待つひと
2
わたしには、ただひとつだけ、疑問があった。
なぜ、『お兄さん』の恋人は来ないのか、と。
『お兄さん』が死んだのは、わたしが生まれるよりも前なのだから、もう十七年以上、ああして待っていることになる。
あんなにも想われていながら、その人は、じつはそんなにも本気じゃなかったとか?
でも、それだけは、ありえないような気がしていた。
殺人犯だった『お兄さん』を変えてしまったひと。
そんな人が、いい加減な人であるわけが無いと、確信にも、思い込みにも似た感情でわたしは捉えていて。
きっと何かあって、その人は来れなかったのだ。
来る前に、なのか、それとも来る途中で。
もしも、そうなのだとしたら、その人はすでに、この世の人ではなくなっているかもしれない。
もしも、そうなのだとしたら、その人は、とっくの昔に成仏してしまっていて、『お兄さん』だけが、この世に取り残されているという可能性だってあるわけで。
そうなると、もう二度と、彼は恋人に会うことは叶わないだろう。
なんとか、ならないものかなあ、と、思う。
自分のためにも。
じつはわたしは、元々、少しばかり視える体質の人だったらしく、『お兄さん』意外にもこの世の人ではない人を視ることがあった。
そんなに、しょっちゅうではないのだけれど、ほんのたまに。
そうなのだと気がついたのは、『お兄さん』と話してからだろうか。
みんながみんな、『お兄さん』のように生きている人と変わらない、というわけではない。
血まみれだったり、足が無かったり、透けてたり。
怖いから、とりあえず、全部無視して通してきた。
何が怖いかっていうと、自分が視えていると相手にばれることが、だ。
でも『彼』を見たとき、全然、そんなこと考えなかった。
そう、『お兄さん』を視るのと同じように。
とても『彼』は自然で、とても綺麗な空気を纏っているような気がした。
『彼』と出会ったのは、ほんの偶然。
その日、たまたま友人と別れた帰り道、いつもは通らない道を、気まぐれにわたしは通って帰っていた。何故、通らないのかというと、酷く車の通りが多くて、わざわざ歩道橋まで遠回りしなくてはならないからだ。
わたしは、夕闇が迫り始めた歩道橋を、夕日を眺めながら渡っていた。
街に灯りが点るまでの時間、夕日に染まる街並みは、普段見慣れたそれとは違う、印象的な別の顔を垣間見せる。
橙色に染まる街並みに、オレンジの光が降り注ぎ、空には夕映えに染まる浮雲が、風に流されてゆく。
少しの間、足を止めて、歩道橋の上から見える、この小さな世界を眺めていた。
空の高さを、心地良く感じられるこの季節が、わたしは好きだ。
そう言えば、『お兄さん』と初めてお話したのも、この季節だったっけ…
どのくらい、そうしていたのだろう。
ふと、何気なく歩道に視線を落としたときに、気がついた。
渡りきった歩道橋のすぐ下のところで、男の子が、といっても自分と同い年くらいの少年が、困ったような顔をして、きょろきょろと辺りを見回しているのに。
迷子なの?あの男の子?
最初は興味本位で見ていたのだけれど、その彼の表情が、酷く真剣そのもので。
だから、声を掛けようと思ったのかもしれない。
周りの人は、皆、知らん顔して通り過ぎてゆく。
「ねえ、きみ、迷子なの?」
後ろから声を掛けたわたしに、面白いくらい飛び上がって、酷く驚いた様子で、彼は振り返った。
濃茶の長い髪を、まるで丸い尻尾みたいにひとつに纏めた彼は、大きな茶褐色の目を、なおさら大きく見開いて、真っ直ぐにわたしを見つめた。
澄んだ瞳、丸みを帯びた頬が、少年らしい彼の表情を、ずいぶんと可愛いものに見せている。けれど、トレーナーにジーンズ姿の彼は、何処にでもいる、ごく普通の高校生だ。
「えっ、あっ、…うん」
迷子なのが恥ずかしいのか、照れくさそうに頬をかきながら、彼はこくりと頷いた。
「行かなきゃならないところがあるんだけど、何処だったか…思い出せないんだ」
どこかで、聞いたようなセリフ…
「行く所を、思い出せないの?」
「うん」
一瞬、記憶喪失か何かで、ここで迷っているのかと考える。
「名前とかは、わかる?」
「…記憶喪失じゃねーよ…」
彼は、憮然とした表情を浮かべると、ポケットに手を突っ込みながら、唇を尖らせた。
彼の名前は、金田一はじめ。
なんでも、金田一耕助っていう有名な探偵の孫だそうだ。
とても、そうは見えないけど。第一、そんな名前の探偵なんて、わたしは知らない。
彼の話では、以前にもここに来たことがあって、その時、事故に遭ってしまったと言う。
その時の打ち所が悪かったのか、ここから何処へ行こうとしていたのか、どうしても思い出せないらしい。
「やっと、ここまで来れたのに…」
そう呟く彼の顔は、とても哀しそうで、見ているこちらがつらくなってくる。
「じゃあ、場所じゃなくって、何のためにそこへ行こうとしてたのかは、覚えてる?」
「えっ? そ、そりゃあ、もちろん!」
言いながら、はじめくんの頬が、赤く染まった。
ふ~ん、これは、何やら楽しそうな事情があると見た!
