待つひと




わたしの家の傍には、綺麗な人が、いる。

その人は、いつも決まった場所に立っていて、雨の日も、風の日も、うだるような暑い日も、雪の降りしきる寒い日も、ずっとそこを動かない。
ただ、哀しそうな眼差しを、ただ、じっと同じ方向へ向けて。
まるで、誰かを待っているかのように。

その小さな公園には、常に人影は無く、雑草が我が物顔で生い茂り、錆び付いたブランコは人もいないのに、時折、いたずらな風にギイギイと軋んだ音を立てている。
寂しい風景だと、子供ながらにわたしは思ったものだ。
そんな小さな公園の片隅に、大きく枝葉を伸ばした立派な桜の木が一本だけ植えてあって。
その木の下に、いつも、その人は立っていた。

家から見えるほど近くにあるというのに、その公園で遊んだ記憶は無い。
その公園で遊んではいけないと、家の者に言われていたからだ。
よくはわからなかったけれど、あそこは怖いから近寄っては駄目、と、繰り返し言う。
だからわたしは、気になりつつも、公園には近寄らないようにしていた。
遠目に、その人の姿を、捉えながら。



その日はとても冷たい風が吹いていて、オレンジに暮れ始めた空には赤や紫に染まった雲が浮かんで、とても綺麗だったのを、今も、はっきりと覚えている。
わたしは、後ろに長く延びた影を振り返るように、くるりと器用にまわりながら軽くスキップを踏んでいた。
最高にご機嫌で、家に向かっている途中だった。
お稽古事の帰りだった。
ピアノの先生に、褒められたのだ。
たくさん練習をした結果を認められて、とても嬉しかった。

そしてそれは、ちょうど、公園の前を通りかかったときのこと。
突然、強く吹いてきた風に煽られて、被っていた帽子が公園の中に入ってしまった。
買ってもらったばかりの、お気に入りの帽子。
被っていると、みんな、よく似合うと褒めてくれる、赤い帽子。
何も考えず、慌てて、公園の中に足を踏み入れていた。
靴の下で、黄色く枯れ始めた雑草が立てる乾いた音を聞きながら、わたしは夢中で帽子だけを追いかけていた。
まるでわたしをからかう様に、地面に落ちてからも勢い付いてころころと転がってゆく帽子は、もう殆どの葉を落として、寂しげな姿を晒している桜の木の根元までゆくと、ようやく力尽きて、ぱたりと倒れた。
その人の、すぐ、足元に。
けれどその人は、何も気付かないように、相変わらず凛と背筋を伸ばして、同じ方角を、道の向うを、見つめ続けている。
わたしは、恐る恐る近づいて帽子を拾い上げると、初めてその人の姿を、間近くで見た。

黒くて艶のある髪が、ぬけるように白い肌を際立たせていて、薄くて形のよい唇は、紅を塗ったように紅くて。
女の人のように整った容姿をしているのに、背が高く細身のそのシルエットは、どう見ても男の人のもので。上から下まで、鴉のように黒い衣装を身に纏い、まるで存在そのものが闇だとでも言うように、その人は、ただ静かに、そこにいる。
思わず、声を掛けてしまっていた。
「お兄さん…いつも、ここにいるね」
わたしの声に、驚いたように目を見開いて、その人は、初めてわたしの方へと顔を向けた。
まだ幼かったわたしをその視界に捉えると、少し下がり気味の目元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
ああ、この人はこんな眼の色をしていたんだと、その時、わたしは気付いた。
穏やかにわたしを見つめる一対の眼は、お月様のような不思議な色をしていて、ひどく、この人に似合っていると思った。
だって、この人は、本当に月の世界の人みたいだったから。
もっと小さな頃から、ずっと見ていたけれど、この人は、ぜんぜん歳を取らないから。

