たとえば、こんな、物語(学園モノ)Ⅲ





はじめは、窺うような視線を、教壇に立つ教師に向けた。
まったくいつもと変わらず、普通に授業をしている生物教師は、けれど確かに、自分のくちびるに触れたのだ。

…キス…したんだよなあ…?

くちびるに、そっと指で触れてみる。
指とは、明らかに違う感触を、覚えている。
高遠の綺麗な顔が、すぐ目の前で、その瞬間、瞼を閉じたことも。
高遠のくちびるが少し開いていて、まるで包み込むように、触れたことも。
柔らかくて、温かくて、湿ったその感触も。

思い出しただけで顔が赤くなってしまう。いや、顔だけじゃなくて、身体全身が熱を持ったように熱く感じる。
はじめにとっては、初めての経験だったのだ。
たとえそれが、たった一瞬、触れただけのものであったとしても。
たとえそれが、同性相手の、経験だったとしても…

けれど、相手が男であるにもかかわらず、嫌悪感など微塵も感じていないのは、それはやっぱり、相手が高遠だからなのだろうか。
綺麗な、先生。
高遠は同性から見ても、ドキドキしてしまうような、容姿と雰囲気を持ち合わせている。
指でくちびるに触れているだけで、少し、妙な気持ちになってしまいそうだった。

じっと見つめていると、今まで背中を向けていた高遠が、何かを説明しながらこちらを向いた。
瞬間、はじめと眼が合う。
はじめの胸の奥で、ドキン…と心臓が大きな音を立てた。
羞恥のためなのだろうか、身体が、さらに熱くなる感覚があった。きっと、高潮した頬は、隠しきれないほどになっていることだろう。
なのに、高遠は知らん顔をして、はじめから視線を逸らした。
その直後、他の生徒を指名して、なにやら楽しげにやり取りをし始める。
そんな高遠を見ながら、はじめは身体の奥深くで、何かが締め付けられるような、奇妙な息苦しさを感じていた。

…先生は…おれを、からかっただけ…なんだろうな…きっと。

熱くなっていた身体が、急に冷めてゆく気がした。心が、重く感じる。
そんな何かを吐き出すように、らしくない溜息を零しながら、数日前のことをはじめは思い出していた。



告白してきた男に、付き合えないとはっきりと断りを入れた。

上級生だという眼鏡をかけた真面目そうなその男は、真っ直ぐな、けれど悲しそうな眼差しではじめを見つめると、口元に優しく笑みを浮かべた。
色素の薄い髪が、陽の光を受けて綺麗に輝いていた。
「断られるだろうことは、わかっていました。でも、これでやっと思い切れます。ありがとう」
言いながら、右手を差し出す。はじめがおずおずと躊躇いがちに手を出すと、力強くその手を握り締められた。見た目のクールな感じとは違った、大きくて、包み込むように暖かい手。
「きみが、入学してきたときから。初めてきみを見たときから。ずっと、好きでした…」
やはり、少し色素の薄い、透き通るような眼を眩しげに眇めると、最後に、握った手にぎゅっと力を込めて、そして、名残惜しげにゆっくりと手を離した。
この瞬間のこの彼の眼差しを、きっと忘れられないだろうと、はじめは思った。
切なさと、いとおしさと、哀しさが入り混じったような、それでいて、澄んだ眼差し。

本気なんだと、理解できた。
自分なんかを、本気で好きでいてくれるのだと。

何か言おうと思ったけれど、何を言えばいいのかわからなくて。言ったところで、余計傷つけてしまいそうで、はじめはただ、その瞳を見つめ返した。
「そんな眼で見られると、諦められなくなりますよ」
困ったような、笑みを浮かべて。
「…ほんとうに…ぼくは、きみが好きだったんです…」
呟くように、独り言のように、つい…と、空を見上げて彼は呟いた。何かを、堪えるように。
「さようなら…金田一くん」

そのまま背中を向けて、彼は立ち去った。
一度も振り返らなかったその背中が、微かに震えていたのを、はじめは、少しつらい気持ちで見送っていた。

ごめんな… おれなんかを好きになってくれて、ありがとう…
そう、心の中で、呟きながら。


その後、はじめは高遠に報告に行った。
数日前に、高遠にはこのことでアドバイスをもらっていたし、何かあったら相談にも乗ると言ってくれていた。はじめは、断ったことで実際の問題は無くなったものの、自分の重くなった気持ちを持て余して、結果報告がてら、高遠に話を聞いてもらおうと考えたのだ。

見た目はモデルばりに綺麗で、でも、どんな生徒にも礼儀正しくて、そのくせ親しみやすい。
女生徒の人気ナンバーワンなのはもちろんだが、じつは、男子生徒の人気も高い。
高遠は、そんな教師。
大体が、体育大会でのクラス対抗教師リレーのときの高遠の勇姿が、その人気をさらに押し上げた感がある。

はじめの通うこの学校では、毎年、6月に体育大会が行われる。
一年から三年の同じクラスが一チームとなって、クラス対抗戦になっている運動会は、毎年異様なまでの盛り上がりを見せるのだが、その中に、教師だけが出場するリレー競技があるのだ。
それは、そのチームのクラス担任、もしくは副担任、足りない場合は非常勤の講師も合わせるといった具合で、四人の先生がワンチームでリレーするもの。
ひとりが200mのトラック一周を走らないといけないので、あまり歳を取った先生は省かれているが、教科や専門などはまったく無視して組まれる6クラス対抗のこの競技は、毎年かなり白熱して面白い。
ただ、陸上部顧問の猪川が担任をしているチームは、いつも余裕綽々で、見ていて腹が立つ。何せ猪川がアンカーを走ると、大抵一位をさらって行ってしまうのだ。だからその他のクラスは、毎年苦々しい想いを噛み締めているといっても過言ではない。打倒猪川。そう書いた鉢巻まで、用意しているクラスもあるくらいだった。

