たとえば、こんな、物語(学園モノ)Ⅱ
「…遅れてすみません…」
躊躇いがちに教室の引き戸を開けると、足元のレールを眺めるように俯いたまま、はじめはその場に立ち尽くした。
いつもの彼らしくない、戸惑うような、怯えたような空気を纏って、なかなか教室に入って来ようとしない。
-…来ましたね…
内心、自分も動揺しながら、けれど外側は鉄壁のポーカーフェイスを貼り付けて、高遠ははじめを見た。それは、いつもと変わりない、真面目で誠実な教師の姿にしか見えない。
遅れてきたはじめに、咎めるような眼差しを送ると、高遠は静かに口を開いた。
「教科書を取りに行ってたんですね? そういうことは、ちゃんと休み時間内に用意しておくように。早く、席に着きなさい」
そして、また、授業の続きをするべく、黒板に書いていたことの説明をはじめる。
はじめは、一瞬、ちらりと高遠を見やると、またすぐに俯いて、諦めたように、レールの内側に足を踏み入れた。そしてそのまま、高遠の視線を避けるように、そそくさと自分の席に向かう。
高遠は、普通に授業を続けながら、そちらを見もしないで、はじめが席に着くのを気配で感じていた。
一番廊下側、前から二番目の席。それが、今の彼の定位置。
少し前まで、なんとも思ってなどいなかった。副担を受け持ったクラスの、さして目立つわけでもない生徒の一人、その程度の認識しかなかった。
…あの日までは。
その日、このクラスの時間割では、高遠の担当する生物は5時間目で、その前の4時間目は体育だった。
高遠はいつものように、一階の生物準備室から、4階にあるはじめたちの教室まで、数段段飛ばしで階段を駆け上ると、腕時計でかかった時間を確認する。
13秒。
こんなもんですかね。
息も切らさずに白衣の裾を翻すと、次の受け持ちである、はじめたちの教室へと向かった。
がらりと教室の引き戸を開けると、がやがやしていた教室が途端に静かになる。生徒たちの視線が自分に集まり、そして、授業開始の空気が高まる。
教師という職を選んでみて、これは意外と気持ちのいいものだなと、高遠が思うことの一つだ。
中に入って、いつものように教卓の前に立つと、学級委員が号令を掛け、礼をする。そして着席。
授業を始めるべく、教卓の上に置いた教科書に手を伸ばしたその瞬間、ひとりの少女が高遠の視界に入った。
-あんな子、このクラスにいましたっけ…?
黒目がちの大きな瞳を持った、肩まである髪を無造作に垂らした少女。
高遠が、見ていることに気付いたのか、少女は恥ずかしそうに頬を染めると、居心地悪げに肩を竦めて、俯いた。
高遠は、このクラスの副担を受け持っていることもあって、ほぼ全員の顔と名前は覚えているはずだった。なのに、その少女だけは、どうしても思い出せない。記憶に無い。
-…いや、でも、なんとなく…顔に…覚えは、ある…?
高遠が、首を捻っていると、
「あっ、やっぱり、先生も驚いてる~」
どこからか、女生徒の声が上がった。
「えっ?」
高遠が我に返って、前を見る。
「びっくりでしょ? 先生。 わたしたちも、最初に見たとき、誰だかわかんなかったもん」
教卓のすぐ前の席の女生徒が、隣の席の女生徒と顔を見合わせて、「ね~」などと言っている。
教室の中が、途端に騒がしくなり始めた。高遠が注意しようかと、口を開きかけたとき、そのくだんの謎の少女が、先に声を上げた。
「もう! うるせえな! プールでゴム失くしちまったんだよ!」
聞き覚えのある声だった。
「えっ? もしかして…金田一…君?」
「ええっ?! 先生、マジでわかんなかったのかよ?!」
言われて、よく見てみると、確かに男子の制服を身に着けている。
でも、その滑らかな頬も、ふっくらとした淡いピンク色のくちびるも、まるで少女のそれのようで。
少し湿った長い髪は、触れてみたいような気分にさせて…
-…何を考えてるんだ、ぼくは!
