A suspect
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「あの〜〜〜〜、ほんとに、ごめん…スミマセン」
殊勝に頭を下げているおれに向かって、ただの一言も発せず、むっつりと黙ったまま、丁寧にアイロンのかかったハンカチで、黙々と濡れた顔を拭っている明智警視、28歳、独身。
やっぱり、その見事なまでにアイロンのかかったハンカチも、ご自分でなさってるんですよね?
思わず、敬語で突っ込んでみる。ただし、頭の中でだけ。
目の前の明智警視からは、不機嫌オーラが滲み出ているようで、歯向かったりしたら、なんかとんでもなく恐ろしそうなのだ。
…でも、としみじみ、眼鏡を外して顔を拭っている明智さんを眺めながら、おれは思う。
こうして眼鏡を外している明智警視の顔は、確かに整っていて綺麗だ。人が口から噴出した茶を拭っていようが、何してようが、厭味なくらい爽やかで。
きっと今、軽く頭を振ったら飛び散るであろう茶の雫さえ、一昔前の少女漫画の効果並みに、キラキラと輝いて見えるんだろう。ちなみに、スローモーションでな。
中身は厭味警視の癖に、なに? この爽やか好青年っぷりは?!
ったく、どこにいても目立つんだよな、明智さんってさ。
陽の光を一身に集めているみたいって言うか、頭が良く切れるとか、見た目が綺麗とかだけじゃなくて、こう、存在そのものが華やかだ。
あいつとは、まるで正反対。
そう、本当に、正反対だ…
闇の中から生まれ出たかのように、気配も存在も消して、気がつけば、ひっそりと背後に立っている。血にまみれたナイフと、紅い薔薇を手にしながら。
あいつは、そんな男。
罪の意識の欠片すらなく、笑いながら人を殺せる。
芸術だと言いながら人を殺して、完全犯罪を目指すあいつは、どう考えても、どこかおかしいんだとしか思えない。
でも、実際にあの男の傍にいると、わからなくなってしまうんだ。
犯罪が絡まなければ、あの男は、基本的にはとても紳士で優しい。凶悪な犯罪者だということを、忘れてしまいそうになるほどに。
こんなことを、高遠に対して思うようになったのは、この夏、高遠にさらわれて、一緒に数日を過ごしたからだろうか。
それは、高遠からの手紙に誘われるまま自転車で旅に出て、その途中で拉致された、ほんの数日間の記憶。
高遠とおれ以外、誰も知らないその数日間で、おれの高遠に対する見方が変わってしまったとするのなら、たぶん、それは真実だ。
海辺の、誰のものとも知れない別荘で、あの犯罪者と過ごした時間は、酷く穏やかで静かなものだった。別におれに危害を加えることもなく、ただ、共に過ごしただけの時間。
何のためにおれをさらったのか、その意図すら明らかにならないまま。
それでも、あの男の傍にいる時間は、居心地悪くはなかった。
それが作り物なのかどうかはわからないけれど、常に紳士的な態度で優しかった高遠。そして、どこかしら子どものように純粋だと、おれに感じさせた。
傍にいるうちに、だからなのか? とも、おれは思ったんだ。
虫を捕まえて殺してしまう残酷で純粋な子どものように、高遠は、無邪気に犯罪を繰り返す。嬉しそうに、念入りな計画を立てて。
まるで、寂しさを、紛らわせるみたいに。
本来、犯罪はいつも、残酷で悲しいはずのもの。
殺す方も、殺される方も。
何かしら、人間的な理由がそこにはあって、悲劇が悲劇を生むんだ。そんなことの繰り返しを、おれは何度も見てきた。たくさんの人の涙も。本当に、何度も。
けれど、あの男は違う。
まるで、ゲームのように、犯罪を楽しんでいる。
無邪気な笑顔で、優雅な仕草で、そして、何の罪の意識も抱かずに、平気で人を殺す。
人としての何かが、完全に、欠落しているかのように。
ずっと、孤独だったんじゃないかと、思った。
ずっとひとりで、愛を知らないんじゃないかと。
母親の温もりも知らず、なのに、同じマジシャンを目指そうとしたのは、本当は、何を求めてのことだったんだろう?