今回、はじめたちのクラスには、悲しいかな、一年から三年に至るまで一人も体育会系の教師は含まれなかった。「今年も駄目か…」諦めの声があちらこちらで聞こえていたのは、仕方のないことだったろう。
副担任は、二クラスを受け持っているため、くじでどちらのクラスに入るのかが決められる。高遠は、今回たまたま、はじめたちのクラスで走ることになっていた。
若い高遠は、アンカーに決まった。

運動会当日、リレー競技に現れた高遠は、サイドにラインの入った黒のジャージに白いTシャツ姿で、いつもの白衣とは全然雰囲気が違っていて、かなりカッコ良かったのは確かだろう。
女生徒の黄色い声援を浴びつつ、平然としている高遠の横で、体育の猪川が妙に殺気立って、やる気満々だったのがおかしかった。

手に汗を握りながらの大声援の中、すでに三人の教師がスタートを切り、残るはアンカーだけとなっていた。各クラス共に必死の応援合戦が繰り広げられている中、こんなに教師を応援するのってこのときくらいだよなあ、などと仲間内で言い合いながら、はじめも声を限りに応援していた。
はじめたちのクラスは、意外と前の教師たちが頑張ってくれて、6クラス中3位で高遠にバトンが渡った。けれど、陸上部顧問の猪川は2位でバトンを受け取り、すでに走リ出している。
ああ、やっぱり今年も猪川か…、と、諦めの空気が流れる中、なんと、奇跡が起きた。
高遠が、猪川との距離を詰めだしたのだ。

黒髪を優雅に揺らしながら、けれど、サバンナを走る黒豹のようにしなやかさと獰猛さを持って、高遠は風を切って走った。その姿に、はじめは何故だかわからないけれど、酷く感動したのを今もはっきりと覚えている。
一番を走っていた英語の非常勤講師のデイビッドを抜かし、高遠と猪川は二人でデッドヒートを繰り広げる。俄然、応援にも熱が入った。
ほとんどの生徒が高遠の応援をしていたんじゃないかと思うくらい、このときの高遠コールは凄かった。ゴールでロープを張って待っている実行委員ですら、手に拳を握っているのが見えていた。

ゴール前でほぼ二人が並び、ロープを切る瞬間、あんなに盛り上がっていた会場が、けれど一瞬、固唾を呑んで静まり返った。
はじめたちの所からは、同着だったように見えた。ゴールした高遠と猪川も、どちらが先なのかわからなかったのだろう、二人とも激しく息を切らしながら、大会委員の発表を待っている。
発表までに、少し時間が掛かった。ざわざわと、会場内もざわめき始めていた。
そして、

「一着、6組代表、高遠先生!」

発表の声と同時に、一斉に歓声が沸き起こり、それに答えるように右手を突き上げた高遠は、はじめの眼から見ても、すごくカッコ良かったのだ。


そんな高遠のことが、他の生徒と同じように、はじめも好きだった。
たぶん憧れだろうけど、何度見ても、なぜか胸がドキドキする程度には。
だから今回のことで、いらぬ心配をかけたことも詫びるつもりで、はじめは生物準備室を訪ねていた。けれど今考えても、その時の高遠はかなり様子がおかしかった気がする。

話が話だっただけに、高遠とはじめは、人気の無い教室まで出向いて話をしていた。
向き合うように、間に机を挟んで、椅子に掛けて。
けれど、はじめが話していると言うのに、二人きりで教室にいる間中、高遠は、一度もはじめを見ようとはしなかった。
まるで、避けてでもいるかのように。
高遠も男に告白された経験があると言っていたから、はじめは、自分の気持ちを一番理解してくれるのは、もしかして高遠だけなんじゃないかと考えていた。だから、この前の高遠とはまるで違うその態度に、軽いショックさえ覚えた。
そんな高遠に相談など出来るわけも無く、重い気持ちを抱えたまま家に帰ったのは、ほんの二、三日前のこと。
じつはそれから、はじめは夜、あまりよく眠れていない。
自分で思うよりも、本当はショックが大きかったのかもしれない。



なのに、なぜこんなことをしたのだろう?
冷たい態度とは、裏腹の行為。
なのに、やっぱり自分を無視するような態度をとり続ける高遠。
訳のわからない高遠の行動に翻弄されるように、はじめの胸の中で、奇妙な感情が揺れ動いている。
身体の奥に灯った熱が、引いてくれない。
寝不足のせいか、少し、頭もぼんやりするような感覚がある。

絶対、全部、高遠のせいだ。

はじめのくちびるから、重い溜息が、また、零れた。



初書き 05/07/21
改定  05/10/02

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かなり書き足しましたが、これで、大丈夫かなあ?
この先の展開も考えて、少し変わった部分もあります。
が、これで上手く、話が引っ付いてゆくかなあ?
とっても不安…
おかしなところが出てきたら、また、手を入れてゆくかもです。

-竹流-
05/10/02UP
再UP 14/08/29
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