一瞬、頭の中を過ぎったものに驚いて、内心、うろたえた。そして、もう、このことは頭から締め出さなくては、と、そう本能的に感じていた。
けれど、そのあと行ったはずの授業のことを、高遠は未だに思い出すことができないでいる。
覚えているのは、湿った髪を垂らした、はじめの姿だけ。
いや、それだけじゃない。この日から高遠は、彼のことが、ひどく気になりだしてしまったのだ。
起きている間はもちろんのこと、寝ているときにも、時折、はじめは姿を現す。
湿った髪を、下ろした姿で。
そして最近、決定的な夢まで、見てしまっていた。
…彼を…抱く夢。
まさか…、と、思った。
今まで、女性と付き合ったことは何度かあるけれど、男に興味を持ったことなど一度だって無かった。いや、誘われたことなら何度か覚えがあるが、何をバカなと相手にしたことも無い。
少年を抱く夢など、今までの自分からはどうしても考えられなかった。
なのに、その夢は毎夜、高遠を苦しめたのだ。
認めてしまえば、楽になるのに、とでも言いたげに…
それは今から、一週間ほど前の、放課後だった。
その日、高遠はたまたま、はじめたちの教室に忘れ物をしていることに気付いて、4階まで足を運んだ。
そう、ただ、それだけのことだった。
誰も居ないと思って、無造作に開けた扉の向こうに、けれど、彼は、いた。
偶然、というものだろうか。
帰宅部であるはずのはじめが、数人の友人たちと共に、珍しく教室に残って、なにやら話し込んでいたのだ。
窓際の席に陣取って話している彼の髪が、陽の光りを眩く反射している。
とくん…と、心臓が、いつもとは違う音を立てた気がした。
「きみたち、クラブじゃなかったよね? まだ、帰らないんですか?」
高遠は、なるべく平静を装いながら、声を掛けた。
「あっ、高遠先生」
高遠の声に、真っ先に反応したのは、はじめだった。人懐っこい顔立ちに満面の笑みを浮かべて、高遠を見る。
かっと、体中の血が、沸騰しそうな気がした。
今すぐ駆け寄って、未発達な少年の身体を、抱きしめたい衝動に駆られる。
けれど、そんな自分を懸命に宥めながら、高遠は、いつもの誠実そうな教師の仮面を被った。
「何をしているんですか?」
高遠の顔を見るなり、はじめの友人の一人が、ぽんっと、手を打った。
「高遠先生なら、わかんじゃね?」
「おお、それいいかも!」
「そうだよな!」
「聞くだけ、聞いてみようぜ!」
高遠には、さっぱりわからないことを、少年たちは口々に言い合う。
「ええっ! ちょっ、やめろよ! おれが変な目で見られたらヤじゃん!」
はじめが、なにやら、焦った様子で反論している。
なるほど、どうやらこの集まりは、はじめの何らかの相談事に対してのものらしい、と、高遠は判断して、彼らの傍に寄った。はじめが、不安そうな眼差しで、自分を見つめる。
「なにか、困ったことでもあったんですか?」
高遠の問いかけに、何かを言おうとしたはじめの口を、絶妙のタイミングで四人の友人の内のひとりが塞ぐ。
「高遠先生は、男に告られたこと、ある?」
突然、思っても見ない唐突な質問が、浴びせられた。
けれど、相手の少年はひどく真剣な様子だ。からかっている、というわけでは無いらしい。
その向こうでは、はじめが口を塞がれて、ふがふがともがいている。
「ちょっと、唐突な質問ですけど…真面目に答えたほうが、いいんでしょうね」
口元に苦笑を浮かべながら、手近にあった、椅子を引き寄せた。
「ありますよ。何度か」
「はあ~、やっぱり!」
「やっぱり」の部分で、はじめ以外の四人がハモった。はじめは、困ったような顔をして、相変わらず、口を塞がれている。
「放してあげたらどうですか? 金田一君、困ってますよ」
高遠の言葉に、はじめを戒めていた手が解かれた。するとはじめは、まるで酸欠の金魚のように口を開いて深く息を吸い込み、そして、吐き出すと同時に、
「もう、おまえら、なに先生まで巻き込んでんだよ! もう、信じらんねえ!」
と、息巻いた。
「だって、おれらだけじゃ経験ねえから、わかんねえじゃん」
なあ、と言いながら、さして悪びれもせずに、四人はお互いの顔を見合わせている。
「察するに、金田一君が、誰か男性に告白を受けた、ということなんでしょうか?」
高遠のストレートな問いかけに、全員が素直に頷く。
はじめひとりだけが、赤い顔をして下を向いた。
「こいつ、この間、髪下ろしたまま帰った日からさあ、よく告られてやんの」
一人が言った。
「そうそう、まあ、そいつらみんな、こいつのこと女だと勘違いしてただけだから、良かったんだけどさ」
もう一人が、言葉を継いだ。
「でも今度のやつ、金田一が男だってわかってて、それでも好きだって言って来たらしいんだ」
