竜神沼






   


昔、日本では、双子は不吉だと言われ、後に生まれた子供、もしくは女の子のほうを、生まれてすぐに里子に出したり、酷いときには殺したりしてきたという、残酷な歴史がある。
子供には何の罪も無いというのに、迷信とは、かくも恐ろしい。

この村でもご多分に漏れず、そのようなことが行われていた。ただ、少し違うのは、双子で生まれた内のひとりを、沼に返す、というものだった。

この村では昔から、双子の片方が、金色の眼を持って生まれてくることがあったという。
その子は竜神様の生まれ変わりだから、沼に返さなくてはならない。さもなければ、恐ろしい竜神の祟りがこの世に降りかかる。そんな言い伝えが、古くから語り継がれてきたのだという。
言い伝えが真実だったのか、それとも、そんな迷信が生んだ悲劇だったのか、今もよくわからないと、祖父は言った。

はじめの祖父が、子供の頃というから、それは昭和の初めの頃にあった事件だろう。



その日、まだ、幼かった祖父は、周りの大人たちが口々に、
「恐ろしいことじゃ、恐ろしいことじゃ」
と、何かをさかんに噂しているのを聞いた。

「…男同士で…しかも自分の弟と………だっていうじゃないか、怖いねえ…」

何の話をしているのやら、祖父にはさっぱり話が見えなかったが、どうやら悪いことをした男が捕まって、村の集会場へ連れて行かれたらしいと言うことだけはわかった。
小さな村に駐在所などがあるわけも無く、悪いことをしたヤツは捕まって縛り上げられると、とりあえず集会所へ連れてゆかれる。そうしてから町の駐在所に連絡を取って、町へ引き渡されることになっていた。けれど、こんな小さな村で、そうそう物騒な事件が起こることなど無く、その話を聞いた祖父は、行ってはいけないよという大人の声を無視して、こっそりと覗きに行ったのだった。

村の小さな集会所は、けれど、入る隙も無いほどに村の男たちが集まっていて、祖父の「罪人を一目見てやろう」という目論見は、ものの見事に崩れ去ってしまった。仕方なく諦めて帰ろうとしたとき、開いたままの戸口から、激しく何かを打つような音がして、低く誰かがうめく声が聞こえてきた。奥で怒鳴っているのは長老だろうか。いつもとはまるで違う、異様な空気がそこには漂っている気がした。
祖父は恐ろしさのあまり、逃げるようにして、家に帰ったのだという。

その日の夕刻に、その男が連れて行かれるらしいという話が出ると、家の者も皆、罪人の顔を一目見ようと表に出た。祖父も、母親の後ろについてそれを見に行った。なぜだか後ろ暗い、そんな気がして、ずっと母親の後ろに隠れるようにしていた。
少しすると、集会所の方から荒縄で縛られた若者が一人、村の猛者たちに引っ張られるようにして、裸足のまま、よろめきながら歩いてくるのが見えた。

途端、周りの大人たちがざわめく。

それは、線の細い若者だったのだ。とてもではないが、罪人などには見えない。
しかも、若者が身に着けている着物には、明らかに血だとわかるしみが至るところについていて、着物から出ている手足や頬にも青黒い痣が出来ている。見るからに痛々しいその姿は、酷い折檻を受けたことを如実に物語っていた。

と、その時、

「いやだ! いやだっ! おれも行く!!」
そう叫びながら、一人の若い男がこちらに来ようとしているのを、誰かが必死で抱きとめているのが、道の向うに見えた。見覚えのある二人。二軒向う、といっても随分と離れたところにあるが、その家に住む一人息子とその父親だった。母親は、なぜかその後ろで、蹲りながら泣いている。

「何も悪いことなんかしてないっ! おれも、おれも一緒に行く!」
「聞き分けの無いことを言うな!」

二人が言い争っているのが、祖父の所にまで聞こえた。
と、罪人の若者がその声を聞いて、足を止めた。そして、俯けていた顔を上げて、言い争う二人に視線を向けた。

その場に居るものは皆、一瞬、息を飲んだ。

漆黒の流れる髪が抜けるように白い肌に掛かり、金色としか形容の出来ない眼が、少し眇められて、寂しげな笑みを形作る。
今まで見たこともないほどに、美しい若者だった。
彼の細い身体を、紅い夕日が染め上げていて、印象的なその姿は、今も鮮明に焼きついていて離れないと、祖父は言った。

