リセット Ⅱ





「いやだ」
「…それは、きみの口癖なんですかね?」

目の前の男は、珍しく困ったような顔をして、おれを見つめていた。
ふたりでテーブルを挟んで、これから食事をするところだ。
この前のことを、流石に自分でもやりすぎたと思ったのか、今日はやけに豪勢な食事がおれの前には並んでいる。
白いテーブルクロスが掛けられ、花まで添えられたテーブルセッティングは、見た目にも美しい。けれど、おれの首には、相変わらず鎖の着いた首輪がはめられたままだ。逃げられないためになのか、ご丁寧にもテーブルの足に鎖はつながれている。
本当に、犬扱いだ。
テーブルには、プラスティック製の玩具みたいなフォークが載っている。皿の上には、すでに綺麗に切り分けられた肉が載せられている。おれが自傷することを避けるために、決して金属は与えられない。ましてや、ナイフなど。

「ガキみたいに、わざわざ切り分けられた肉をプラスティックのフォークで食えってかよ」
「箸のほうが良かったですか?」
互いにわかっていて、虚しいだけの口論を繰り返す。
「冷めてしまいますから、無駄な話はよしましょう」
「……………」
いいたい事なら、山ほどある。
けれど、これ以上言っても、仕方が無いのもわかってる。
おれはきっと、生きてここからは出られない。
この部屋にも、窓はない。部屋の時計は時間を示しているけれど、それが真実なのかどうかさえ、おれには確かめられない。今日が何日で、季節がなんなのかさえおれにはわからないんだ。常におれのいる空間は、適度な温度と湿度に保たれ、完全に外界とは切り離されている。
この男の支配する、この空間。それが、今のおれの生きているすべて。この男しだいで、おれは簡単に生き死にを決定される。エゴイストな王と、その奴隷、そんな関係。
もうおれは、それ以上反論することはやめて、大人しくプラスティック製のフォークを肉に突き刺した。
微かに紅い液体が、悲鳴のように、刺した部分から肉の表面に滲み出した。

何度か、逃げ出そうと試みたことならある。
でも、そんなことは無駄だと思い知らされて、身体に刻み込まれて、いつしかおれは、気力すらなくしてしまったんだ。
「は…はは…」
そんなことを考えていると、不意に力の無い笑いが、おれの口から零れ落ちた。
「何がおかしいんですか?」
不審そうな眼差しで、男がおれを見つめる。おれが、また何かをしでかさないかと、窺うような目つきで。
そんな男を見ながら、おれは余計おかしくなる。
こんなに筋肉が衰えて、ろくに歩けもしない身体で、一体何が出来るって言うんだ。
犯され続けて、いつの間にか、この男無しでは生きられなくなってしまったおれに…

「…なあ、こういうの、生きた屍っていうのかな?」
おれの言葉に、一瞬、男が息を飲んだ…気がした。



「こんな屈辱を味わうくらいなら、死んだ方がマシだ!」
攫われて間もなかった頃、逃げ出そうとして失敗して、やっぱりおれは、あの時もそんなことを口走った。縛られて、犯されて、絶望して、もう、これ以上は堪えられない、本気でそう想ったんだ。
「じゃあ、そうすればいい」
ベッドに縛られたおれを、冷たい眼差しで見下すように見下ろしながら、この男は不機嫌に言い捨てた。
男が出て行くと、鍵が掛かる音が響いて完全に扉は閉ざされ、そのまま何日もその扉が開くことは無かった。そう、おれは縛られたまま、放置されたんだ。
死にたいとは思っていても、腹は減ってくるし、咽喉も渇いてくる。生理的な現象もおれを苦しめた。最初は強がっていたおれも、長い時間が過ぎてゆくうちに、本当にこのまま、死ぬまで放置されるのかもしれないと、恐怖を感じ始めた。
昼も夜も無く、時間の感覚の無い部屋の中で、誰に知られることもなく死んでゆく。
きっと、なった人間にしかわからない。縛られた手足は自由が利かず、なす術もなく衰弱してゆく自分を自覚しながら、ただ、死を待ち続ける恐怖は。
発狂するんじゃないかと思った。
時折、発作のように動かない手足をバタつかせ、声の限りに叫び続けて、力尽きて意識を失う。何度かそれを繰り返しながら、おれは、ついには、声すら出せなくなっていった。
縛られた手首や足首は擦り剥けて、破れた皮膚の間からは血が流れ出していた。
だんだん目覚めている時間が少なくなって、乾ききった咽喉を通るヒューヒューという自分の呼吸音だけを聞きながら、もう、体の感覚がなくなりだした頃、閉じていたドアが開かれた。

