竜神沼








双子は畜生腹、不吉な忌み子と言われ、二人のうちの一人は里子に出されたり、酷いときにはその存在を抹消されたりすることが、古来より、日本の風習にはあった。
そんなものは、ただの迷信だと、今ではすっかり無くなった風習に違いないはずなのだが、じつはいまだに、呪われた迷信に縛られた村も、無くはない。

これは、そんな、山深い村のお話だ。



とある山深い土地に、過疎の進んだ小さな村がある。
そう、今、現在の話。
そこで生まれた子供は、隣町の学校まで、大人の足でも1時間以上は掛かる山道を下って通わなくてはならなかった。そのせいばかりではなかっただろうが、若い夫婦者や年頃に育った子供たちは、皆、街へと出て行き、残っているのは年配の者ばかりといった有様の村。
林業と、山を開墾して作られた段々畑での農業が、この村に生きる者の主な生業。けれど、働き手がなくなる一方の村は、衰退してゆくばかりだった。
そんな村に、はじめという、今年18になろうかという若者がいる。
はじめは、幼い頃に両親を亡くして以来、父方の祖父と二人で暮していた。細々とした農業でなんとか生計を立ててはいたのだが、昨年、祖父が目を痛めてからというもの、はじめは学校を辞め、祖父の代わりに畑仕事をして、辛うじて生活の糧を得ていた。
ほとんど年寄りしかいないこの村の中で、ただひとりの若者だからなのか、もとより人懐っこい彼の性格のためなのかはわからないが、はじめは皆に可愛がられ、別段、今の生活に不満らしい不満はない。
ない、はずだった。

…なのに、どこか、空しい…

じいちゃんやばあちゃんたちは、はじめにとてもやさしくて、互いに支えあうような村の生活は、暖かくて、居心地は悪くない。
山の厳しい生活も、不便さも、生まれたときから暮らしているはじめには、当たり前のことで、今さら、取り立てて苦しいとも、思わない。
けれど、歳の近い友人でさえ、今はみんな引っ越してしまって、もう、誰もこの村には残っていない。
ここにいる限り、はじめは恋の一つも知らないまま、過ごすことになってしまうだろう。
それが、わかっているから、どこか、寂しい。
でも、育ててくれた祖父をひとり置いて、何処へ行くこともできない。
年頃の若者らしい悩みを抱えたまま、その優しさゆえに、はじめは身動きが取れなくなっていた。

はじめは独りになるために、村はずれの沼に出かけることがある。
本当なら、そこは村の、禁断の地。
竜神が住まうといわれるその沼に、村の者たちは、決して近づかない。
年寄りはひどく迷信深く、はじめは時々うんざりして、息苦しく感じることさえあった。
小さな行事があるたびに、昔からの決まり事だなんだと、小うるさい手順を押し付けられ、守らなければ祟りがあるぞと、脅しまがいに注意されるのだ。
年寄りの話の中には、大切なこともたくさん隠されていると、頭ではわかっているのだが、反発心がどうしても、それを受け入れない時がある。
この、どうしようもない、閉塞感。
そんな憂さを晴らすかのように、竜神などただの迷信に過ぎないと、今どきの若者らしい感覚を持ったはじめは、祖父が注意するのも聞かずに、度々そこを訪れていた。

恐ろしい伝説があるといわれる沼だが、日中は常に明るい日差しに満ち、四季折々の花が咲き乱れる空間は美しく、とてもそんな風には思えない。
地面との境目がわかりにくい沼の領域にさえ気をつけていれば、足を取られて危険な目に会うことも無いのだ。
「こんなに、綺麗でいいとこなのに、村のジッちゃんたちは、ホント、迷信深いよな」

いつの間にか沼は、誰も近寄らない、はじめだけの特別な場所になっていた。
ごろりと草の上に寝転がると、濃厚な土のにおいと、ほのかな花の香を含んだ緑の匂いが、柔らかに全身を包む。鳥のさえずりが、風に煽られる木々のたてるざわめきが、やさしい子守唄のように、耳に心地良い。
大地の熱を感じながら、暖かな春の日差しに照らされていると、睡魔がゆるやかに全身を包んでゆくのがわかる。

…いけね、こんな所で寝たら、また、ジッちゃんに心配させちまう…

わかってはいたけれど、もう、はじめの身体は、眠りの誘惑に抗うことなど、できそうに無かった。
何かに飲み込まれてしまう感覚にも似た恍惚を感じながら、はじめは、暖かな暗い闇の中へと、意識を飛ばしてしまったのだった。

そうして、どのくらい、経ったのだろう?