その薄く紅いくちびるが、何かを言おうと動きかけたとき、荒縄を握った村の男が、若者を引っ張って無理やり歩かせた。結局、何も言わないまま、若者はまた歩き始める。

「いやだっ! いやだよ、兄さんっ!」
向うで、父親に捕まっている若い男が叫んでいた。
けれど罪人は、もう振り返ることも無く、そのまま大人しく連れて行かれた。



「双子の兄弟だったんだと、わしも後から聞いたんじゃ。金色の眼を持っているとわかっていながら、我が子を死なせとうなくて、あの夫婦は片方を隠して育てていたんだと」
「見つかったから、連れて行かれたの?」
「いや、父親が自ら村長の所へ連れて行ったと聞いた。なんでも、恐ろしい禁忌を犯した言うてな。母親も、そのせいで諦めて手放したということだったらしいが、まあ、そんな事は、今さらどうでもいいことじゃ」

禁忌…

何かが、重く、はじめの胸に落ちてくる。
はじめはまた、手のひらを強く握ると、再び、祖父の話しに耳を傾けた。


村の男たちは、町まで行ったにしては、随分と早く戻ってきた。
祖父がそのことを母親に聞いても、何も答えてはくれなかったらしい。けれど、祖父にはなんとなく察しがついたという。金色の眼の双子は沼に返される。誰でも知っている、村の掟だ。だから、あの綺麗な若者も沼に返されたのだろうと、祖父は思った。それがどういうことなのか、その時は、意味もわからずに。

その後、残された弟の頭がおかしくなったと、村では噂されるようになった。
確かにあの時以来、彼の姿を見なくなっていた。
それまでは、よく子供の遊び相手もしてくれる、明るくてやさしくて、幼かった祖父たちにとってはとてもいい兄貴分だったのに。

時折、家の傍まで行くと、誰かの名前を繰り返し叫ぶ、彼の声が聞こえることがあった。
その声が酷く悲痛で、やがて村の者は皆、その家を避けるようになっていった。

そんなある夜、頭のおかしくなった件の弟は、家を抜け出した。
誰もが寝静まっている、深夜のこと。
月明かりしかない、危険な暗い真夜中の山中へと姿を消し、そしてそのまま、その弟は帰っては来なかった。

そして、その事件が起こったのは、弟がいなくなってから一週間ほどが過ぎた頃だったという。
ちょうど、双子の十八回目の誕生日の日だったらしいと、祖父は付け足した。


闇夜を劈く悲鳴が、村を震撼させた。
声は、くだんの夫婦の家からだった。

駆けつけた村人がそこで見たものは、まるで、獣にでも食い荒らされたかのような、夫婦の死体。
咽喉もとを食いちぎられ、はらわたを撒き散らせて転がる死体は、目を見開いたまま、苦悶の表情を浮かべている。生きたまま襲われたのが、一目でわかる有様だった。
けれど、獣に襲われたのではないことだけは、はっきりしていた。なぜなら、夫婦の死体は、縄で縛られていたのだ。

一体、誰が、こんなことを…

駆けつけた村の男たちがそう考えていると、「ぎゃっ」という悲鳴が、突然、自分たちの背後から聞こえた。振り返る間にも悲鳴が上がり、また一人と、村人たちが倒れてゆく。
訳もわからず、慌ててその場から離れながらも、再び振り返った者たちは、そこに妖しげな光を見た。
それが、闇の中に浮かぶ、まるで猫の目のごとくに輝く金色の眼だと気付くまで、そう、時間は掛からなかった。
慌てた村人の一人が、持っていた灯りを落としたのだ。
古い木造の家屋は簡単に火の侵略を許し、障子や床へと徐々に燃え広がりながら、上がる炎は暗い闇を照らし出す。

