1ペンス硬貨の思い出U
「親父さんの?」
「もう、ずっと忘れてしまっていたんですけど…珍しく思い出したものですから」
親不孝な息子だと、あの世で怒っているかもしれませんね…
横を向いたまま、笑みを形作った口元のまま。
けれど、本当に笑っているのかどうかわからない、そんな印象。
突然、ふと思いついたとでも言うように、高遠はつぶやいた。
「愛って、一体何なんでしょうね?」
立ち昇る紫煙を眺めやりながら、けれどその眼差しは、何処かおれの知らない遠くを見つめているようで、おれは少し、悲しくなる。おれでは埋めることのできない空白が、そこには確かに、存在しているんだろう。
「たかとお…」
「ああ、すみません。きみを不安がらせるつもりはないんです。ただ…昔のことを色々思い出してしまって…」
言いながら、おれの方へと顔を向ける。また、影になった高遠の表情は、微笑んでいるのか、それともまったく別の顔をしているのか、おれにはわからなくなる。
「少しばかり、昔話をしてもかまいませんか?」
うかがう様に、少し首を傾げながら高遠は聞いた。おれが頷くと、ありがとうと言って、壁に背を預けたまま窓の外に視線を投げた。外の光に照らされたその顔は、もう微笑んではいなかった。
「ずっと、わからないんです。父にとって、ぼくという存在がなんだったのか…」
懐かしむ、という風情とはまるで程遠い、寂しげな空気を纏いながら、高遠は語り始めた。
窓辺に佇む高遠の横で、灰皿に入れられた煙草の紫煙が、風にゆらりと揺らめいている。
「ぼくの父は、ぼくがハイスクールの学生だった頃に亡くなったんですが…」
高遠はそこで一度言葉を切って、少しだけ眉を寄せた。
「…父が癌で入院しているとぼくが知ったのは、寄宿制だった学校が休みに入って、家に帰ったときでした」
「えっ?じゃあ、それまで…」
「ええ、何も知らされていなかったんです。知らせる必要はないと、父が言ったんだそうですよ、たった一人の家族のはずなのにね」
そのまま瞼を閉じて、その時の事を思い出しているのだろうか、自嘲めいた笑みが、薄い口元に浮かぶのが見えた。
「医者の話では、父が病院へ来た時には、もう手術などできる状態ではなかったんだそうです。一縷の望みをかけて、放射線治療も抗がん剤治療も行ったらしいんですが、もう限界だと言われました。その治療の影響で、一時は体中の毛が抜け落ちたそうなんですけどね、ぼくが行ったときにはすでに、一通り生え揃っていましたよ。それだけの時間、ぼくには何も知らされないでいたんです」
クッと口元を歪めて、高遠は続ける。
「一通り医者の話を聞いて、覚悟を決めてから父の病室に入ったんですが、それでも、やっぱり驚きましたね。元々、そんなに体格の良い方とは言えませんでしたが、目の前の父は、骨の形がわかるほどに痩せて弱りきっていたんです。流石にそんな父の姿を目の当たりにして、泣きそうになりましたよ。まだ、学生でしたしね。でも、それを堪えて声を掛けたんです。『父さん、今、戻りました』と。すると、父は閉じていた瞼を上げましてね、そして言ったんですよ」
また言葉を切ると、揺らめく紫煙を上げ続けている煙草を、少しの間、見つめた。まるで、何かを問いかけるかのように。
「『何も心配しなくていい。おまえが学校へ行きながら生活してゆけるだけの金なら、充分に残してある』掠れた、力のない声でそれだけを告げると、もう何も言うことはないとでも言いたげに、また、すぐに目を閉じてしまった…」
感情の篭らない声で話す高遠を、おれは、何も言えずに見つめるしかなくて。
「その夜、父の容態が急変して、そのまま… 父がぼくに掛けた言葉は、結局、あれが最後でした。父らしいといえば、父らしいんですけどね」
そして、高遠は、小さく息を吐いた。
「ただ、彼にとって、ぼくという存在は一体なんだったんだろうと…」
風に緩やかに、高遠の黒髪が揺れている。
空虚な想いを、どこに向ければいいのかさえわからない惑いを、胸の奥に抱いたまま。
その傍らで、紫煙は風に散らされながら、それでも高遠の周りを包むように漂っている。
それはまるで、誰かの想いを伝えたがっているように、おれには思えて…
気がつくと、口を開いていた。
「…とても、愛されていたんだよ、高遠」