それを奪われて、あの男の中の何かが、決定的に歪んでしまったのだとしたら。
平気で人を傷つけて、笑いながら人を殺せる。高遠は、そんな冷酷で残酷な犯罪者。
なのに、薄く冷笑を刷いたあの男の顔を思い浮かべると、今のおれは、ひどく哀しい気持ちになってしまう。
あいつは、あの男は、憎むべき犯罪者で。おれとは、まるで正反対の位置に立っている人間だと、わかっているのに。
あの男がどんな犯罪を犯したのか、おれは、知っているのに。
高遠…
このところ、おれにバカな執着心を抱いて、信じられないことばかりするこの犯罪者を、憎むことも、嫌うこともできないおれは、やっぱり、どうかしている…
「…だいちくん? 金田一くんっ!」
明智警視に名前を呼ばれていることに気付いて、はっと我に返った。
「どうしたんですか? 急にぼんやりして。いつものきみらしくありませんね」
明智警視の整った顔が、おれに向けられている。いつの間に眼鏡をかけたのか、綺麗に拭われた透明なレンズ越しに、まるでおれのすべてを射抜くかのように見つめている。
ただ、その眼差しが、怖いくらいの怒気を孕んでいると思ったのは、おれの気のせいかな?
なんだか、いつもの明智さんと、雰囲気が違う。
「随分と、切なげな表情をしていましたね?」
続けられた警視の言葉には、何かをオブラートで包んだような含みがあって、一瞬にして、おれは全身がこわばるのがわかった。胸の鼓動が、早くなるのを感じる。おれはまた、明智さんから、目を逸らしたい衝動に駆られる。
真っ直ぐにおれの瞳を覗き込んでくる警視の眼差しには、嘘や隠し事など、『ちゃち』な言い訳なんかはすべて切り落とされてしまいそうな鋭さが、潜んでいるようで。
おれは机の上に置いていた手を、無意識に握り締めていた。まるで、今まで考えていたことが、すべて見透かされていたような気がして、なぜか緊張していた。
手のひらは、すでに汗ばんでいる。
何かを言わなくてはと思うのに、言葉が出ない。こんなんじゃ、警視に余計怪しまれるだけだって、自分でもわかってる。でも、適当に誤魔化そうとしても、きっと無理だと確信させる何かが、今の明智さんにはある。
まいったな、明智警視ってば、やっぱ頭がいいだけじゃないんだ。
まあ、そりゃあそうなんだろう。普通に考えても、色んな犯罪者を見て来ている訳だし、いくら若いつっても、おれなんかよりもずっと百戦錬磨、なんだよな。
推理の上では、対等に扱ってくれていたから、今まで考えたことも、無かった。
そんなことに今更ながら、気付いたりして…な。
けれど、結局何も言えずに、互いに見つめ合ったまま、どのくらいの時間が過ぎたのか。
膠着した空気を打開したのは、明智さんだった。
沈黙続きのにらめっこに観念したみたいに、急に目を閉じて溜息を吐くと、長い指先で、またしてもキザったらしく前髪を掻き上げた。
ああ、また警視の背後に、キラキラした何かが見えるようだよ…
そんな風に、どこかホッとした思いで、その行動を見つめていたおれに、警視は言った。
「参りましたね。君に黙秘権を行使されるとは、思ってもみませんでした」
「いや、黙秘権って…」
そんな大げさな。
「でも君は、答えられないのでしょう?」
「…うん」
おれは、気まずげに視線を落とすと、ぽつぽつと明智警視の言葉に答えを返していた。
「それは、高遠との関係を肯定する、ということに取れますが、それでいいんですか?」
「いや、それはっ!」
「では、否定すると?」
「う…」
黙秘権なんて、たいそうなものを行使するつもりじゃないけど、どう答えていいのか、おれにはわからなくなる。
本当のことを言って、果たして明智警視は、理解してくれるのか?
一番の問題は、たぶんそこなんだ。内容が内容だし、信じてもらえるとは、到底思えない。おれの中で、逡巡が続く。
「金田一くん?」
明智警視が、畳み掛けるように、おれの名を呼ぶ。
顔を上げると、真剣な眼差しにぶつかる。
その瞳には、さっきまでの鋭い刃を想わせる厳しい色は見えなかった。
その目が、すべてを受け止めるからと言ってくれているように思えて。
おれは、決心した。
真実を、話すことを。
「明智さん、おれ…」
08/05/30
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今回、「SECRET MIND」を読んでいないとわからない話になっております(汗)。
基本が、「DREAM TRAP」と「VERSUS」を読んでいないとわからないので、申し訳ない(滝汗)。
『an opening of love』のお話は、一応連作なのですよね。
注意書きを書くのを忘れてました〜xx
でも、あと一回で、このお話は完結です。
もう暫しのお付き合いをお願いいたします。
08/05/30UP
−竹流−
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