その向うに、村人たちは、信じられないものを見た。

血刀を携えた若者がひとり、足元に転がる、先ほどの悲鳴の主なのだろう村人の死体を踏みしめながら、こちらへと向かってくる。
それは確かに、先日、沼に沈めた若者の姿ではないか。
口からは、明らかに自分のものではない血を滴らせ、身に着けている着物も、その柄がわからないほどに血で染め上げた姿は、まるで鬼神のごとくに、おぞましく恐ろしい。
獣を思わせる金色の眼が、次の獲物を狙っているのだと、その場にいるものは、皆、直感した。若者は、まるで、目の前に燃え広がる炎など、無きものとばかりに平気で踏み越えて、こちらにやってこようとする。

最初に、悲鳴を上げたのは誰だったか。けれどそのおかげで、恐怖のあまり金縛っていた村人たちは正気に戻った。
めいめいに悲鳴を上げながら縁側から外へ、裸足のまま、皆、我先にと逃げ出した。それはまるで、蜘蛛の子を散らす勢い。しかし若者は、獲物を逃がさじとばかりに、人とは思えない速さで追いかけてくる。

その中には祖父の父親もいて、あの時は本当に必死で逃げたのだと、ずっと後になってから、恐ろしげに語ったのだという。

捕まった村人の首が飛ぶのを、幼かった祖父は、窓から覗き見ていたのだと、言った。
ひどく月の明るい晩で、大きな満月を背景に、刀を持って立つその男の姿が、今も、忘れられないと。
男にしては、すらりとした黒い影が、恐ろしさを通り越して、とても美しかったのだと。

「…こんなことを言ったら、ばちが当たりそうじゃがな、あの時はホントにそう思ったんじゃ。人の首を刎ねた男なのにの。あの時は、まるですべてが夢の中の出来事のようでな、信じられなかったのかもしれん」

恐ろしい話を語っているとはとても思えない表情を浮かべて、懐かしそうに、祖父は話を続けた。

不意に、猟銃の乾いた音が、闇の中に長く尾を引きながら響いた。村の何人かの男たちが、反撃に出るべく、猟銃を持ち出したのだ。
一瞬、弾かれたように、男の身体が揺れた。当たったのだろうか。けれど男はすぐに体勢を立て直すと、また、人とは思えない速さで、闇の中に紛れてゆく。
何度も何度も、獣を追うように、普段は聞きなれない重い猟銃の音が、夜の闇に繰り返し響いていた。

夜がすっかり明けてから、村人たちは、山狩りを始めた。若者の行方を捜すためだ。
結局、村人の被害は十数人にも及び、小さな村はさながら地獄絵図のようだったと、祖父は言った。

その被害者の中には、村の長老も含まれていた。
あの件の夫婦よりも先に、家の中で、刺し殺されていたらしい。
布団の中で、血まみれになって息絶えているのが見つかったのだ。

山道の所々に、血の後が続いていた。
撃たれたときに、やはりどこか怪我をしたのだろう。
各人、武器になるものを手にしながら、けれど、周りを伺うことを怠らずに、村人たちは血の跡を追った。
血は、やはり、沼まで続いていた。


その時、若者はまだ、生きていたそうだ。
遠巻きに、村人たちはその姿を見て、凍りついたという。
若者は、懸命に、何かを貪っていた。
必死で…、そう表現するのが相応しいのかどうか、今となってはわからない。けれど、祖父は、その現場を見た父親からそう聞いたのだと、言った。

若者が貪り食っていたもの、それは、その弟…だったもの。
あの夫婦の、息子…自分の兄弟だった。
無残に、肉もはらわたも大方食い尽くされてはいたが、なぜか、首から上だけは綺麗なまま、残されていたという。

村人の気配に気付いた若者は、顔を上げて、こちらを見た。
全員が、とっさに銃を構えたらしい。また、襲ってくるのではないかと。
だが若者は、正気を取り戻したかのような眼差しで、静かに村人たちを見つめていた。
全身、泥と血にまみれ、今も、口から血を滴らせながら。