その言葉に、弾かれたみたいに高遠は顔を上げて、おれを見た。
雲が空を横切っているのか、突然、太陽の光は弱くなり、逆光に眩しかった窓辺が、おれの目にも、穏やかな明るさに映るようになった。
高遠は、酷く驚いた顔をして、おれを見つめていた。
「どうして?」
次の瞬間、高遠の口から零れ落ちたのは、疑問。
座っていたソファーから立ち上がると、おれは窓辺に寄った。
「わかんねえの?」
疑問に疑問で答えながら、そのスレンダーな影の横に立つと、高遠の月色の眼差しが、戸惑いを浮かべておれを見つめた。けれどその顔は、答えを求めて止まない心を映している。
なぜ? と。
「親父さんは、高遠に心配かけたくなかったんだよ。だから、連絡しなかったんだ」
「そうでしょうか? できるだけ、ぼくの顔を見たくなかったからという考え方もできるんじゃないですか?」
おれの言葉に、まるで噛み付くように反論しながら、なのに、窓辺に置かれたその手は微かに震えていて。
素直じゃないなあ、たかとお。
おれは内心、苦笑する。と同時に、その子供じみた態度に、胸が痛くなる。
親に愛されていると、確信できずに生きてきた年月は、どんなものだったのだろう?
誰だって子供の頃は、親に愛されたいと、ただそれだけを望んでいたはず。でも、望んでいたのに、愛されていると信じたいのに、信じることができないでいた心は?
母のぬくもりさえも知らず、充たされなかった想いは?
おれには、ひとつの可能性を答えることしかできない。
けれど、それがすべての解答だと信じて、おれは答えよう。
「親父さん、放射線治療まで受けてたんだろ? 生きようとしてたんだよ、あんたを一人にしたく無いから。そんで、髪の毛なんか抜けた姿を見せて、心配させたくなかったから連絡しなかったんだよ」
「…もし、そうだったとしても…そんなのは、傲慢だ。結局、父はぼくを残して死んでしまったじゃないですか。事務的な言葉しか残さないで」
高遠の目が少し眇められて、視線が逸らされる。事実は、どんなことをしても覆らないとでも言いたげに。
「おれさ、思うんだ」
おれも、窓の外に視線を投げた。
そこには、すでに冬支度を始めた公園の木々が林立しているのが、すぐ目の前に見える。
夏とは違う、乾いた木々のざわめきが、聞こえてくる。
どこか寂しい、晩秋の季節。
空の青は、とても深くて、なぜだか切ない気持ちにさせる。
高遠の親父さんは、こんな季節に我が子をひとり残して、どんな気持ちで逝ったのだろう。
「こんな異国の地でさ、たった一人で小さな子供を育てるのは、大変だったんじゃないかってさ。どんな事情があったのかはわからないけど、おれだったら、絶対に途中で音を上げちゃうぜ?」
おれは高遠を見ないで、真っ直ぐに前を向いたまま、言葉を紡いだ。
「義務感とか、そんなんじゃ絶対に無理だよ」
「…でも、それは、母との約束か何かがあったのかも知れない」
高遠も、おれの方を見てはいない。互いに窓の外を眺めながら、言葉をやり取りしている。
「ん、そりゃそうかも知れないけど、でも、おれは思うんだ。高遠を引き取ったのは、近宮さんのことも、とても好きだったからなんじゃないかって。だってさ、一流のマジシャンになりたいって言う近宮さんにとって、子供を抱えながらってのは、リスクが大きいと考えたんじゃないかな」
「それは…」
「親父さんは、近宮さんに夢を諦めて欲しくなかった。だから、たった一人で高遠を引き取って育てる決心をした。そこには、とても大きな愛があったんだと思う。そうじゃなきゃ、できないよ、たかとお」
「…でも、でも、父は…」
「うん、厳しかったのかもしんない。でもそれは、一流マジシャン近宮玲子の息子として、恥ずかしくない人間にしようとしていたからなのかもしんない。確かに、こればっかりは推測でしかないけどさ。きっと、不器用な人だったんだよ。愛情をどうやって伝えればいいのか、わからなかったんだ。そうじゃなければ、1ペンス硬貨を枕の下に入れたりなんかしない。そうだろ?」
「じゃあ、どうして? ぼくがマジックをすることを嫌がったんですか?!」
突然、高遠が感情的に声を荒げた。これが、もしかしたら、高遠が一番聞きたかったことだったのだろうか?
