A suspect
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「なるほど…」
すべての話を聞き終わった明智警視は、何かを考え込むような顔をして、スチール製の折りたたみ椅子に背を持たせかけながら、天井を仰いでいた。
天井には、学校の教室にあるような、愛想の無い細長い電灯が付けられている。それが、青白い蛍光色の光を放ち、グレー掛かった色素の薄い明智警視の髪を、さらに白っぽく浮き上がらせている。
いつの間にか、鉄格子をはめ込んだ窓の外は、暗くなっていた。
「まるで突拍子も無い話のように思えますが、確かにあの男なら、やりかねませんね…」
警視の口元に、苦笑めいた笑みが浮かぶ。
「夢を見せて、きみの心を自分のものにしようなんて… また、とんでもないことを考えたものです」
「おれの話を…信じてくれんのか?」
「こんな馬鹿げた嘘をついても、きみに何のメリットもありませんから、真実と判断するべきだと私は考えます」
おれの言葉に対して、きっぱりと言い切るように答えながら、おれの方に向けられた明智警視の顔には、けれどなぜか、今まで見たことも無いほどの複雑な感情が刷かれている気がして、おれは思わず、居住まいを正していた。
微塵の隙もないような、整った明智警視の顔。何度も突き合わせて、うんざりするほど見てきたと思ったのに、今見ている警視の表情は、初めてだと思った。
無理やり何かを押し殺したみたいに、作り物めいた表情。
そんな明智さんを前に、なんだかおれは妙に落着かなくて、目の前の机に視線を落とした。
おれたちの間には、安物くさい事務机が挟まれていて、その上には、おれが食べたカツ丼の空になった容器が、まだ置かれたままになっている。そして、これまた空になった湯飲みも一緒に置かれていて、そこだけが変に生活感を漂わせている。
飾りも何もない殺風景な部屋の中には、おれと明智警視のふたりきりで、壁掛け時計すら無い部屋の中では、時間の感覚さえわからない。
こうして、何人もの犯罪者たちが座ったであろう椅子に身じろぎもしないで座っていると、なんだか自分までもが本当に犯罪者であるかのような錯覚を、抱いてしまいそうな気がした。
不意に、明智警視の視線が、おれの身体に向けられたのを感じた。顔を上げると、何かを確かめるような眼差しで、明智警視がおれを見つめている。けれど、その眼差しの中に何かしらの熱を感じて、奇妙な違和感をおれは覚えていた。
まるで、既視感にも似た、その感覚。
気まずい思いと同時に、どこで同じ視線を感じたことがあったのかと、頭の中で考える。そして、答えはすぐに見つかった。
そうだ、高遠がおれを見つめるときに、同じような眼差しを向けていたんだ。
おれに口吻けながら、おれのすべてを求めるみたいに。
…でも。
なんで明智さんが、おれにそんな視線を向けるのかが、わからない。
まるで、男のおれが男の高遠に何をされたのかと、興味本位に探られているような気がして、酷く、居心地が悪い。
明智さんに限って、そんなことはないとわかってる。
わかってるけど…
「高遠が」
沈黙を破って、感情を抑えた声が俺の耳を打った。
「なに?」
弾かれたようにおれは、訊き返していた。
たぶんおれは、気まずい空気を誤魔化したかったんだ。らしくなく、どんどん暗いほうへと考えが流れてゆきそうな自分が嫌で。
でも、そんなおれの想いとは裏腹に、訊かれた内容は、さらにおれを気まずい気分にさせるに十分すぎた。
「高遠が…君が眠っている間に何をしたのか、君には、わからないんですね?」
その言わんとしている言葉の意味を、おれは、なんとなく理解してしまって。
何も言えずに、また明智さんから顔を隠すみたいにして俯くと、深く頷いた。そのまま、顔を上げられなくなる。
頬が紅くなっているのが自分でもわかるくらいに、再び顔が熱を持ち始めていた。まるで初心な女の子みたいな反応だなと、自分の事ながら情けない。
「それで、キスをしたのは確かで、しかもなぜか、抵抗もできなかった…と」
そんな、落ち込みマックスなおれに、明智さんの冷めた声は追い討ちをかけてくる。
ここは、流石は厭味警視、と褒め称えた方がいいんだろうか。
明智さんって、やっぱ『ドS』だよなあ、と内心で悪態をついておく。口に出さないんだから、心の中で何言ったってかまわねえよな?