あのとき、死んでいたらと考えることもある。
でも結局、この男はおれを殺す気など、今のところは無いみたいだ。あの時も、そうだった。言うことを聞かないおれに、お仕置きをした、この男にしたら、そんな軽い感じだったらしい。
「衰弱して、死んでゆく気分はどうですか?」
意識が朦朧としているおれを、腕を組みながら、楽しそうに眺めていた。
『くそったれ…』
そう、乾ききった唇を動かしたけれど、声にはならなかった。そんなおれを見ながら、この男は嬉しそうに、笑みを深めた。
くそったれ…
もう一度、頭の中で呟きながら、おれはそのまま、また意識を失った。

そうしておれは、命拾いしたんだ。


この男は、なぜこんなことをするのだろう。
おれが反抗さえしなければ、おとなしくしていれば、特に何をするわけでもない。
おれを抱く以外は。
おれはといえば、嫌だ嫌だと言いながら、もう、この男に歯向かうことも、抵抗することも出来なくなっていた。
何か言えば、以前ほどではなくても、この前のような目に合わされる。
自分の弱さを突きつけられて、どうしようもなく、自分が嫌になってくる。そうして、意志の力さえ奪われてゆく。
これが、この男のおれに対する復讐だと言うのなら、素晴らしい成果だといえるだろう。
この男が今まで作り上げた計画犯罪などよりもずっと、人を傷つけ貶めることに成功している。
作り上げたのは、殺人自動人形なんかではなく、生きたダッチワイフってところか。

「はは…」
笑いながら、涙が零れてくる。
でも、食わなきゃ死んじまうから、飯は食う。
死にたいと頭では思っているのに、死ぬのは怖いんだ。
こんなになっても、生きていたいんだ。
生きたいと願うのは、生き物の本能なんだろうか。
それがたとえ、何の希望も無い、生であっても。

目の前の男は、そんなおれをただ黙って見つめている。
何を考えているのか、まったく心の動きを見せない、月色の瞳で。



その日、おれの元にやってきた男は、少し様子が違っていた。
薄暗いおれの部屋に、酷くぎこちない動きで入ってくると、おもむろにおれの首にはめられた首輪の鍵を外した。
「…これで、自由ですよ。好きなところへ行きなさい」
「えっ…、なに、おれ、外へ出ていいの?!」
首輪が外されたのだから、飛び出して逃げ出せばいいものを、長い間閉じ込められていたからだろうか、おれはその事実を戸惑いの感情で受け止めていて、どうしていいのかわからない。
「…おかしなことを聞きますね…もう、自由だと言っている…」
苦笑めいた笑みに口元を歪めながら、男は答える。けれど、その様子はやはりおかしい。
「…どうした? なんか、変だぞ?」
おれの言葉が終わらないうちに、男はがくりと床に膝をついた。
見ると、床には黒いシミが徐々に広がってゆく。ドアからこちらに来るまでの床にも、それは転々と落ちていた。
男の身に纏っている黒い服は、良く見るとわき腹のあたりから、濡れているようだった。
思わず、ベッドから降りて、男の身体に触れていた。途端、男の体が崩折れるように、もたれ掛かってきた。
「あんた、一体、どうしたんだ?!」
「…少しばかり…失敗しましてね…」
男の身体を抱きかかえながら、おれは床に座り込んだ。腕の中の身体は、浅く速い呼吸を繰り返している。そして、止まることなく、暖かい液体を流し続けていた。