なのに、彼は、泣いていた。

「どうして…? こんなことになった? ぼくはただ、愛していただけなのに… 傍にいたかっただけなのに… おまえたちが、ぼくから大切な者を奪ったんだ…」

絞り出された男の声が、恐怖に震えていた村人たちの胸を、打った。
そして、全員が気付いたという。
目の前の惨劇は、悲劇なのだと。
おぞましいだけの情景なのにも関わらず、目の前の若者は、悲壮なまでの悲しみに満ちている。

誰も、手にした銃を撃つ事はできなかった。

呆然と村人たちが見守る中、若者は転がる弟の生首を抱えると、ふらふらと立ち上がった。
はっとして、再び銃を構える村人たち。しかし、彼らは気が付いた。
若者の胸からは、大量の血が溢れ出していた。撃たれたのは、胸だったのだ。
なのに、まだ、動いて、生きている。
その場に居た誰もが、そこにいるのが人間ではないと、確信していた。
銃など撃っても、意味がないのではないかと。

ふと、若者が、ポツリと呟くように、口を開いた。

「ああ、でも、一つには、なれましたよね… もう、離れる必要なんて無いくらいに、ぼくたちは、一つになった…」

そうして、その首に、いとおしげに口づけて。
そうして、それを大切そうに、胸に抱きしめながら。
村人たちの見守る中、沼の中へと、帰って行ったという。

そう、沈んだのではない。帰ったのだ。

誰もが、そう信じて、疑わなかった。
だから、いつ、また、戻ってくるかもしれないと、皆、怯えているのだ。
今も、ずっと。

「ただ、その食われた弟が、若者に食い殺されたのか、何か別の理由で先に死んでいたのかは、今もわからんままなんじゃがな…」
話の最後に、祖父は意味深に、そう付け足した。

「な…んで、そんな話…今頃…するんだよ…」
はじめの声は、酷く掠れていた。
口の中が、妙に乾いている。
意識すると、余計そんな気がして、はじめは何度も唾を飲み込んだ。

そんなの、ただの、迷信だ。
金色の眼なんて、ただの言い伝えだ。
絶対に、そんなこと…あるわけない。

「…そうなんじゃ… おまえの、双子の兄も…金色の眼を…しておった…」
まるで、駄目押しのように、祖父はそう語った。

言葉が、出なかった。
周りの空気が薄くて、息さえもできない。そんな感覚を覚えた。
そうじゃないと、感情は激しく否定しているけれど、頭のどこかでは、そうなんじゃないかと、理解もしている。

寒くも無いのに、身体が、震えていた。

「最近… いや、高遠くんがいなくなってから、おまえの様子がおかしいのが、ずっと気になっていてな。それで、隣のしげさんに相談したんじゃよ。そしたらな、しげさんが、あの高遠くんの眼が、金色に見えたと言うてな。でも、よそ者じゃけ、関係なかろうと笑うんじゃ…」

そこまで一気に喋ってから、祖父は、まるで見えているかのように、はじめに顔を向けた。
「ジッちゃんは、目が不自由じゃからわからんかった。…本当に、高遠くんの眼は…金色じゃったんか…?」
「そんなこと…関係ないじゃん! なんで、そんなこと聞くんだよ!」
「もしかしたら、高遠くんは…おまえの兄さんかもしれん。…村のみんなには内緒で里子に出した、おまえの、双子の兄弟かもしれんのじゃ」
「そんなの、嘘だ! 絶対に、信じねえ!」
「はじめ、どうしてそんなにむきになるんじゃ! おまえ、高遠くんと、やっぱり何かあったのか?」
「何かって、なんだよ?! 何にもあるわけ無いじゃん! せっかく仲良くなった友達が、いなくなったから寂しいだけだろ!!」
「はじめ…落ち着け…」
「それを、なんだよ! まるで高遠が、化け物の生まれ変わりみたいに… ジッちゃんは、いったいおれに何が言いたいんだよ!」
はじめの言葉に、祖父は、ひとつため息を吐いた。

