竜神沼







高遠が、泣いていた。

傍らを小川が流れ、足元には大小さまざまな石が、ゴロゴロと転がっている。
見覚えのある谷川だった。まだ辺りは暗く、眼前に広がる鬱蒼とした森は、まるで不気味な怪物のように、黒くざわざわと風に蠢いている。
そんな中、見たこともないほどに大きな月が、青白く高遠の姿を浮き上がらせていた。
はじめは、近くに佇みながら、ただじっとその様子を眺めていた。
高遠は、古びた着物を身に纏いながら、なぜかぐっしょりと濡れ、どろどろに汚れている。
その腕に、誰かを抱きながら。
でも、よく見ると、それははじめで。
いや、はじめによく似てはいるけれど、違う人なのかもしれない。

そっくりだけれど、何かが違う。そんな感じがした。
そして、そのはじめにそっくりな人物もまた、高遠と同じような着物を着て、やっぱり泥だらけで、しかも血だらけだ。 首や足があらぬ方向へ曲がっている。

はじめは、上を見上げた。
はじめのすぐ背後には、高い崖がそそり立っている。ごつごつとした岩肌が月明かりを反射して、冷たく硬い岩を巨大な生物の一部のように見せている。
あの崖の上から落ちたのだろうか。この高さじゃあ、即死だったろう。
はじめはそんなことを考えながら、また、泣いている高遠へと視線を向けた。
この世の終わりだと言わんばかりに、泣き崩れて、死体を抱きしめている高遠。
はじめも、泣きたい気分になった。

ねえ、たかとお、おれはここにいるよ。
だから、こっちを向いて、もう、泣かないで。
お願いだから。
あんたのためになら、なんだってするから、だから、こっちを向いて…

そこで、目が覚めた。



障子越しに、朝の光が差し込んでいた。
けたたましいほどの鳥の鳴き声が、頭に痛い。
酷く汗を掻いていたのか、パジャマがぐっしょりと湿っていた。
畑を、見に行かなくては。
少し寝すぎてしまったようだ。
はじめは、そう考えて、起き上がった。

何かが、おかしい。

奇妙な違和感が、濃密な気配を伴って身体に纏わりついていた。
なぜか心臓が、不吉の始まりを知らせる太鼓のように、早いリズムを刻んでいる。
辺りを見回してみても、何も変わらない。いつもの自分の部屋だ。
数ヶ月前に、ただ一度だけ、高遠と契りを交わした部屋。
そう思っただけで、ぎゅっと苦しい気持ちに掴みこまれて、胸の奥が痛い。
高遠からは、あれきり連絡のひとつも無い。もしかしたら高遠は、はじめとのことを後悔していて、何も無かったことにしたいのかもしれない。
そんなことを考えて、余計に苦しくなる。息も出来ないほどに…泣きたくなる。
こんなに辛いのなら、何も知らなければ良かった。
そう、思うときもあるけれど、やっぱり、後悔などしてはいない自分。
はじめは、酷く似合わない苦笑を浮かべると、布団を捲り上げて立ち上がろうとした。
と…

「なんなんだよ… これ…」

自分の布団の中を見て、はじめは凍りついたように動けなくなった。
布団の中は、泥だらけだったのだ。

ふと、畳の上を見ると、すでに乾いた泥の足跡が、廊下に面した障子の向うからこちらへと続いている。恐る恐る足の裏を確かめると、やはり乾いた泥が、まだ、こびりついていた。

それは、予感だったのだろうか。
それとも、確信だったのだろうか。
はじめは部屋を飛び出すと、祖父が眠っているはずの部屋へと急いだ。

「ジッちゃん!」
叫ぶように呼んで、障子を勢いよく開けた。

「そんな勢いで、障子は開け閉めするもんじゃねえ!」

そう、祖父の声がいつものように返ってくることを、期待していた。
けれど、部屋には、誰もいなかった。
布団には、誰かが眠っていた形跡はある。寝乱れたまま、放置されている。
「もう… 起きてんのか…?」
独り言を呟くはじめの声は、なぜだか、酷く、震えていた。
几帳面な祖父が、布団をたたみもしないで起きることなど、今まで一度も無かったことをはじめはよく知っている。
「ジッちゃん? ジッちゃん、何処だよ…?」
家中をはじめは探して歩いたが、祖父の姿は、結局、何処にも見つからなかった。

はじめは、泥だらけになっている布団のシーツを洗濯機に放り込むと、家中の床を綺麗に磨き始めた。玄関についていた泥も、綺麗に掃きだした。
何も無かったように、すべての痕跡を消し去るために。
そうしてから、祖父がいないと村の自治会長に相談に行った。

町の警察にも捜索してもらったが、結局、祖父の行方はわからなかった。
盲いた老人が、そんなに遠くまで行けるはずが無いにも拘らず、その姿は、何処にも見つからない。
だが、何らかの事件に巻き込まれたとも考えられず、一週間が過ぎ、捜索は打ち切られた。

もう、生きてはいないだろう。
誰も口にはしなかったが、誰しもがそう考えていたのは確か。八十を過ぎた老人が、そんなに長く持つわけも無い。若い孫を家に縛り付けていることを苦にして出て行ったのかもしれないと、そんなことを言う人も中にはいた。
村の人々は、口々にはじめを慰めてくれたが、はじめの耳に届いてはいなかった。
魂の抜けた抜け殻、まさにそんな言葉がしっくり来るほどに、はじめは虚ろな表情のまま、家に閉じこもるか、沼に行っていることが多くなっていた。
「かわいそうにな」
そうは思っても、どうしてやることもできない。村の人々はそう考えて、そっと、はじめを見守っていた。