肌寒さを感じて目を覚ますと、もう、日はすっかり傾いて、橙色の光が空に浮かぶ雲を染めていた。辺りは薄暗い山の影に覆われ、昼間とはまるで違う空気がそこには漂っている気がして、はじめは背筋に冷たいものを感じた。
こんな時間まで、ここにいたことは、今まで一度も無い。
祖父に心配をさせないために、いつも、昼間の暖かな時間だけ、少しの間だけ、ここで過ごすことを自分に許していたのだ。
日の当たらなくなった沼は、今まではじめの知っていたその場所とは、まるで違う顔を見せている気がして、酷く居心地が悪い気がした。
沼から這い登ってくる湿気が、足元から冷たく、身体に纏わりつく。
鳥の鳴き声一つ聞こえない、暗く湿った空間では、木々のざわめきすら、普段とは違う不気味さを感じさせる。
はじめは身震いをすると、慌ててそこから立ち去ろうとした。

と、その時。

「すみません、待ってください!」
まだ、歳若い男の声が背後からして、はじめは心底驚いた。こんな所に、人などがいるわけも無い。噂に聞く竜神が、人の姿に化身して現れたのかと、一瞬、考えたくらいだ。
けれど、そんなバカなことなどあるはずが無いと、そう、自分に言い聞かせて、勇気を振り絞って、はじめは振り返った。
薄暗い木立の間に、木にしがみつくような格好で、背の高い、若い男が立っていた。
リュックを背負い、登山だかハイキングだかをしていたと思しき格好をしている。
人には違いないらしいと、はじめは内心、安堵の息をついていた。

「あんた、誰? なんで、こんなところにいるの?」
はじめの放った一言に、男が明らかにホッとした様子を見せたのがわかった。どうやら相手も、不安だったらしい。
「よかった、普通の人みたいで… じつは道に迷って、足をくじいてしまったんです」
「街の人?」
はじめが言いながら、傍に寄ると、男はこくりと頷いた。
「暗くなってきたし、足は痛いし、道はわからないしで困っていたんですよ。…じつは最初きみを見たとき、あまりにも軽装なんで、もしかして人じゃなかったらどうしようかと、バカなことを考えてしまって、声を掛けあぐねていたんです。でも、よかった、近くに人の住んでいる所があるんですね?」
男は、どのくらい一人で迷っていたのかわからないが、かなり寂しかったのだろう。ここぞとばかりに、話しかけてきた。しかし、安心している男には悪いが、じつは、この場所からはじめの家までは、結構な距離がある。まだ、山道を歩いてもらわないといけない。
はじめは、申し訳無さそうに、頬をかいた。
「う~ん、近くって言うか…ちょっと離れてるけど…、まあ、そんなに遠くでもない…かな? あっ、足、大丈夫?」
くじいたという足が痛むのだろう、男が少し右足を引きずっているのにはじめが気付いて、声を上げた。
「ああ、ありがとう、大丈夫です」
そうは言っているが、かなり痛そうだ。
はじめは、男の腕を肩に掛けさせると、その身体をしっかりと支えた。
男は、はじめよりも背は高いが、思ったほど重くは無さそうだ。
「とりあえず、おれん家まで行こう。ここじゃあ暗くて手当てもできない」
男を支え、その荷物も担ぎながら、はじめは、家までの道程をがんばることになったのだった。


家に帰りつくと、祖父が、何処へ行っていたんだと、開口一番に文句を言ったが、客人がいるとわかって、それ以上は口を閉ざした。
内心、はじめは助かったと、思っていた。
帰り道は大変だったけれど、彼のおかげで、帰り道の心細さも、ジッちゃんのお小言も避けられたのだから。

男は、高遠と名乗った。
男にしては、異様に肌の白い、整った容姿をした街の若者。
畑仕事で日に焼けて、荒れた手をした自分とのあまりの違いに、はじめは恥ずかしささえ覚えたほどだ。
くじいたという右足首は、なるほど、赤く腫れあがってはいたが、筋や骨には異常が無さそうで、湿布さえしていれば、なんとかなりそうだった。
「たいしたこと無くて、よかったな」
笑うはじめに、高遠も、綺麗な笑顔を返してくる。
「本当に、ぼくは運が良かったですよ。もしも、きみに出会えていなかったら、うっかり沼に足を踏み入れて、大変なことになっていたかもしれません」
ありがとう、助かりました…
そう言う高遠を見ていると、はじめは、綺麗な女の人を前にしているみたいに、なぜだか胸がドキドキしてしまうのを、抑えることができなかった。