「人の腹から生まれた竜神は、ふたつに別たれた自分の分身を取り込んで、完全になろうとするんだそうじゃ。そのために、互いに惹き合うんじゃと…そう、言われておる」

苦しげに、祖父は、言葉を吐き出す。

「…わしはな、はじめ。本当は、あの時の若者が、不憫でならんかった。だから、おまえが双子で生まれたとき、絶対に出逢うことのないようにと、あの子を遠い街に養子に出したんじゃ。出逢いさえしなければ、そうすれば、どちらも幸せに生きてゆけるんじゃなかろうかと、祟り神としての恨みも忘れて、この世で幸せに暮らすことが出来るんじゃなかろうかと、そう、考えたんじゃ。」
「なに言ってんだよ…ジッちゃん…」
「わしが、愚かだったのかのぉ… 竜神様はすべてお見通しで、運命を操っておられるのかもしれんなあ…」
「だから、何言ってるんだって…」

もう、祖父の言っていることが、はじめには、よく理解できない。ただの伝説を真に受けて、狂っている気さえした。けれど、祖父は、言葉を続けた。

「お前の両親がわしよりも先に死んでしまったのも、おこがましいことを考えたわしに対する、バツだったのかもしれんのお」
祖父は、泣いていた。
「愚かなわしを、許してくれ、はじめ。できることなら、もう、高遠くんには会わないでくれ。…でも、すでに遅いのかも、しれんな…」

そう言ったきり、祖父は口を噤んだ。
はじめも、何も、言わなかった。

ただ、祖父が、何事かに気付いて、絶望していることだけは、わかった。



はじめの記憶にあるのは、ここまでだ。
その後、何があったのか、まるで覚えてはいない。
ただ、今は、これだけは言える。
祖父がどうやって死んだのかわからないと言っていた弟は、食い殺されたのではなく、谷に落ちて先に死んでしまったのだ。だから二人は、完全体になることが出来なかったのだと。
恐らく、はじめが夢の中で視た通りに。

それでも、その死肉を食らってまで、ひとつになろうとした男の気持ちが、胸に痛い。
伝説や、呪いや、祟りなどとはまるで違う『想い』が、そこにはある気がした。
けれど、自分が高遠と巡り会ったのも、竜神の操る運命だったということになるのだろうか。

でも、祖父が、大好きだった。
皺の寄った大きな手が、自分の頭を撫でてくれるのが、大好きだった。
いつか、ひとりになるだろうことは知っていた。覚悟もしていた。
まさか、こんな別れがくるとは、思いもしなかった。

どうして、こんなことになってしまったのだろう。
自分は、祖父に何をしたと言うのだろう。
高遠に出逢いさえしなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
これが祖父の言う、『祟り』の力なのか。

そうは思うのに、やっぱり後悔しない自分が、今は逆に、怖かった。

…ごめんよ、ジッちゃん。おれはさ、高遠のことが好きなんだ。これだけは、どうしても、譲れないんだよ。
たとえ、おれたちが、兄弟だったとしても…
おれが、ジッちゃんをどうにかしてしまったのだとしても…
それでも、どうしようもないくらい、高遠じゃないと駄目なんだよ。
ごめんよ、ジッちゃん…



八月に入って、けたたましいばかりの蝉の声が、村を包んでいる。
はじめは、今日も朝から、沼に行ったきりだ。
祖父がいなくなってからというもの、相変わらず、ずっとそんな生活を続けていた。

ぼんやりと、空を見上げながら、今日も一日を過ごした。
もう、日は翳り始めている。そろそろ、帰らなくてはならない時間だ。
そう考えて、口元に、苦い笑みが浮かんだ。

誰のために、帰らなくてはならないのだろう?
もう、誰もいない。

祖父が、自分の中で、こんなにも大きな存在だったのだと、はじめは今さらながらに気づいていた。

さびしい…
かなしい…

自分の中が、それだけでいっぱいで、身動きもできない。

「たかとお…早く…会いに来て…」
いつも、そう呟いては、涙ぐむ。
これ以上の孤独には、耐えられない気さえしていた。

高遠のためになら、何をあげてもいいのに…

気がつくと、月が昇り始めていた。
気味が悪いくらい、大きな満月だ。
暗い森の中で、木々が不安げに、ざわめいている。
ふと、自分しかいないはずの空間に、人の気配を感じた気がした。
振り返ると、木々の間に、すらりと細い影が立っている。
月明かりに照らされているその顔は、はじめが、会いたくて会いたくて仕方のなかったもの。

