Dream Trap T
「ふああああああぁ!」
朝っぱらから、大きな欠伸を何度も繰り返すはじめに、半分呆れたように美雪が言う。
「もう、さっきからなんなの? また、遅くまでゲームでもしてたんでしょう!」
朝の平和な学生たちの登校風景の中に、美雪となぜか中学生の佐木と、そしてだらしなく制服を着こなしたはじめが並んで混ざっていた。
まだ夏と呼んでも差し支えないほどの眩い日差しが、学生たちを照りつけている。
空には雲一つ無い、さわやかな朝だ。
「…ゲームじゃねえよ…」
不機嫌に答えながら視線を逸らすはじめに、横でハンディカムを回していた佐木が不思議そうに頭を傾げる。
「ええ? ゲームじゃないんですか? 金田一先輩が勉強で夜更かしするわけも無いし…何かあったんすか?」
「おまえがおれのこと、どういう風に見てるか、よ〜っくわかったよ!」
佐木に向かって噛み付くはじめにレンズを向けて、
「今のショットいただきv」
何処までも限りなく前向きな佐木に、はじめは脱力するしかなかった。
「そうよ、佐木くんの言う通りよ。はじめちゃん、何かあったの?」
美雪、おまえまでそんな風にしか、おれを見てないんだな…
はじめは内心、がっくりとうな垂れていたが、そんな風にしか見られてない自分が悪いんじゃないかという考えには至らないらしい。
大げさに溜息を吐くと、一言。
「よく、わからねえんだけど…夢ばっかり見て、寝た気がしないんだよ…」
疲れたような口調で吐き出された言葉に、美雪と佐木が顔を見合わせる。
「何事かと思ったら…ただの夢ぇ?」
完全に呆れた口調で、美雪が言う。
「おまっ! ただの夢って、簡単に言うけどなっ!」
はじめは反論するべく凄い勢いで美雪に顔を向けると、拳を握って力説しようとして…突然、口を噤んでしまった。
「どうしたの? はじめちゃん?」
急にそっぽを向いてしまった幼馴染みに、美雪は訝しげに声を掛けるが、「なんでも無い」と、はじめはそれだけしか答えず、後は黙り込んでしまった。ずっと、ハンディカムを回し続けていた佐木が、何かに気付いたようににやりと口元を歪める。
「せ〜んぱ〜い、もしかして、美雪先輩に言えない様な夢なんじゃないですか〜?」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべながら佐木が振った言葉に、はじめの顔が一瞬にして真っ赤に染まった。
「ちょっ、何言ってんだよ! そんなことあるわけ無いだろ!」
口ではそう言っているものの、そんな赤い顔では全く説得力は無い。さすがのIQ180も、こういう場面では何の役にも立たないようだ。
「やっぱり〜v」
「えっ? 私に言えない様な夢って…」
「先輩も健康な男子高校生ですもんねv」
嬉しそうに言う佐木の言葉にピンときてしまったのか、はじめと同じように赤くなってしまった美雪が、居心地悪そうな表情を浮かべる。
「…いや、美雪、誤解だって…」
困ったように取り繕おうとしているはじめに、みゆきは呟くように訪ねていた。
「…その夢に…私は…出てた?」
「えっ? やっ、出てない! ぜんっぜん、出てないから!」
はじめがそう答えると同時に、美雪の鞄が目の前に飛んできた。
ばん!!!!
大きな音を立てて、はじめの顔面に炸裂する鞄パンチ。
「はじめちゃんのばか!」
そう言い残して、みゆきは走って行ってしまった。
「…おれ、なんか悪いこと…言ったっけ?」
潰れそうに痛む鼻を押さえながら、はじめはふがふがと自分に問いかけるように言う。
「…先輩って…勉強だけじゃなくって、こういう方面にも、頭回らないんですねぇ…」
その様子を見ながら、佐木が盛大に溜息を吐いたのは、当然のことだったろう。
「ちくしょ〜、あの夢のせいで酷い目にあっちまったぜ…」
鼻の頭に絆創膏を貼り付けて、はじめは机の上に頭を乗せていた。ちなみに、今は授業中である。やる気など、もとより無い。このところ、熟睡したような気がしないのだ。授業など、その補充に費やされる時間に過ぎなかった。
それにしても…と、はじめは想う。
何故、あんな夢ばかり見てしまうのか…
昨夜見た夢なんて、あり得ないだろう〜? と、自分で突っ込みまくりたいくらいなのだ。
考えるだけで、顔が赤くなってしまう。
ちくしょう! あいつめ! おれにあんなことや、こんなことや、あ…あまつさえ、あ〜んなことまでしやがって!