白くて、滑らかな肌を持つ、高遠。
少し、下がり気味の切れ長の目は、不思議な、金色とも呼べる虹彩を持っていて、彼の持つ神秘的な美貌を、なおさらに強調しているかのようで。
しなやかな指先も、紅を塗っているのかと思えるほどに紅い唇も、濃く長い睫も、はじめが今まで見たことも無いほどの美を形作っている。
そのくせ、どこかで会ったことがあるような、そんな懐かしい感慨を抱かせる、不思議な若者だった。

はじめの家に、高遠は怪我が治るまで、少しの間、滞在することになった。
意外とマメな性格だったようで、目の不自由なはじめの祖父の世話や相手を、嫌がりもせず、進んで手伝ってくれる。しかも、世話になっているのだからと、慣れない畑仕事にも手を出そうとして、怪我人はおとなしくしてろと、はじめに怒られる一幕もあったりした。
そんな感じだったから、ふたりが仲良くなるのに、さほど時間は掛からなかった。

ふたりで、色んなことを話し合った。
まるで、昔から仲の良い友人だったかのような、親しさで。
高遠の話す街の話に、驚いたり感心したりするはじめに、
「いつか、遊びに来てください。案内しますよ」
と、高遠は、穏やかに微笑んでくれる。
決して、田舎者だとバカにしたり、からかったりしない。
外見の、近寄りがたいほどの美貌とは違った高遠の人となりを知るうちに、いつしかはじめは、あろうことか同性の高遠に、淡い恋心を抱くようになり始めていたらしい。
高遠がいるだけで、甘く、幸せな高揚感に、胸が疼く。
できることなら、ずっと、傍にいたい。
けれど、くじいただけの足が、そんなに長く痛み続けるはずも無く、近いうちに、高遠は街へ帰ってしまうだろう。
そう考えるたびに、はじめの口からは、らしくない、重いため息が零れた。

そうして、高遠がはじめの家に滞在するようになって、一週間目のある日。

「もう、随分と足もよくなりましたから、明日あたり山を降りようと思います。今まで、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
夕食のときに、高遠は姿勢を正して、はじめとその祖父に頭を下げた。
祖父は、あんたがいてくれて、楽しかったよ、こちらこそありがとう、と、高遠にねぎらいの言葉を掛けている。
はじめは、何も言えなかった。
高遠は、何かを言いたげに、はじめを見つめていたけれど、はじめは何も気付かない振りをして、黙々と目の前にある食べ物を、口の中へと片付けていた。味なんかわからない。
ただ、噛み砕いては飲み込む作業を、繰り返す。
口を開けば、何を言い出すかわからない自分を、誤魔化すように。

「はじめくん、どうして、何も言ってくれないんです?」
もう、風呂にも入ったし後は寝るだけ、という時間に、高遠ははじめの部屋にやってきて、まるで咎めるような口調で、そう切り出した。
「なんのことだよ」
受けて立つはじめの口調も乱暴なのは、はじめの胸の内を考えると無理も無いことなのだが、高遠にそんなことがわかるはずも無い。はじめの様子に、形のいい眉を顰めた。
「ぼくは、明日、街へ帰るんです。きみとは、とてもいい友達になれたと思っていたのに。なぜ、何も言ってくれないんですか?」
「とっとと、街へでも何処へでも、帰ればいいじゃん。おれには関係ない」
「いったい、どうしたって言うんです? あんなに、仲良くしてくれていたのに…」
「あんたには…関係ないよ。さっさと街にいる親の所へ、友達の所へ帰れよ。あんたには、帰るところがあるんだ。おれだけが、ずっとここに取り残されて。何処にも行けなくて… また、ひとりになっちまうんだ…」
気がつくと、少しばかり本音が漏れて、はじめの頬には、涙が零れ落ちていた。
高遠が、それを見ながら、なぜか凍りついたように、固まっている。
はじめが、慌てて涙を拭こうとして、袖口で乱暴に目を拭っていると、白い指が、しなやかな動きでそれを止めた。
「…そんなに、乱暴に拭いたら、目を傷つけてしまいますよ…」
そして、そのまま腕をとられて、引き寄せられて。気がつくと、はじめは、高遠の腕の中に閉じ込められていた。
「えっ、た、たかとおっ?!」
「しっ、静かにして。おじいさんが起きてしまう」
細いくせに、抗うこともできない力強さで、高遠ははじめの身体を抱きしめている。
驚いて、はじめよりも少し高い位置にある高遠の顔を見上げると、真剣な表情をして、はじめを見つめている瞳にぶつかった。
吸い込まれてしまいそうな、不思議な金色を湛えた虹彩に彩られた、高遠の瞳。
はじめの姿を捉えたまま、何も言わずにそのまま近寄ってくる瞳を、けれど避けることも、見続けることもできなくて、はじめはきつく瞼を閉じた。
本当に、吸い込まれるような気がしたのだ、金色の、闇の中へ。