「…たかとお…?」
「はじめ…会いにきましたよ…」

高遠は、青白い光の中で、微笑んでいる。
嬉しいのに、奇妙な違和感をはじめは感じていた。目の前の高遠は、身体を膝まですっぽりと覆ってしまうほどの大きな厚手のジャケットを着込んでいる。いくら山の中とはいえ、この季節に厚着過ぎるだろう。

はじめが、訝しげな顔をしているのに気付いたのか、高遠は、ああ、という表情を浮かべると、その上着のファスナーを下ろした。

「邪魔になるモノを片付けてたら、ちょっと服が汚れてしまったので、隠していたんですよね」

べっとりと、血糊のこびりついたTシャツを無造作にジャケットの下から覗かせて、高遠は綺麗に笑う。
邪魔になるものとは、一体なんだったんだろう。
はじめは、高遠の血まみれのTシャツを見ながら、ぼんやりと思った。

養子に出されていたのだという高遠。
自分の子供のように、高遠を可愛がってくれていたであろう彼の養父母のことが、ふと思い起こされた。
家出の一番の邪魔になるもの、それは、自分にとって一番、身近なものではないのだろうか…

「もう、ぼくたちのことを邪魔するモノなんていませんから、これからはずっと一緒に居られますよ。ずっとね」
言いながら、高遠ははじめに向かって、手を差し出す。

でも、その金色の眼が、妙に光っている気がするのは、はじめの気のせいだろうか?
その唇が、異様に紅く染まって見えるのは、気のせいだろうか?
何より、街の人間がこんな時間に、どうやって暗い山道をここまで来れたのだろうか?

そう考えた時、沼の方からポチャリと、何かがはねる音が聞こえた。
見ると、月明かりの中に、沼から何かが突き出しているのが見えた。
茶色く泥にまみれた枯れ枝のようなそれが、はじめにはすぐ、なんだかわかった。

ああ…ジッちゃん、やっぱりここに、いたんだね…

茶色い枯れ枝は、五本の指を持っていた。所々、肉が削げ白い骨が見えている。

竜神はな、別たれた分身を「取り込んで」、「ひとつ」になろうとするんだそうじゃ…
不意に、祖父の言葉が、頭の片隅を掠める。

孫を愛するがゆえに、死んでもなお、それを食い止めようとするのか。
それとも、過去の惨劇を再び起こしてはならないと、警告しているのか。
けれど、はじめは申し訳無さそうに、笑みを浮かべた。

ゴメンな、ジッちゃん… 

再び、高遠に向き直ったはじめの瞳には、迷いなどなかった。
高遠が、竜神の生まれ変わりだろうが、そんなもの、かまわない。
竜神が、この世に災いをもたらすものだったとして、それがどうだというのだろう?

今、ここにいる高遠が、すでに以前の高遠で無かったとしても。
自分を体内に取り込んで、完全体になろうとしている「何か」なのであっても。
おれは…

はじめは、ゆっくりと、差し出された手に向かって、自らの手を伸ばした。
二人の手が、触れる寸前、はじめは思い出した。

「ああ、今日は、おれたちの十八回目の誕生日、だっけ…」

はじめの言葉に、高遠が笑みを深くしたのを、はじめは見た、気がした。




06/05/25   了
BACK
_______________________

竜神沼、ようやく完結です。
少々残酷な場面もございましたが、大丈夫だったでしょうか?
でも、思ったほど、怖い話にならなくて、がっくりです。
イメージ的には、「八つ墓村」だったんですが、全然違ってしまいました。
昔、落ち武者が殺されて沼に捨てられたというくだりも、もう少し突っ込んで書けばよかったんですが、一応考えてたんですが、根性無くて挫折。
なもので、わかりにくいお話になってしまった気がします。すいません。

最後まで、この作文にお付き合いくださった方に、感謝v


06/05/26UP
再UP14/09/18

-竹流-


ブラウザを閉じて戻ってください