そんなことを考えながら、おれは慎重に言葉を選んだ。
「寂しかったんじゃ…ないかな? 近宮さんみたいに、高遠までマジックに取られるのは嫌だった。人間なんだもん、それは仕方のないことだとおれは思うけど、でもたぶん、いつか高遠もマジシャンを志すだろうってわかってたんだよ。だから最後に、余計なことは言わなかった。何も心配しないで、好きな道を進んでゆけばいいって。最後だってきっと、高遠が帰ってくるのを、ずっと待っていたんだよ。微かな命の火を、灯し続けながら…」
一瞬の沈黙。そうして、ようやく高遠が、おれの方に顔を向ける気配がした。
「…ぼくは…愛されて…いたんですか…?」
今まで、聞いたこともないような、頼りなげな声で。
「そうだよ。親父さんも、そして近宮さんも、高遠のことを、とても愛していたんだ」
答えながら、おれも、自分より少し上にある高遠の顔を見上げた。
太陽を隠していた雲が流れて、眩い光がおれたちの上に降り注ぐ。夏の、激しく照りつけるそれとは違う、穏やかに温かく、優しい光。
そんな光の中、高遠は眉を寄せて、今にも泣きそうな顔をしているくせに、どこか嬉しそうな、そんな複雑な表情を浮かべて、おれを見ていた。
だから、おれは、言ってやった。
「幸せな息子じゃないか」
おれの言葉が、終わるか終わらないかわからないうちに、おれの身体は、高遠の腕の中に閉じ込められていて。
「…たかとお…?」
突然、おれを抱きしめて何も言わない男に、おれは戸惑うしかなかったけれど、でも、おれがそっとその背中に腕を回すと、小さな声が返ってきた。
「…ありがとう…きみに出会えて、よかった…」
耳元で、そっと囁いて。そして、おれの身体を、強く抱きしめる。
…本当は、ずっと、言って欲しかったんだよね。
自分ではわからないから、誰かに答えて欲しかった。
「愛されていた」と。
充たされない想いを抱えたまま生きるのは、どこか空しい。どこか寂しい。
そんな孤独を、高遠はずっと背負って来たんだろう。
でも、たかとお。
あんたはやっぱり、愛されていたんだよ。
小さな息子の歯と交換に、小さな1ペンス硬貨を枕の下に入れて。大きな手のひらで包むように、眠っている息子の頭を撫でる父親の姿が、おれの中に思い浮かぶ。
寂しい思いをさせているのは、知っていたのだろう。けれど、それを伝える術がわからなかった。
そんな不器用な、愛。
そんな不器用さを、高遠も持っているんだよね。
素直に甘えられなかった、素直に悲しむこともできなかった、不器用さ。
親父さんが好きだった煙草を用意して、そしてその横に、慎ましく添えられた一輪の花。
白い薔薇の花言葉を、実は以前、聞いたことがあるんだ。
『あなたの死を悼む』
そんな意味が、あるんだって。
「たかとおも、親父さんのこと、ホントはちゃんと愛していたんだろ?」
おれの言葉に、高遠は何も答えずに、ぎゅっとおれの身体を抱きしめたまま。
高遠の肩越しに、煙草の煙が、空に昇って行くのが見えた。
薄い煙は、すぐに空気中に溶けてわからなくなってしまうけれど、ずっと高く、この秋空の彼方まで届いてゆくように思えた。
ああ、そうだ。
わだかまっていた想いが、綺麗に浄化されて、素直な心だけ、届けばいい。
遥か遠くへ、いってしまった人に。
愛していたと、あなたがいなくなって、悲しかったと…
小さな1ペンス硬貨は語る。
ささやかな思い出を。
その中に込められた、不器用な、愛の記憶を。
今はふたり、ただ、穏やかな秋の日差しの中で。
06/11/29 了
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完結です。
少しでも、何かを感じていただけたなら嬉しいです。
06/11/30UP
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