「たかとお…」
「…ここへきてから、初めてですね、名前を呼んでくれるのは…」
「…うん…」
フッと、男が微笑んだのを感じた。
「きみには…随分とひどいことをしたのに…なぜ、こんなことをしているんです? …早く、行きなさい…」
「死に掛けている人間を…放っていくことなんて、できない…」
「…どうしようもない…お人よしですねえ…きみは…」
苦しそうに息を吐きながら、腕の中の身体は、小刻みに震え出す。
「寒いのか? たかとお?」
「…いいえ…きみはとても…温かい……ねえ、金田一くん…?」
「なに?」
「…わたしは…しあわせ…だったんですよ…」
「なにが?」
おれが聞き返すと、大きく息を吐いて、そして。
「…きみ…を…」
けれど、それ以上の言葉は、返ってこなかった。
男の身体から力が抜けて、急に重くなった。
「…たかとお?」
どうしてかな? 動かなくなった男を抱いて、おれは泣いていた。
閉じ込められて、いいように扱われて、命さえ、玩具にされて、自尊心も何もかも、ずたずたにされたはずなのに。
なのに、今、おれは、確かに悲しいんだ。
嬉しいわけじゃない、憎いわけでもない、ただ、哀しい。
本当は、気付いていたから。
この男が、おれを攫った理由を。なぜ、おれに執着するのかを。

おれを抱く、この男の腕は、いつもとても、やさしかったんだ。
大切なものに、触れるみたいに。

認めたくなかった、認められなかった、だから、諦めた。気付いていないことにした。
自分の中に、いつの間にか生まれていた、感情もすべて。

「…なんで、鍵なんか外しに来たんだよ… そのまま放っとけば、道連れにできたはずだろ? あんたと…一緒に…逝けたのに…」

動かない身体を抱きしめながらその懐を探ると、思ったとおり、冷たく硬い塊が手に触れた。ゆっくりとした動作でそれを取り出すと、確認するように、目の前にかざす。
黒く冷たい光沢を放つ拳銃が、おれの手の中に握られていた。
弾倉に弾が入っているのを確認すると、おれはそれを、静かに頭に当てた。
震えながら。止めどなく、涙を流しながら。

死ぬのは怖い。
なのに人は、どうしてときに簡単に、その垣根を乗り越えてしまうのか。
それは、たぶん、本当の意味で絶望したとき。
生きる希望をなくしたとき。
自分の中で、とても大切だったものを、なくしてしまったとき。


消して。
全部、なかったことにして。

初めから、やり直そう。
出会う前から、その前から。

ホントはね、とっても好きだったんだ。
何をされても。
囚われていたのは、身体だけじゃなかったんだ。
でも、いけないことだから、認めなかった。
あんたは人殺しで、おれはそれを、阻むもの。
それ以外のものに、決してなってはいけなかった。

この次は、もっと違う出会い方をしたいな。
こんな不幸な顛末を、迎えなくてもいいように。
どうか、神さま、お願いだから。

だから今は、この人生を、リセットさせて。



06/12/21   了
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暗い結末でした。
絶対に、はじめちゃんならこんな結末は望まないと思うのだけど。
彼はとても強い子だから。
でも、パラレルだということで、勘弁してやってください。
本当なら、こんなお話は書くべきじゃないんだろう。
今、自殺とか、問題になっているし。でも、どうしても書かずにいられなかった。
人生は、そんなに簡単にリセットできるのか?と。逆説的に。
とても、そんな話じゃないところが、自分、歪んでるのかなあ…

06/12/21UP
再UP 15/01/23
-竹流-

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