BIRD CAGE Ⅰ
突然の豪雨に、避難できそうな場所を探していた。
山の斜面を切り取って出来た、海岸線沿いの道を歩いているときだった。辺りはすでに暗い。ほとんど街灯の無いこの 道で、うっかり暗がりに足を取られてしまえば、ガードレールがあるとはいえ、海へとすべり落ちてしまいそうな気が した。かといって、そそり立つ山の急斜面のどこにも、雨を避けて退避できそうなところはない。もとより、車の往来 もほとんど無さそうな道である。ヒッチハイクなどは到底望めそうも無かった。
顔に当たる雨を避けるために上げた腕は、けれどほとんど役にはたっていない。そんな激しい雨の中、まったくの無を 想わせる深い暗がりから、激しく打ち寄せる波の音だけが、恐ろしげに響いている。
気ままな一人旅の最中なのだ。
たまには電車も使うが、大抵は歩きとヒッチハイクで、日本中をあちらこちらへと回る貧乏旅行を長く続けていた。
この物騒なご時世に物好きな、と言う人もあるが、なかなかどうして、世の中まだそんなに捨てたもんじゃないと思う ことも多い。
だが、こんな台風のような豪雨の夜に、しかも誰の助けも望めない状況に出くわすと、「俺、なんでこんな無謀な旅を 続けているんだろう?」と、泣きたい気分になるときがあるのも確かだ。
そんな時、そんな自分のへたれ具合に、さらに泣きたい気分になってしまうのが、へたれがへたれたる所以なのだろう 。
などと考えている場合ではない。
次の町まではまだかなりの距離があるはずだし、記憶が確かなら、地図の上ではこの辺りに何も無いはずである。だが とにかく、どこかに非難できる場所を、意地でも探さなくては。
若者は懸命に目を凝らしながら歩いていた。このままでは風邪ひき決定だろうか。しかし、旅の、しかもこんな辺鄙な ところで、それだけは勘弁願いたい。
「そんなことにでもなったら…最悪、野垂れ死にもありそうだよな…」
ぼそっと、何気なく自分で呟いた言葉に、ゾッとする。
『旅の若者、救助者無く旅の途中で病死』
そんな新聞の見出しを思い浮かべて、よけい救いの無い気分に陥りそうになったその時、それは視界に飛び込んできた 。
緩いカーブを曲がった先に、オレンジ色の明かりが闇の中に浮かんでいたのだ。しかも、温かそうなその光は、灯台の 灯りなどではなさそうだ。
幻覚や都合のいい夢ではないかと、思いっきり頬を捻ってみるが、どうやら間違いではないらしい。岬の先に、人のい る建物があるということなのだろう。
「うっわ、俺ってマジ、ラッキーv」
軽い口調のわりに、声は震えていた。
雨に濡れそぼった身体はすでに冷え切っていて、動かす足も鉛のように重い。靴の中では、ぐちゃぐちゃと湿った嫌な 感触が、歩くたびに陰鬱な気分を呼び起こす。背中の荷物は重く圧し掛かり、もう、いくらも歩けないと思い始めてい たところに、その光は現れたのだ。
救いの神とばかりに、若者は力を振り絞って、その光に向かって歩を進めた。
道から外れた岬に、その建物はあるようだった。
少し離れた場所から見ても、それがかなりの大きさだというのがわかる。暗い闇の中にあって、さらに暗く大きな影が そこにはそびえていた。
それは、こんなところになぜこんな建物があるのかと、首を傾げたくなるような佇まい。
ただずっと、この場所で海風にさらされ続けている。そのためだけに、そこに建っている。
そんな寂しい風情を醸しているようにさえ思えた。
だが、そんなセンチメタリックなことを考えている場合ではない。
今は、そこにいる者が、雨宿りさえさせてくれれば、それでいいのだ。
海沿いの、見晴らしの良さそうなところに建っているのだから、もしかするとペンションかもしれない。もし、そうだ としたら、ふかふかの布団と、風呂と飯にもありつける可能性は大だ。
希望的観測を胸に、若者はひたすら光を目指した。
