たとえば、こんな、物語(学園モノ)Ⅰ





「うわっ!」

人気の無い階段に、突然、その声は響いた。
すでに授業開始のチャイムは鳴り終わっている。人気が無いのも当然といえば、当然だろう。

はじめは授業が始まる直前に、ロッカーに教科書を入れたままにしていることに気がついて、慌てて教科書を取りに走っている途中だった。
四階のはじめの教室から一階のロッカーまでは、往復で考えても結構な時間が掛かる。授業に間に合うわけも無いのはわかっていたが、できるだけ、遅れたくはなかった。だから、階段を二段飛ばしにして駆け下りていた。
もうすぐ、教師がやって来るだろう。

はじめの通っているこの私立高校は、都内でも有名な進学校で、付属している大学以外にも、国公立やレベルの高い私立大学へと、皆、進学してゆく。
だが、その代わりと言ってはなんだが、勉強以外の面でもかなり厳しい。
教科書を忘れることはもちろん、授業に遅れるようなことでもあれば、それなりのペナルティーが科せられるのだ。
それを恐れての、急ぎようだった。
それでなくても、普段から成績の芳しくないはじめは、担任の福島に、補習授業などを強制的に受けさせられたりしている。それが自分を心配してのことだというのはわかってはいるのだが、これ以上そんなものが増やされては、正直、敵わない。
けれど、普段から運動が得意とは言えないはじめは、案の定、というか、お約束のように足を滑らせた。まだ、下までは結構な高さがあるという、位置で。
勢いのついていた身体は、ジャンプするように、前へと跳んでいた。

受身なんて、とっさにできないよなあ? とか。
このままじゃ、骨の一本や二本、覚悟した方がいいのか? とか。
頭だけは死守しねえと、やばいよな? とか。

落ちるその一瞬のうちに、よくもまあ、これだけ考えられるものだと、もしも、そのはじめの頭の中に渦巻いた考えを覗けるものがいたとしたら、そう感心するだろう。けれど、そんなことを考えている間にも、はじめの身体は、重力の法則にしたがって、確実に落下していく。
階段下は、人造大理石のタイルが張られているが、下地は立派なコンクリートだ。直撃すれば、おそらく痛いどころの話では無い。
暑さのせいではない汗が、全身から噴出す。
背後にある、階段の踊り場の窓から、午後の日差しが斜めに差し込んでいた。その光りのせいで、はじめの影が、目の前の床に落ちているのが、見えている。このままでは、自分も影と同じように、床にへばりつくことになってしまう。

-ぶつかる!

来るだろう衝撃を覚悟して、目を閉じたはじめは、けれど、次の瞬間、誰かにその身体を抱き止められていた。
力強い腕の感触が、はじめの身体に伝わる。が、抱き止めた人物は、はじめを抱き止めたはいいが、その勢いに押されて、はじめを抱いたまま思いっきり後ろ向きにこけたのだ。
たぶん、はじめよりも痛い目に遭ったのは、間違いないだろう。

「…いたた…すみませんが…早く、退いてもらえます?」
哀れ、はじめの下敷きになったその人物は、情けない声を出した。
「うわっ! ごめん!」

暫く金縛っていたはじめは、その声にようやく我に返ったらしく、わたわたと、慌てて下敷きにしていたその人物の身体から退いた。恥ずかしくて、顔なんか、見れるはずもない。
その人物から降りると、周りに散らばっているものが、眼に入った。
教師用の教科書に、授業で使うのだろう資料にプリント。そして、チョーク箱。
ああ、あの中のチョークは、きっともう使い物にならないな…などと考えながら、はじめは、自分を受け止めたのが教師だと知る。

「校内で、走るものではありませんよ。まったく、ぼくがたまたま通りかからなかったら、大怪我するところだったでしょ?」
聞き覚えのあるその声に、はじめが恐る恐る振り返ると、白衣を着た、やたら整った容姿の教師が、ぱたぱたと服に付いた汚れをはたいているのが見えた。白衣の下には、ブルーのカッターシャツにベージュのスラックス、というごく普通ないでたちだ。けれど、細くて背の高いその体躯は、きっとモデルのように、なんでも着こなしてしまうに違いない。
この学校きっての、美形教師の誉れ高い生物教師、高遠。
恐れを含んだ眼差しで、はじめはその姿を見つめた。
女生徒の人気、ぶっちぎりナンバーワン教師。ちなみに、はじめのクラスの副担だということも付け加えておこう。