頭の中で、色々と毒づいては見るものの、どうしようもないのはわかっている。
所詮、夢、なのだ。
はあ〜〜〜〜と、ただ、重い溜息が、はじめの口から零れた。
昨夜、見た夢の中で、はじめは看護士だった。
ちなみに看護士は看護士でも、彼は、ピンク色のナース服に白タイツの可愛いナースちゃんなのであった。
でも、身体はどうやら男のままなのである。夢というのは、非常に不条理極まる事柄も、夢、というだけでその世界の現実になるから不思議だ。
夢の中で、はじめはこの日、どうやら夜勤であったらしく、救急で担ぎ込まれてきた患者の対応に追われていた。
事故で怪我をおった若者と、急な発熱で痙攣を起こした赤ん坊が、ほぼ、時間を置かずに運ばれてきたのだ。
救急指定になっているとはいえ、小さな病院である。その日に限って当直の医師は年若い研修医一人しかおらず、夜勤のため数少ないスタッフは、皆、不安を覚えていた。
すらりとした細身のその研修医は、ラフな感じの黒のタートルシャツを着ているにも拘らず、異様にかっこよく白衣を着こなしている。その姿は、モデルのようには見えても、とても医師には見えない。周りの不安も無理からぬことだった。
しかし、この研修医は患者が到着するなり、驚くほどの的確さで指示を出し、ベテランの医師でさえも舌を巻くであろうほどの正確さで治療を行ってゆく。二人の患者を同時に抱えながらも、その判断は冷静で手順にはまったくの無駄が無い。これがまだ研修医なのかと思わせるほどの彼の姿には、自分に対する絶対の自信がうかがい知れた。けれどその自身を支えているものは、きっと弛まない努力なのだろう。
結局、彼はその行動で、皆の不安などあっという間に拭い去ってしまった。
事故の若者は、レントゲン検査の結果、運の良いことに頭部や内臓に損傷は見られなかった。傷も大事な血管の損傷は見られず、骨も亀裂骨折程度で済み、簡単な縫合手術とギプスの処置を受けて入院となった。明日、また正式な医師の診断を仰ぐことになるが、今は安定している。
問題は、赤ん坊のほうだったようだ。
脳波に異常は見られず、レントゲン検査でも特に問題は無く、恐らくウイルス性の感染症による発熱が原因の熱性痙攣であろうというのが彼の見立てだったのだが、薬液を入れた点滴をしながら、年若い研修医は長い時間、赤ん坊の側について様子を見守っていた。子供は容態が急変しやすく、ほんの少しの見落としが命取りになることも、残念だが確かにあるのだ。彼はそれを危惧したのだろう。
研修医の置かれている立場と言うのは、非常に過酷だ。日常の勤務に加え、夜勤などもさかんにこなさなければならない。若いからどうにかなる、というレベルではとても無いハードさなのだ。そんな中で、疲れてやる気を無くしてしまう者も大勢いるが、この若い医師はその責任感と情熱を、決して失ってはいなかった。
「高遠先生、少しお休みになって下さい。私が変わります」
はじめがそう声を掛けたのは、当然のことだっただろう。
高遠と呼ばれた医師は、赤ん坊に向けていた視線を、はじめに移した。
一瞬、息が止まりそうな気がした。
真っ直ぐにはじめに向けられた珍しい金茶色の瞳は、はじめの大きな黒目がちの瞳と眼差しが交差した瞬間、柔らかな笑みを浮かべたのだ。少し下がった目じりが、優しく溶ける。
「ああ、ありがとう。でも、もう大丈夫だと思いますよ。薬が効いてきた様ですしね」
言いながら、高遠は赤ん坊の胸に聴診器を当てている。それが終わるとさらに赤ん坊の小さな胸に手のひらを置いて、とんとんともう片方の指先で上から軽くたたいて触診をした。
そうしてようやく、ほっとしたような表情を見せたのだった。
はじめの眼から見ても、赤ん坊の容態は比較的落ち着いているように見えた。来た時は激しく痙攣を起こし、チアノーゼ状態だったその小さな身体も、酸素吸入器を着けているとはいえ、今は規則正しく、安らかな寝息を立てている。
「もし、何かあったら、そこのボタンで呼んで下さい。すぐに来ますから」
高遠は赤ん坊の親に、穏やかな声を掛けた。
ありがとうございますと、若い両親は何度も深々と頭を下げている。
きっと初めての子供なのだろうな、と、はじめは思った。突然の子供の急病に、ここへ来た当初は落ち着き無く、酷く不安そうにしていたからだ。けれどそんな両親も、高遠研修医の献身的な処置に安堵感を覚えたのだろう。今は、とても落ち着いた顔をしている。
そんな赤ん坊の両親に見送られ、高遠とはじめは、二人でその病室を辞した。
常夜灯の点いた廊下は薄暗く、人の気配は無い。
皆眠っている深夜、非常口の緑色の灯りだけが、酷く場違いに眩い気がした。
二人分の足音が、誰もいない廊下にやけに大きく響く。
と、突然、はじめは手を掴まれた。
驚いて見上げると、金茶色の瞳がじっと見つめている。さっきとはまるで違う、怖いくらい真剣な眼差しに、はじめの胸が、どきりと音を立てた。
「…せんせ…どうし…」
全部言い終わる前に、いきなりはじめの手を引っ張って高遠は歩き出す。何かにせかされるように足早に歩く彼に、はじめは小走りに付いて行くしかない。
向かったのは、誰も居なくなった診察室だった。
ドアを開けて、少し乱暴にはじめを中に入れると、後ろ手にドアを閉める。
カチリと鍵を掛ける音が、暗い診察室に響いた。
「せ、せんせい…?」
ついさっきまで、赤ん坊の側に付き添っていた人物と同じだとは思えない行動に、はじめの頭がついていかない。じわりと、恐怖がその心を侵食し始めていた。
「た、高遠…せんせ…? なぜこんなこと…」
壁に背中をつけて、少しずつ離れようと後ずさるけれど、足が震えて思うように動かない。
「なぜ? なぜって? わからないんですか?」
暗くて、高遠の顔は見えない。けれど…冷たく笑っているような、気が、した。
少しずつ、近づいてくる影に、はじめの心拍数が異常な速さで上がり始める。
いやだ! 怖い!