近づくと、それが石造りの立派な屋敷であることがわかった。いや、屋敷というよりは「館」の方がしっくりくるだろ うか。今、若者の目の前には、重そうな木製の扉がそそり立っている。
車寄せ、とでも呼んだ方が良さそうなポーチに、なぜか灯りは無かったが、両脇に設えられた窓からもれる光が、それ らを闇に浮き上がらせていた。
豪奢な、という言葉がぴったりくるような趣の館。あきらかに、ペンションではありえないだろう。
「…なんか、俺みたいなのが来ていいところじゃない気がするけど。でも、そんなこと言ってられないしな…」
ポーチに立ち、鉄製のライオンの形に咥えられた大きな鉄の輪で作られているノッカーを、冷たく濡れそぼって感覚の 無くなりかけている手で持ち上げると、意を決するように大きく息を吐いて、2度、ドアの表面を打ちつける。
どうか、おかしな変わり者が出てきませんように、と、心の中で祈りながら。
どうやら若者の意識の下では、「人里はなれた場所に住んでいる」イコール「人嫌い?」イコール「変人??」、とい う図式が出来ているらしい。
さほど待たないうちに、中から鍵を開ける重い音がして、ついで扉が、重厚な響きを伴いながら、ゆっくりと開かれた 。
「どちらさまですか?」
細く開けられたドアの向こうから、ローソクの明かりを手にした青年と思しき人物が、涼やかな声で若者に尋ねた。
ドアの間から、風に揺れるオレンジ色の光が、暗いポーチの床に筋を引いている。
青年の顔は、ドアの影に隠れてよく見えない。だが、普通に対応をしてくれそうな声に、若者は内心安堵の息を吐いて いた。
「夜分にすみません。あの、急に雨に降られてしまって、出来れば雨宿りさせていただきたいのですが」
「ああ、それは大変でしたね。どうぞ、中へお入りください」
慇懃な物腰で青年は扉を押し開くと、若者を中へと招きいれた。
「ありがとうございます」
若者が礼を述べながら中に入ると、ぱたりと後ろで扉は閉じられ、鍵をかける音が響いた。
中はやはり、外の重々しい造りに負けない豪奢な設えで、思わず息を呑んでしまう。と同時に、こんな状況でもなけれ ば、決して足を踏み入れることなど無い場所だと痛感していた。
今立っている場所は、二階まである吹き抜けの空間で、ホールと呼ぶに相応しい広さと、開放感に満ちている。正面に ある中央階段には、紅いカーペットが敷き詰められていて、まさに金持ちの邸宅といった造りだ。
-うわー、なんかすげぇ、外国の映画にでも出てきそうだな。
若者は、珍しげにきょろきょろと辺りを見回した。
左右には、細工を施した真鍮のノブを持つドアがいくつか並んでいる。だが、室内を照らす灯りはすべて蝋燭らしく、 どことなく暗い。しかしそれも、この建物の雰囲気にはとても似つかわしい気がして、まるで違和感は無かった。置か れている家具も、自分にはよくわからないが、きっとアンティークというやつなのだろう。乳白色の花瓶には、真紅の 薔薇が生けられてある。
一通り見回してから、自分が床に水溜りを作っていることに気がついた。
西洋式で生活しているらしいこの館には靴を脱ぐところが無く、入ったらすぐに室内という感じだから、なんだかとて も悪いことをしている気分になるが、しかし、びしょ濡れの自分にはどうすることも出来ない。大理石らしい滑らかな 光沢を持つ石の床面に、自分の足元から水溜りが広がってゆくのを、ただ気まずい思いで見つめているしかなかった。
広がる水面が、オレンジ色の光に照らされている自分の姿を、水鏡のように映している。
「これをどうぞ」
ふいに声をかけられて、飛び上がった。
若者が物珍しげに辺りを見回している間に、いつの間にか青年は、乾いたタオルを取りに行ってくれていたらしい。
「今、浴槽に湯を張っていますから、温まられるといいでしょう」
「あ、すみません…あの、それと床…」
若者はタオルを受け取りながら、自分よりも背の高い青年を見上げた。床を濡らしてしまったことを詫びようと。
けれど、次の言葉は出なかった。