顔を上げられないままってのが、切ないとこだけど。
返事の変わりに、もう一度ぎこちなく頷くと、大きな溜息が机の向こうから聴こえてきた。
それにしても、本当にいつもの明智さんらしくない。
この人は今日、いったい何度、溜息を吐いただろう。
けれど、もしかしてそれは、「おれに呆れているから」ということなんだろうか…
どのくらい気まずい時間が過ぎたのか、すごく長い時間に感じていたけど、本当はほんの数分のことだったんだろう。
明智さんが、また、観念したように声を上げた。
「…もう、お帰りになっても構いませんよ」
警視の座っていた椅子が、床との摩擦で耳障りな音を立てるのを聞いたおれは、ようやく顔を上げた。立ち上がった明智さんの表情は、見上げる形になったおれからは、天井に付けられた電気の逆光のせいで、よく見えなかった。蛍光色の光が、明智さんの髪をなぞるように、白くラインを浮き上がらせている。
「帰ってもいいのか?」
「ええ、きみの容疑が完全に晴れたというわけではありませんが、拘束しておく必要もありませんからね」
「そっか」
ホッとして、おれも立ち上がろうと椅子を引く。
やっぱり安物のスチール製の椅子は、床と擦れると嫌な音を立てた。
「あれ?」
立ち上がった途端、不意におれはバランスを崩してよろめいていた。
長時間座っていた椅子から急に立ち上がったせいで、立ちくらみしたのかもしれないし、それとも、緊張して張り詰めていた神経の糸が、緩んだためだったかもしれない。とにかく珍しく、貧血気味の女の子よろしく、おれはよろめいたわけだ。
「あ」
けれど、ふらついたと思った次の瞬間には、力強い腕に抱き止められていて。そしてそのまま、背中に腕をまわされて、明智警視の胸に抱き込まれていた。
上質な生地の背広の感触が頬に触れて、服を通してもわかるほど筋肉質な硬い胸板の感触が、おれの身体に伝わる。
鼻先を、オーデコロンの爽やかな匂いが、掠めた。
「大丈夫ですか?」
「え? あっ、ありがと、大丈夫だからっ!」
ほんの一瞬だったけれど、おれは身体を支えられたのではなく、抱きしめられたように感じたんだ。咄嗟に、その感覚を振り払うように、明智警視の胸に両手をついて、慌てて離れようとした。
手のひらに、スーツ越しの体温を感じながら、おれは頭が混乱するのを止められない。
絶対になんかおかしい、今日の明智さんは。
そう思いながら見上げた警視の顔は、酷く苦しそうに見えて。それがどうしてなのかわからないまま、また、おれは動けなくなる。
明智さんの透けるような光を湛えた瞳が、何かを訴えたがっているみたいに思えたんだ。
警視の腕は、まだ、おれの身体を放してはくれない。
「金田一くん」
その状態のまま、おれを腕に抱いたままで、明智警視は口を開いた。
どこかしら苦さを含んだ声だと、おれは思った。
「今夜から、きみの家の周りには、何人か警官を配備しておきます。高遠が、いつ来るかわかりませんから」
「あ… うん、わかった。あの…明智さん、もう離し」
「て」という最後の言葉は、唇の中に飲み込まれていた。
明智さんの。
何が起こっているのか、頭の中は真っ白だった。
ここ数日、あまりにも信じられない状況が続きすぎている。
おれは、本当はずっと眠っていて、これも夢の続きなのだろうか。
誰でもいいから、そうだと言って欲しかった。
見開いた目には、眼鏡をかけた美貌の男がドアップで映っていて。言葉を発しかけたまま開いていた唇の中には、柔らかなものが入り込んで、奔放におれの快楽を引き出そうと、口腔を蹂躙してくる。
絡め取られて、歯列をなぞられて。
覚えのある痺れが全身を支配して、無意識に、身体が震え出していた。
抵抗することも出来ずに、そのまま目を閉じて、与えられる感覚に、ただ耐える。
望んでいるわけでもないのに、身体が熱を帯び始めるのがわかった。
この感覚は、知っている。
何度も夢の中で、与えられたものに似ている。
でも、違う。
でも… どうしても、抗うことができなくて。
なぜ抗えないのか、何を高遠に刷り込まれているのか、自分でも何もわからないままに、開放されるのをおれはひたすら、待った。
「…本当に…抵抗しないんですね…」
ようやく開放されたとき、おれの耳元で囁いた警視の声は熱を帯びて、微かに息が上がっていた。おれも、口で呼吸を繰り返しながら、肩を上下させていた。腰にまわされた腕で、密着させられている下肢には、硬くなっているものが当たっている。
酷く混乱していて、どうすればいいのかすら、おれにはわからなかった。
「な…んで…っ?!」
そう言うだけで、精一杯だった。
ぐるぐると、訳もわからず混乱し続ける頭で、おれは必死で考える。
なんで? どうして?? と。
どうして、高遠も明智警視も、おれにこんなことをするんだろう?
おれは、女じゃないし。これじゃ、まるで嫌がらせだ。
無意識のうちに植え付けられた感覚に慣れて、抵抗すらできないおれを、弄んでいるようにしか思えない。
それとも。
遊んで…いるのか? ふたりして。
生意気な探偵気取りの子どもを、懲らしめるために。
そうなのか?
そう考えると、それが正解のような気がしてきて、涙が浮かんだ。
「…明智さん…ひどい…っ」
「金田一くんっ!」
そんなおれに、はっと我に返ったような、明智さんらしくない慌てた声が投げかけられたけれど、もうおれは、混乱したまま感情が高ぶっていて、何も聞ける状態じゃなかった。
今度は強く明智さんの胸を突き放して、まだ回されたままだった腕を無理やり振り解くと、ドアに向かって走った。
ほんの数歩の距離が随分と長く感じて、ショックのためになのか、まるで夢の中みたいに足元が覚束ない。
それでも、ようやくノブを掴んでドアを開こうとした時、背後から酷く真剣な声が聴こえた…気がする。
「私はっ、君をあの男に、渡したくないんですっ!」
振り返らずに、おれは取調室から飛び出していた。
最後に掛けられた言葉の意味なんて、この時のおれに、わかるはずも無かったんだ。
08/07/01 了
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どうにも久しぶりすぎて、以前書いていた部分とあとから書き足した分が
妙に文体が違っていて、申し訳ないですxx
しかも、まだ続きますよ感ありありで終わりという…
うん、次のお話に、またそのまま続くからなのですね〜。
連作ということで、どうぞご理解くださいませ(汗)。
08/07/01UP
−新月−
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