-うわ~、高遠先生じゃん! もし、これで先生が怪我でもしていたら、おれ、クラスの女子に…殺されるな…

本気で、身の危険を感じながら、はじめはおずおずと高遠に声を掛けた。
「た…高遠先生… 大丈夫? 怪我、しなかった?」
声を掛けた瞬間、高遠が驚きを露にしたような表情で、はじめを見た。
…ような気がした。

「おや? 誰かと思ったら金田一君ですか。逆光で、誰だかわかりませんでしたよ」
言いながら高遠は、今のアクシデントで乱れた長い前髪を掻き揚げる。
瞬間、綺麗な白い額が、はじめの目の前に、露になった。
なんでもない動作なのに、同じ男なのに、高遠がすると、すごくセクシーに感じて。
はじめは、なんだかドキドキしながら、思わず視線を逸らしてしまっていた。
「す、すみません。今度から、気を付けます」
周りに散らばっていた高遠の道具を、慌ててかき集めながら、はじめは、当たり障りの無い返事を返す。余計なことを言うと、ガラにも無く、顔が赤くなりそうで…
なのに。
「きみらしくない、優等生的な返事ですね」
からかう様な、いつもの真面目な高遠らしくない答えに、思わずはじめは、反応してしまっていた。
「先生! おれのこと、一体どういう風に見て…」
咄嗟に、高遠に顔を向けて反論しようとしたはじめは、そこで、絶句することになった。
振り返ると、綺麗な顔が、すぐ目の前にあって。
そして、はじめのくちびるに、湿った柔らかい感触が、一瞬だけ、触れた。

-…ああ、高遠先生って、睫も、すげえ長いんだ…

驚きに、見開いた眼(まなこ)のまま、考えたことが、これだった。
人間、思いもしないことに直面すると、思考が逃げに走ってしまうものなのか…
けれど、次の高遠の言葉に、はじめも我に返ることになった。

「少々痛い思いはしましたけど、これで、チャラにしてあげます」
生物教師高遠は、呆然と自分を見上げているはじめの手の中の自分の荷物を取り上げると、悠然と笑った。
いつも知っている、高遠の姿は、そこには無かった。
教師、ではない、ひとりの男が、はじめの目の前にいた。
「教科書を取りに来たんでしょ? 早くしなさい。もう、チャイムは鳴り終わってますよ」
一瞬の後には、再び教師の仮面を被った高遠が、はじめに注意している。
そして、白衣の裾は、はじめの目の前で翻る。
なにも、無かったかのように。
階段を上って行く高遠の後姿を見送りながら、回らない頭で考えていた。

-次の授業、高遠先生なんだけど…おれ、どんな顔して、出れば、いいわけ?

突然、羞恥が込み上げてきて、はじめは、生まれてはじめて他人に触れられたくちびるを、押さえた。指の感触とは、まるで違う、柔らかく触れてきた、それ。
恥ずかしくて、全身の血が逆流してしまったのでは、と思うくらいの熱を、感じていた。
心臓が、信じられないくらいの速さで、普段とは違う、激しいリズムを刻んでいる。

赤くなって俯いているはじめを、階段の途中で足を止めて、真剣な眼差しで見つめている高遠がいることに、そのときのはじめは、全く気が付いていなかった。



初書き  05/07/05
改定   05/09/03  

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日記連載していた『学園モノ』、加筆修正いたしました。
ついでに、そのときの日記絵も、一緒にアップv
この先も、結構、修正が入るだろうなあ。
書きながら、どんどん話が変わって行きましたからね。
夏の初め頃から書き出して、まだ完結して無いし…
とりあえず、一話目からv 

-竹流-
05/09/03UP
再UP 14/08/29

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