咄嗟に、目の前の身体を押しのけて逃げようとしたはじめだったが、あっけなくその手は捕まり、あっという間に、高遠の腕の中に身体ごと閉じ込められてしまっていた。
「はなして…放してください!」
逃れようともがくが、細身の彼は意外なほど力強く、びくともしない。
「やだ! 放して!」
ふいに、はじめの耳元で吐息のように囁く声が聞こえた。
「…ぼくが…嫌い、ですか…?」
それは、酷く切ない響きを含んで、はじめの胸の中にぽつりと何かを落とす。
「…許してください…突然、こんなことをして…でも、ぼくはずっと…君のことが…」
ぎゅっと、きつく抱きしめられる。そのとき初めて、高遠の身体も震えていることに気がついた。
「…せんせい…」
恐怖以外の感情が、胸の奥で大きくなる。
どうしていいのか、わからなくなる。
本当は、彼にこんなことをされるのが、嫌なわけでは無いからだ。
ずっと、憧れていた。
本当は、ずっと…
「あの先生素敵よね〜v」
「ああ、高遠せんせいでしょう? いいわよね〜v 若くてハンサムで、優しくてv 言うことなしよね〜v」
「あたし、アタックしてみようかな?」
なんて、若い独身の看護婦の中では、新人の高遠研修医はぶっちぎりで人気があった。休憩時間にでもなれば、話題にのぼらない日は無いくらいに。
本当に、何人もアタックしたらしい。けれど、誰も良い返事はもらえなかったと言う噂だった。院内で一番の美人と誉れ高い看護婦までもが、振られたのだと聞いた。
「あの先生、女に興味ないんじゃない? 男の方が好きなのよ! きっと、そうよ!」
くだんの美人看護婦は、振られたことがよほどショックだったのだろう。そんな事をあちらこちらでふれまわり、そのおかげで高遠は、周りから変な目で見られていた時期もあったのだ。それでも、彼は何も言わなかったし、言い訳もしなかった。
普段と変わらない態度で、普段と変わらない笑顔で、普段と変わらない優しさで…
そのうち、誰も何も言わなくなった。
はじめは最初のうち、みんながきゃあきゃあ言っているのがわからないでいた。ちょっと見た目が良いと、すぐに熱を上げるような、そんなものに興味は無かったからだ。でも、この噂事件の後、はじめの高遠に対する見方は随分と変わっていた。
本当の意味で、強い人だと、想った。
仕事に対する熱意も、人一倍強いのだと、気付いた。
だから、恋愛などしている暇は無いのだと、理解できた。
気が付くと、高遠を眼で追っている自分がいて、戸惑う。今までそんな感情で医師を見たことは一度も無かったし、第一、人の命を預かる仕事場に、それは酷く不謹慎だ。
だから、はじめは自分の気持ちを表に出したことは無いし、誰にも話したことは無い。
ずっと、自分の中にだけ、閉じ込めておくべき感情だと思っていた。
ただ、彼の役に立ちたいと、それだけを想って、今まで以上に努力した。
ただそれだけ… 何も、望んでなどいなかった。
憧れならば、憧れのままで、いいと想っていたのだ。
それなのに、どうして?
頭の中が、混乱する。
彼のくちびるが、触れてくる。
額に、頬に、そして、くちびるに…
少しずつ深くなる口付けに、抗うことなど、もう、出来なくて…
でも、それでも…ここは神聖な職場なのだ…
「…せんせ…だめ…こんなところで…」
意思を振り絞って、掠れる声で、なんとか止めようとする。
「だれも…来ませんよ…」
耳元で熱く囁かれ、そして、首筋に落とされる、くちづけ。
「…でも…」
このまま、流されては…だめ…
「…すみません…もう、待てない…どうか…ぼくに…」
…きみを全部…ください…
今まで聞いたことも無いような、余裕の無い声で。
診察用のベッドに優しく身体を倒され、もう、逃れられないのだと、はじめは知った。
瞳がゆっくりと閉ざされ、躊躇いがちに、そっと重なってくる重みを、静かに、受け入れた…
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すいません。
脳内白衣祭りだったんです…
05/05/11UP
−新月−
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