃないといつもなら叱ってくるところなのに、この日だけは「そうか、よかったな」と、高遠の頭を撫でてくれたのだという。
またそれが嬉しくて、そのコインをずっと高遠は使わずに、大切にしまっていたらしい。
「いい話じゃん」
おれが言うと。
「そうですね、でも、ずっと忘れていたんですよ。ぼくの父は本当にしつけに厳しくて、殆ど笑った顔を見た記憶がないくらいですから。だから父が家にいると、ぼくはいつも息が詰まるような気さえしていました」
高遠は静かな口調で、そう答えた。
たぶん、微笑んだままのその顔は、何の感情も読み取らせてはくれない。ましてや、こちらからは影になっていて見えにくい表情を、読み取る術などあるわけもない。
なのに、そこに佇む高遠の姿は、今にも消えてしまいそうなほどに、儚く、孤独に思えて。
どう答えていいのか分からなくて何も言えずにいると、高遠はまた横を向いて、細く紫煙を立ち昇らせている、吸い残しとも言えないほどに長いままの日本製の煙草に視線を落とした。
「ぼくの父はこのシガレットが好きだったらしくて、よく吸っていたんですよね」
「…そうなんだ」
おれの言葉に、なぜか何かを納得するように、高遠は小さくこくりと頷いて。
「今日は、父の命日なんですよ」
まるで他人事みたいに、感情を見せない声で、言った。
06/11/15
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少し、いつもよりも短いのですが、書きあがらなかったので、とりあえず前編後編にしてアップすることに。
思ったよりも難しくて、形になり難いんですよ〜。イメージが。
この状態では、全く話が始まってませんしね。うう〜ん(悩)。
なんとか、頑張って書き上げます。
06/11/17UP
−新月−
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