「ぼくが、見えるの?」
涼しげなテノールの声が、風のように耳の奥を掠めてゆく。
「うん、ずっと知ってたよ。わたしねえ、この近くに住んでるんだもん。お兄さん、誰かを待ってるの? いつも同じ所ばかり見てるね」
わたしがそう言うと、少し首を傾げて、微笑んだ。
「きみは、みんなお見通しなんですねえ」
そう言って、くすくすと、笑う。
その顔を見ていると、なんだか、顔が熱を持ったように、熱く感じて。
なんだか、変な気分だった。
それほどに、夕日に照らされながら楽しげに笑うこの人は、本当に、綺麗だったのだ。
寂れた公園の中で、いつも寂しげに、哀しげに佇むこの人とはまるで違う、華やかとも呼べる笑顔だったから。
こんなに綺麗な人、見たこと無いかも。
そんなことを考えながら、見つめていると、また、この人は口を開いた。
「…そうですね、待っているんですよ。ずっと、待っている。ぼくの恋人が、来てくれるのを」
「恋人…?」
「ここで、会う約束だったんです。…でも、まだ来なくて…」
また、寂しげな表情を浮かべるこの人に、少し、胸の奥が痛いような気がした。
もっと、笑っていて欲しいのに…
「どんな人なの? わたしが、探して来てあげる」
気がつくと、そう口走っていた。
そんなわたしに、また、やさしく微笑みながら、この人は言った。
「ありがとう、きみはやさしいんですね。でも、駄目なんですよ」
「どうして?」
「…これは、罰なんでしょうかねえ」
「ばつ?」
不意に、視線を逸らしてそう呟くこの人は、諦めたような笑みを、その口元に浮かべている。意味がわからなくて、わたしは聞き返していた。
「ぼくは、とても悪い人間だったんですよ。だからなのかな、恋人のことを、思い出せないんです」
「思い出せないの?」
「そう、顔も、名前も、なにも…思い出せない。ただ、ここで待つと約束していたことだけを、覚えているんです」
また、風が吹いて、この人のサラサラの髪が風に煽られて、長い前髪が表情を隠すように、乱れた。
泣いているような気がした。
涙を零さずに、ずっと泣いているような、そんな気が、した。

「会えば、わかる。絶対に、会えばわかる。だから、待っているんです。彼は、ぼくとの約束は破らない。きっと何かあって、来れないだけなんですよ」
まるで、自分に言い聞かせるように。

「お兄さん…」
わたしの声が、頼りなげだと気付いたのだろう。また、わたしの方を向いて微笑むと、静かな声で言った。
「行きなさい。もう、決してここに来てはいけない。ぼくに係わってはいけない。そして、このことを誰にも話してはいけない。…約束、出来ますね?」
静かなのに、絶対の口調だった。
まだ、小学生だったわたしにも、理解できるほど。
ほんの少し、この人がどんな人だったのか、わかるような気がした。
わたしは、それ以上何も言えずに、背中を向けて駆け出していた。
彼が最後に見せたのは、完全な拒絶。
それがわかって、ひどく哀しかったのだ。

それきり、その公園に入ったことは、一度も無い。
その話を、誰にもしたことは無い。
公園の前を通るたびに、あの人が立っているのが視界に入ったけれど、あまり見ないようにと、気をつけるようにもなった。
見ると、泣きそうな気分になってしまうから。



高校生になる頃には、もう、あの公園で何があったのかを、知っていた。
なぜ、あの公園で遊ぶなと言われていたのか。そして、あの人は、誰なのか。

わたしが生まれるよりも前に、あの公園では事件があったらしい。
凶悪な殺人犯が、あの木の下で、警察の手によって射殺されたのだ。
『高遠遥一』と言う名の、全国指名手配中の連続殺人犯が。

あの木の下にいるところを、誰かに通報されたのだろう。気付いたときには、警察に取り囲まれ、すでに、逃げ場は無くなっていたという。
防弾用の盾をかまえた武装警官に囲まれ、冷たく光る銃口を向けられながら、なのに怯える様子も、うろたえる様子すらも見せずに、その殺人犯は、ただ頑なに、その場を動こうとはしなかったという。
長い膠着の末、痺れを切らして催涙弾を使ってきた警察に向かって、『高遠遥一』は、無謀にも持っていた拳銃を発砲した。けれど、それはまるで、自殺にも等しい行為。
彼の弾に傷ついた者はいなかったけれど、彼はその場で、命を落とした。
たくさんの、銃弾を浴びて。