と、さらに言葉は継がれた。
高遠は、最後の一人の言葉は、もう聞くまでも無いと思った。たぶんはじめは、その場で断ることもできずに、この無責任な友人たちに相談したのだろう。
頭痛がした。
けれど、何よりも衝撃だったのは、はじめが男に告白されている、という事実だったろうか。
「その場で、断らなかったんですね…」
高遠が厳しい眼差しを向けると、はじめはバツが悪そうに俯いたまま、こくりと頷いた。
「…ぼくの経験上、言わせて貰うと、時間が経てば経つほど、問題は難しくなりますね」
その言葉に、弾かれたようにはじめが顔を上げる。瞳には、不安の色。
「なんで?」
声にも不安は滲んでいる。
そんなはじめに、高遠は、わけのわからない苛立ちを感じていた。つい、口調がきつくなる。
「告白して、その場できっぱり断られなかった相手は、やはり期待を持ってしまうでしょう。しかも同性なんですからね。もしかしたら、きみも満更じゃないのかと、相手は思っているに違いありません」
少し、意地悪な高遠の言葉に、はじめは青ざめた。
周りにいた友人たちも、今までは、半分茶化すような気分でいたのだろう。けれど高遠の言葉に、みな居住まいを正すように、真剣に耳を傾けている。
「断るつもりなら、はじめから、きっぱりと断るべきです。相手を傷つけないようになんて、考えるのは無駄ですよ。断るということ自体が、相手を傷つけるんですから。だから時間を掛けて相手に期待を持たせる方が、ぼくはより残酷だと思いますね」
高遠の言うことは、正論で、誰も何も言えない。
と、はじめが口を開いた。
「でも…でも先生…その人、凄く真剣で…おれが何も言えないでいたら…返事は…今じゃなくてもいいって…言って…でも、おれ、その時に…断れば良かったの? その方が…良かったの?」
眼に、涙を溜めて、じっと高遠を見つめるはじめに、高遠は再び抱きしめたいような激情にかられてしまう。
と同時に、胸の奥に感じる、鈍い痛み。
何も、こんなにきつい言い方をしなくても良かったのだ。怯えて、困っているのは彼のほう。
なのに、言わずにはいられなかった。
ちゃんと断らなかった彼に、怒りを感じていた。いや、彼のせいでは無いのに、ほかの男に告白されている彼を、許せなかった。
この感情に名を付けるなら、一体、なんというのだろう…
これは、たぶん…嫉妬。
そう考えて、高遠は、気付いてしまった。
ああ…、やっぱりそうなのか…、と。
否定できない想いを、その瞬間、強く自覚してしまった。
-…ぼくは、この子が…好き…なんだ…
はじめに、こんな偉そうなことを言っておいて、その告白してきた男と、教師であるはずの自分が同じであるとはじめが知ったら、彼はどんな眼で自分を見るだろう。
その気が無いなら、はっきりと断れと自分で言っておきながら、果たして自分がその立場に立ったときには、どうか受け入れて欲しいと考えてしまう、バカな自分がいる。
自分勝手な想いに、苦笑が漏れた。
「…すみません、少し言い過ぎたようですね。…次にその人に会った時に、正直な自分の気持ちを話して、わかってもらえるように努力してみなさい。ぼくが言えるのはここまでです。もしそれで困ったことになるようだったら、ぼくでよければ相談に乗りますよ」
そのまま、席を立った。
誰も、何も、言わなかった。
背を向けて立ち去ろうとしたとき、不意にはじめの声が、高遠を呼び止めた。
「先生、ありがとう」
少し、振り返って、片手を挙げた。
はじめの笑顔が、光の中に見えた。
そのまま教室を後にして、足早にその場を離れる。
ああは言ったけれど、もしはじめが、その相手に押し切られでもしたら?
もしも、その男のものになってしまったら…?
そんなことを考えてしまう自分がイヤで、早く彼の傍から離れなければいけないと、感じた。
そうじゃないと、自分で自分を保てなくなるような、そんな気さえしていた。
どうしようもない、渇望。
彼のことを想うだけで、胸の奥が、甘く、痛い。
この気持ちに、名を付けるなら…
初書き 05/07/08
05/07/14
改定 05/09/27
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少し手を入れました。今回は、高遠くん視点のお話ですね。
二本分を纏めたので、少し長くなってしまいました。
7月8日の分と、14日の分。
こう考えると、これも長い連載だなあ。
次は、はじめちゃん視点のお話ですv
-竹流-
05/09/27UP
再UP 14/08/29
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