「恋人に会いに行く途中だった…とか?」
わたしの言葉に、彼の顔が、さらに真っ赤に染まってしまう。
う~ん、なんてわかりやすいんだろう…
「その子の家に行く途中だったとか、どこかで待ち合わせしていたとか…」
そのわたしの言葉に、記憶に引っかかるところがあったのか、突然、はじめくんは顔を上げて、少しの間、虚空を見つめた。
「…そう、待ち合わせしてた…待ち合わせしてたんだ、おれ、その人と」
「どんなところか、覚えてない?」
「どんな…どんなところ…だった? どんな…」
まるで、うわ言のように、繰り返して。
えっと、今、確か彼、相手の人のこと、『その人』って言ったわよね?
もしかして、年上のひとなのかしら? まさか、不倫とか?!
手に手を取って、駆け落ちする約束してたとか?
ええ~、まっさかあ。だって、この子、普通の男の子だもんねえ。
そんなことを考えていると、急に彼が、こちらに顔を向けた。
何かを思い出したように、大きな眼をなおさら見開いて、頬を紅潮させて。
ああ、恋をしている人の顔だと、彼を見ながら、わたしは思った。
「そう、木の下で待ってるって…約束だった…公園の、桜の木の下でって!」
その時、傍に立っていた街灯が、ふいに明かりを灯した。
彼の足元には、影が、出来無かった。
まさか、幽霊と連れ立って歩くことになるとは、思いもしなかった。
でも、この『彼』は、怖くない。
とても、温かな感じがする。
えっと、幽霊なんだから、温かいって言うのはおかしいけど、でも、そんな感じ。
けれど…
思わず、唇からため息が零れ落ちる。
公園の桜の木…このあたりで桜の木のある公園といえば、うちの近所のあの公園しかない。
まさか、『お兄さん』の待っているひとが、こんな、普通の男の子だったとは…
でも、思い起こせば、確かにあの時『お兄さん』は言った。
「彼」と。
よっぽど、わたしは浮かない顔をしていたのだろう、幽霊のはじめくんが、心配そうに声を掛けてくれる。
「ごめんな。やっぱ、怖いよな? おれも、あんまり自覚無いから普通にしちゃってたけど… 迷惑かけて、ごめんな?」
ふ~ん、やさしい子なんだ。
まあ、あの綺麗な『お兄さん』が、選んだ子なんだもんねえ。
そう考えて、また、重いため息が零れ落ちそうになる。
でも、我慢しなくちゃ。
これで、もしかしたら『お兄さん』は、待ち人に会えるかもしれないんだから。
もう、待たなくていいかもしれないんだから。
わたしは、誰よりも知ってるよ。
『お兄さん』が、どれだけ真剣に、待っていたのか。
いつも、いつまでも、ずっと。
もう、解放してあげたい。
哀しそうに佇むあの人を、これ以上、見たく無いよ。
最後の角を曲がると、公園が、すぐ傍に見えた。
もうあたりは暗くて、寂しげな青白い光を放つ蛍光灯が、電信柱の上からわたしたちを照らし、公園内の街灯が、ぼんやりと桜の木を浮き上がらせていた。
その瞬間、はじめくんは、黙ったまま一歩踏み出した。
わたしは立ち止まったまま、それを見ていた。
結末を、見届けるために。
ゆっくりと、彼はさらに一歩を踏み出し、さらにもう一歩、踏み出し、やがて、公園に向かって駆け出していた。
ふと、『お兄さん』が動いた気がした。
いつもずっと、桜の木の下から動くことなく、ただ同じ方向ばかりを見つめていたお兄さんが、その場所から足を踏み出したのが、わたしには、確かに見えた。
ゆっくりと、足元を確かめるように彼は足を踏み出して、はじめくんが走ってくるのを、じっと見ていた。
『会えば、わかる。絶対に、会えばわかる…』
そう言っていた、お兄さんの言葉を思い出す。
「たかとお!」
はじめくんが呼ぶと、今まで見たことも無いような、綺麗なやさしげな笑みを浮かべて、彼は静かに両手を差し出した。