彼の流した血は、あの桜の木の根元に吸い込まれたのだ。彼の魂と一緒に。
そうまでしても、その場を離れたくなかったのだろう。
『お兄さん』は。
それからあの公園では、白い人影が出る、と、噂が流れるようになり、誰も近寄らなくなってしまった。

凶悪な、殺人犯。
そうわかっても、どこか信じられない。
あの時、『お兄さん』の瞳はとても澄んでいて、綺麗だったから。
純粋な輝きが、そこにはあったような、気がするから。
けれど。
「ぼくは、とても悪い人間だったんですよ…」
少し、哀しげに呟かれた言葉を、その声を、わたしはつい昨日聞いたばかりのように思い出すことが出来る。
自ら、そう言い切れるほどのことを、あの人は確かにしたのだろう。
連続殺人犯…何人もの、人の、命を奪った人。
恐ろしい人、のはずなのに。
わたしには、やっぱりそうは思えない。
あのときのお兄さんは、そんな人には見えなかった。
ただ恋人を待つ、純粋な人に思えた。

では、あの人は変わったのだろうか。
殺人を犯してから、死んでしまうまでの間に。
それにはやっぱり、『恋人の存在』が、大きく関係しているのだろうか。

自分の命よりも、大切だった、約束。
『お兄さん』に、そこまで想わせた、ひと。
いったい、どんなひとだったのだろう。
考えると、重いため息が零れた。

じつは、わたしは、大変なことに気がついていた。
もう、随分と前から。
そう、わたしは『お兄さん』のことが、好きなのだ。
たぶん、あの月色の眼が、自分を捉えた瞬間から。
我ながら、救いようがない、と思うしかなかった。
彼は、すでにこの世の人ではなく、しかも、恋人を待ち続ける一途な人で。
『わたしの初恋の人は、幽霊ですv』だなんて、口が裂けても言えないけれど、この想いは、今も現在進行形だ。
彼が、あの場所に居続ける限り、わたしの胸のときめきも、止まってくれない気がした。
まるで、どこかのモデルのように、綺麗な人。
それが、ずっと近くにいるのだから。

「あ~、わたしって、面食いだったんだあ!」

ベッドにひっくり返りながら、大げさに呟いてみる。
空しいだけの恋に焦がれている自分を、戒めるように。
けれど、どうしようもないのだ。恋とは、きっとそういうもの。
身体の下で、スプリングが軋んだ音を立てている。
ひっくり返った余韻の振動を感じながら、今日、何度目になるかわからないため息を吐く。
止めどなく零れ落ちてゆくため息が、きっとブラックホールのように部屋のあちらこちらで暗い重力を発揮していて、この重苦しい気分を、さらに落ち込ませているに違いない。いや、絶対にそうだ、と思えて仕方のない、十七の秋。
『お兄さん』と、言葉を交わしてから、すでに十年の月日が流れていた。
当の彼は、相変わらず、来ない恋人を待ち続けている。
どっちを向いても救いが無いと、また、重いため息が、零れた。



05/11/06
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いきなりな、幽霊ネタという。
しかも、語り手はまったくの第三者ですしね。
元々は、ワタシのオリジナルの漫画用にと、昔考えたものなんですけど、弄っているうちに、なんだか元の話とも、全く違ったものになってしまっています(笑)。
昨日、書いた時には、どうしようかこれ、みたいな感じだったんですけど、でも、最後までどうなるのか書き上げてみたくて、アップすることに決めました。
なんとなく、先の話が読めてしまうような作りですが、最後までお付き合いいただけると、嬉しいです。

05/11/06UP
再UP 14/08/30
-竹流-

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