けれど…

はじめには、わかっていた。
祖父が、何処にいるのか。
覚えてはいないが、きっとそうなのだろう。
自分は一体、どうしてしまったのか? 何をしてしまったのか?
それを考えると、恐ろしくて仕方がなかった。

はじめは思い出す。
繰り返し、繰り返し、祖父との最後の夜のことを。
祖父の語った話を。



あの夜、祖父は酷く真剣な顔をして、はじめに話があると、言ったのだ。

「なんだよジッちゃん、えらくあらたまって」
「まぁ、そこに座れ」
祖父は、顔も上げずに自分の前を指した。
はじめは、仕方がないと言う顔をしながら、祖父の前に胡坐をかいた。
祖父の昔の自慢話やら、ほんとにあったのかどうかわからない若い頃の話などは、耳にたこが出来るほど聞かされている 。また、いつものお話か、と、はじめは気楽に構えていたのだが、なにやらこの日の祖父は、どこか雰囲気が変だった。
なにかを思いつめた、そんな表情を浮かべている。
そう言えばと、はじめは思う。
最近、何ごとかを考え込んでいる様子を見せる祖父を、度々見かけた。元々、思索に耽り始めると、寝食も忘れてしまうような所のある人だったから、あまり気にはしていなかったのだが、よく考えると、眼を患ってからはそんなことは無くなっていたなと思い当たる。

いったい祖父は、何を考えていたのだろう。
まさか、高遠とのことを感づかれでもしたのだろうか。
気がつくと、はじめは、穏やかならざる心地で、祖父の前に座すことになっていた。
しばしの沈黙に、手のひらが微かに汗をかき始めている。
難しい顔をして目の前に座る祖父を見ながら、はじめは、ごくりと生つばを飲み込むと、意を決したように口を開いた。
「…いったい、何の話なんだよ、ジッちゃん」
はじめがそう切り出すと、祖父は言いにくそうに口ごもり、そうしてから、やがて意を決したとでも言いたげに、口を開いた。

「…はじめ…実はな、おまえには…双子の、兄さんがおるんじゃ…」
祖父の言葉は、はじめには思っても無かったことで、酷く、驚いた。
「えっ、なにそれ! おれ、そんなこと、聞いたことも無いぜ!」
はじめの言葉に、深く頷きながら、祖父は言葉を続けた。
「それはそうじゃろう…今まで、ずっと、隠してきたんじゃから…」
「でも…なんで…」
「無かったことに、しておったんじゃ。おまえは、双子でなんか生まれてはこなかった、ひとりきりで生まれてきたんじゃとな。…この村から、守るために…」
言いながら祖父は、見ることのない眼で窓の外を見やった。はじめも、つられるようにそちらに顔を向けた。暗い窓の外には何も見えはしない。ただ、室内の光の反射で、はじめたちの姿が暗く映っているばかりだ。

「…おまえ、竜神様の沼に、よく行っとるんじゃろう?」
突然、ポツリと、祖父は呟いた。
「えっ? な、なんで?」
「隠さんでもええ。わしは、目は不自由になってしもうたが、おまえが嘘をついていることぐらいは見えとる」
そして、ため息を一つ、吐いた。
「竜神様が、呼ぶんじゃろうかなあ…」
「…ジッちゃん、いったい何の話がしたいんだよ」
「まあ待て、長い話なんじゃ。わしが子供の頃に、本当にあったことから話さねばならん」
覚束ない手つきで湯飲みを取ると、ずずっと音を立てながら、それを啜る。
話しにくいのだろう、いつもなら嬉々として昔話をする祖父が、こんなに回りくどいのを見たのは、たぶん、初めてだ。
仕方なくはじめは、祖父が話し始めるのを、根気強く待った。
居心地の悪さを、ずっと感じながら。

「なあ、はじめ。どうしてあの沼に近づいてはいけないと言われるのか、知っておるか?」
「ううん。怖い伝説があるからって言われてるだけだけど…」
祖父は、はじめの言葉を聞きながら、もう一口茶を啜った。

「…あの沼の神さまは、人間にとても深い恨みを持った『祟り神さま』なんじゃ。何でも大昔にな、戦でここまで逃げてきたお侍を、いざこざに巻き込まれるのを恐れたこの村の村長たちが、騙して毒を飲ませた挙句、沼に沈めたんだそうじゃ。そしたら、その日から毎晩、そのお侍が村人たちの夢枕に立ってな、言ったんじゃと
『必ずや、この世に再び蘇り、すべてを滅ぼしてくれようぞ』
とな。その後、侍殺害に関わった人間は、皆早く死に、村には疫病が流行って大変なことになったという話じゃ」

「でも…そんなの、ただの伝説だろ? んな迷信に、何みんなビビってんだよ…」
神妙な顔つきで話をする祖父に、はじめはわざと悪態をついた。
「大体が、それとおれに双子の兄貴がいるって言うのと、どう関係があんだよ?」
そのはじめの言葉に、傍から見てわかるほどに、祖父は身体をびくりと震わせた。
祖父の手元の湯飲みの中で、黄色味がかった色に抽出された緑茶の水面が揺れている。
はじめは、尋常ではない祖父の緊張感に飲まれるように、押し黙った。

「そうじゃな、全部、ただの伝説、迷信なら…いいんじゃがな…」
なぜか諦めを含んだ声が、祖父の咽喉から、零れ落ちた。



06/05/25 
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もう少し、早めにアップしたかったんですが、色々あって、止まっておりました。
すでに殆ど書き上がってはいたんですけど、やっぱり、話が暗いんで。
で、前編後編で予定していたのが…あと一回分伸びました。続きます。
今回アップした分が、書き足した分なのですが、あんまりホラーとして役には立っていないような…?

06/05/25UP
14/09/15再UP
-竹流-


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