はじめくんがその腕に向かって、飛び込むように身体を投げ出すと、ふたりは公園の中ほどで、しっかりと抱き合った。
「…来てくれると、信じてました。はじめ」
「ごめん、ごめんな、たかとお。遅くなって、ごめん」
強く強く抱き合って。
どんな障害も、二人の前には意味を成さないのではと、思えるほどに。
どれだけ、相手のことを愛しているのか。
どれだけ、大切に思っているのか、信じているのか。
痛いくらい、伝わってくる気がして。
わたしの頬に、涙が零れていた。
とてもふたりは幸せなのだとわかって、涙が、止まらなかった。
それがたとえ、この世では叶わなかった、想いだとしても。
ふいに、『お兄さん』が、顔を上げた。
はじめくんも、『お兄さん』に抱かれたまま、こちらを向いた。
ふたりの唇が、「ありがとう」と、動いたのがわかった。
幸せそうな、笑みを浮かべていた。
でも、もう、声は聞こえなかった。
そうして、少しずつ薄くなって、やがて、ふたりとも見えなくなってしまった。
街灯に浮かび上がる、木の葉を落とした桜の木が、ただ一本だけ、寂れた公園の中に立ち尽くしている。
黄色くしおれた雑草が、かさかさと、風に乾いた音を立てている。
もう、そこには、誰もいない。
寂しげな風景が、ただ、広がっているだけ。
わたしの胸の中にも、寂しげな風が、吹きすぎてゆくのがわかった。
ぽっかりと胸の中に大きな穴が空いて、冷たい風が、吹きすぎてゆく。
初恋は、実らない。
痛いほど、そのことを理解した、寂しい秋の季節。
もう、この季節を好きだと思うことは無いだろうと、頭のどこかで感じていた。
わたしの長い初恋は、ようやく終わったのだ。
これは、ハッピーエンド、だよね?
顔を上げて、空を見上げて。
空に瞬いているはずの星たちが、ぼやけて見えなかった。
ああ、本当にわたしは、『お兄さん』のことが、好きだったんだなあ。
さようなら、大好きだった人。
愛するただひとりを、待ち続けたひと。
わたしも、あなたのように、命よりも大切な人に出会えるでしょうか。
結局、涙が止まるまで、恥ずかしくて、家に帰れなかった。
家に帰ると、いつものようにテレビの前に陣取って、いつものように新聞の番組欄を広げる。今見ているのは夕刊だ。そしてわたしは、なぜだかいつもは見ない番組欄の裏の社会面のページを捲って、少しの間、固まっていた。
そこに、今しがた聞いたばかりの、名前を見つけたからだ。
『子供を庇って交通事故に巻き込まれて以来、十八年間、昏睡状態だった金田一一さん(35)は今日の明け方に息を引き取られ……金田一さんは、高名な名探偵金田一耕助さんの孫に当たる方で、自身も警察に協力し、幾つもの事件を解決したことのある…』
「…今朝、亡くなったんだ。だから今まで、来れなかったんだ…」
会いたくて、でも、会えなくて。
待っていたのは、『お兄さん』だけじゃ、無かったんだ…
二人の想いの深さに、また、涙が零れそうになった。
次の年、公園の桜は、今まで見たことも無いほど、満開の美しい桜を咲かせた。
ふたりの恋の成就を、祝福するように。
そして、わたしも、新しい恋を、見つけた。
05/11/13 了
BACK
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『待つひと』完結ですv
ああ、久しぶりに、すんなり終わらせれた気がする。
これでいいんか?
という気がしないでも無いけど、ま、いいや。パラレルだもんね。
高遠くんの出番が少なくて、寂しい後編ですが、ご勘弁を。
05/11/13UP
再UP 14/08/30
-竹流-
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