その時初めて、若者は、青年の顔をはっきりと見たのだ。
大理石を思わせるほどに、滑らかで抜けるように白い肌には、鮮やかな紅をたたえた薄い唇を持つ形の良い口元が映え ている。そしてその中央には、まっすぐに通った細く高い鼻梁。だが、何よりも人を惹きつけるのは、少し下がり気味 の切れ長の眼、だろうか。
濃く長いまつげに縁取られた眼の中の虹彩は、暗い蝋燭の明かりの中でさえ、不思議な黄金色に見えるのだ。額の中心 で分けられた漆黒の髪が、その全てを際立たせている。
しかも、上から下まで、黒一色の衣装を身に纏った彼の身体は、まるでモデルのように細身で均整が取れていて、無駄 が無い。
何よりも、近寄りがたいほどの高貴な雰囲気を纏った佇まいが、この屋敷に違わない空気を醸し出し、美しいだけでは ない何かを感じさせていた。
ただ、その中にあって、細く弧を描く眉だけが、どこかしら冷たい印象を抱かせる、そんな青年だった。
「なにか?」
気がつくと、少し首をかしげて、苦笑交じりに青年が自分を見つめていた。
「あっ、いえ…」
咄嗟に視線を外して、俯いていた。
思わず、食い入る様に見とれていたのだろう。男が男に見とれるなんて、と、顔が紅くなる。しかも、きっとバカみた いにぽかんとしていたはずだ。
何やってんだ俺? と、頭を抱えて転げまくりたい心境だったのは、間違いない。
湯船に身体を沈めながら、ようやく人心地ついていた。
冷え切っていた身体が徐々に温まり、手足の感覚が戻ってくる。
もう6月だというのに、この冷たさは何なのだろう? そう思えるほどに、今夜の雨は冷たかった。まったく、こんな ところに人が住んでいて助かった。そう思いながら、浴室を見回す。やはり、この浴室も灯りは蝋燭だけだ。
電気が通っていないのか、それとも、今夜の雨で電線が途中で切れて、停電しているのか。
どちらにしても、今どきの家からは考えられないほどに、懐古趣味的なデザインの邸宅には違いない。本当に、古い映 画に出てきてもおかしくないだろうくらいには。
なにせこのバスタブも、猫足つきの代物なのだから。
そう、まるで時間が止まってしまったかのように、西洋の吸血鬼や幽霊なんかが出てきても全くおかしくなさそうな雰 囲気を、この館全体が纏っている。
不穏な…と言えば、言えてしまう空気感…
そう考えると、この館の空気全体が、どこと無く重い気がした。
「ま、風邪をひかないですんだんだから、何も文句無いし。さっきの兄ちゃんは、見てるだけで目の保養になりそうだ し。…って、床に水溜り作ったの、謝り損ねちったじゃん!」
何かを振り払うように、若者はため息とともに湯船の表面を覆っている泡を、吹いた。
浴室を出ると、衣服が用意されていた。
白いシャツに黒のスラックスという、まるでどこかの制服のような組み合わせだが、着てみるとサイズは丁度いいよう だ。ということは、彼以外にも誰か男性がいるということだろうか。このサイズは明らかに、さっきの青年のものでは ないだろう。
「弟…か誰か、他にもいるのかな? 使用人かなあ? そうだよなあ、こんな寂しいところに、一人ってことは無いよ な?」
確かに寂しすぎる場所だ。
一人だったら、俺なら気が狂いそうだ。
そんなことを考えながら、若者は浴室を後にした。
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07/06/14
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今のところ、名前が誰も出てきませんが、高遠くんはバレバレですね?
アンティークなどの知識がからっきしなもんで、薄っぺらい描写しか出来なくて申し訳ないのですが、まだ続きます( 汗)。
07/06/15UP
14/10/11再UP
-竹流-
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