次の瞬間、唇に重ねられた柔らかな感触に、はじめの中の、痛いほどの想いが。
もう、胸の中だけに止めていられないほどの、熱い想いが。
堰を切ったように、溢れ出してしまった。

「…たかとおが…好きだよぉ…すごく…好きなんだ…」

高遠の首に、自分の腕を絡ませて。
隠し続けていた、想いの丈を、告げた。

「ぼくも…きみが好きですよ…初めて逢ったときから…ずっと…」

返された高遠の言葉に、はじめは、信じられない思いと同時に、今まで感じたことも無いほどの幸せを、胸に覚えた。
堕ちてもいいと、思った。

間違った感情でも。
間違った関係でも。
そうとわかっていながら、止められない感情も、ある。
それを、若さゆえの過ちと、片付けるのは簡単だけれど。

いつか、後悔する時が、来るかもしれない。
けれど、それはその時に、すればいい。

はじめはその夜、すべてを、高遠に捧げた。



次の朝、早くに、高遠は山を降りていった。
はじめは、見送らなかった。

また、逢う約束を、高遠と交わしたから。
絶対に、また逢えると、信じているから。
だから、泣かなかった。

「夏になって、学校がまた休みに入ったら、必ず会いに来ます。だから、それまで待っていてください」

ただの睦言かもしれないその言葉を、けれどはじめは、信じることでしか自分を支えていられない。高遠への想いは、そのくらい、はじめにとって真剣なものだったのだ。 

祖父や、村の人たちの前では、普段どうりの自分を演じて、そして、沼へ行っては、高遠を想い続ける日々。
自分を縛る、すべてのものが疎ましく思えるほどに、高遠への想いは日一日と、募ってゆく。
こんな、浅ましい自分など、今まで、知りもしなかったのに。
高遠さえいれば、何もいらないとまで考えてしまう自分に、恐ろしささえ感じながら。
なのに、募る想いを、止められない。
全部捨てても、かまわないとさえ、考えてしまうほどに。


「へえ、偶然ですね。ぼくも、八月が誕生日なんですよ」

沼地の草の上に寝転がりながら、高遠の言葉を思い出す。
そう、よくよく話してみると、生まれた日まで同じだったのだ。
すごい偶然もあったもんだなと、ふたりで驚いた。
歳も同じで、とても偶然だけでは片付けられないほどに、共通点も数多く見つかって。
出逢ったことさえ、運命みたいに感じた。

「なんだか、双子みたいだな」
「それはまた、似てない双子もいたものですねえ」

そう言って、笑い合った。
何のてらいも無く、無邪気なまま。
そんなに前のことでは無いのに、あの頃が、懐かしい。
何も知らないままでいれば、よかったのかもしれない。

けれど、もう、元に戻ることなど、できはしない。
高遠に、触れられた身体が、寂しいと、繰り返している。

早く、夏が、来れば…いいのに…

日差しは、少しずつではあるけれど、確かな熱気を運び。
夏の訪れが近いことを、知らせていた。



06/04/06
NEXT
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なんだか、よくわかりませんが、とりあえずアップ。
いっぱい書いたのに、ちっとも、お話が進んでいません(泣)。
やっぱり、まとめる能力ナッシングなのでしょうか。
しかも、今のところ、さっぱり何のお話かわかりませんね…
ああ、もう、相変わらずな感じで。
この「竜神沼」というタイトルは、石の森章太郎先生のご著書に同名の作品がございますが、全く内容は違います。
次は、残酷な場面も出てくるので…と思ってたら、それは次の次になりました。
すいません(汗)。

06/04/06UP
再UP14/09/12

-竹流-


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