世界で一番、醜くて美しいもの Ⅴ
部屋に入ってくるなり、高遠は掴んだままだったおれの手を引き寄せて、息も出来ないほどに力強く、おれの身体を自分の胸に掻き抱いた。
それはあまりに突然で、おれは声も出ないまま抱きしめられて。
そんな高遠の行為に戸惑ったせいなのか、おれは高遠の背中を抱き返すことさえ、思いつかなかった。
素肌のままの身体に、高遠が身につけている綿のシャツの感触が触れている。その布越しに、高遠の温もりが伝わってくる。確かな鼓動が、伝わってくる。
なぜかな。
身体に触れる存在の確かさ。ただそれだけで、おれはまた、涙が出そうになるんだ。
だらりと下げた両腕ごと抱きしめられたまま、軽く唇を噛んで溢れてきそうになる涙を懸命に堪えて、高遠の肩に頭を乗せた。
そうして、目の前にある高遠の白い首筋や、癖の無い漆黒の髪をぼんやりと見つめながら、こんなにも自分はこの男のことが好きなのだと、もう一度、胸の奥で噛み締めていた。
きっとおれは、本当に高遠がおれを殺すためにこの部屋に来ていたのだとしても、それをも喜んで受け入れていたんだろう。
あれほど、犯罪を許せなかったはずの、おれが。
諦めたように瞼を閉じると、温かな雫が、眦から零れ落ちたのがわかった。
どれほどの時間そうしていたのか、やがて静かなテノールが、吐息のように微かな声で闇を震わせた。
「…ずっと、裸のままでいたんですか? とても冷たくなってしまっていますね…」
「…えっ?…そっか? あのまま泣き疲れて寝てしまってたから…きっと冷えちゃったんだな…」
返した声は、少しばかり鼻にかかった涙声だったかもしれない。それでもできるだけ、泣いていることを気付かれないようにと普通に喋ったつもりだったのに、僅かに語尾が震えてしまっていた。
そんなおれの声に何を思ったのか、その途端、高遠の身体がこわばったのがわかった。おれを抱きしめている腕が、少しぎこちなくなる。
「たかとお…?」
「……はじめ… ぼくは…」
振り絞るような、苦渋に満ちた声が聴こえたと思った次の瞬間、おれの唇は高遠の唇に塞がれていた。
闇の中で重ねた唇は、何かを焦るように、最初から深く互いの口腔を探り合い酸素を奪い合った。
ふたりの身体の間に生まれる空間すら惜しむかのように、離れていた時間を取り戻そうとでもするように、おれたちは互いの身体を掻き抱いて、より密着しあった。
もう、言葉なんて、必要じゃなかった。
そのまま、おれたちはもつれるようにして、ベッドにダイブしていた。
ああ、高遠だ。
そう思うだけで、また新たな涙がおれの眦から零れ落ちる。
もう駄目だと諦めていたのに、やっぱり高遠はおれのことを想っていてくれたのだと、高遠の温もりがおれに伝えてくれる。
手放そうとしていたものが、今、こうして自分の手の中にあるということが、これ以上ないほどの喜びをおれに与えてくれる。
愛していると、思った。
誰よりも愛おしいと、心の底から思っていたんだ。
本当に。
「はじめ…」
熱い吐息とともに、高遠がおれの名を呼ぶ。
それだけで身体の奥に熱が点って、高遠に触れられる部分がまるで全部性感帯になってしまったみたいに、深く快感を全身に伝える…はずだった。
いつもなら。
なのに、どうしてだろう。
あれだけ、高遠を欲しいと思っていたのに。
高遠の温もりを。その身体を。
なのに…
高遠の指が身体の表面に触れるたび、その唇が肌を滑って性感を確実に煽ろうとするたび、おれの身体は大きく戦慄く。
それが、決して快楽のために起きているわけではないと、おれにはわかった。今、自分の頭の中が訴えている感情に、おれは覚えがあったんだ。
そうだ、これは恐怖だ。
あの日、ジャックに触れられたときに覚えた感情と同じだ。
今、自分の身体に触れているのは、確かに高遠だと頭ではわかっているのに、彼の手が自分をまさぐるたびに、身体は思い出してしまう。
あの日、ジャックに犯されそうになったときの、恐怖を。
「…………っ!」
思わず上げそうになってしまう叫び声を、手の甲で口に蓋をして懸命にかみ殺して、震えながら、ただひたすらに耐え続けた。
これは高遠だ、他の誰でもないんだと、胸の中で何度も自分に言い聞かせる。それ以外のことは懸命に考えまいとして、頭から追い出そうとした。
なのに、うまくいかない。
一番好きな人が自分を求めてくれているのだと、そしてまた、自分自身も求めていたはずだと、わかっているのに。
フラッシュバックというやつなのか、行為が進むにつれ、恐怖心は大きくなる一方で。
それでも、必死に我慢して頑張っていたんだ。ここで高遠を拒絶したら、本当におれたちはおしまいになってしまうかもしれないと、おれは恐れてた。
心と身体が、まったく別の恐怖に縛られて、バラバラになってしまっている。
そんな気がした。
おれは、こんなにも高遠のことが好きなのに。
やっと高遠が、もう一度おれを受け入れてくれようとしているのに、こんなことでまた高遠を失うことになってしまったら、もう、生きていけないかもしれないとさえ心は感じていて。
でもそれは、裏を返せば、おれが心の奥底では高遠の気持ちを信じきれてなかったってことに、なるのかな。
怖いと思っていても、頭の中とは裏腹にだらしのない身体は快楽を感じて、高遠の愛撫を受けると素直に反応していた。おれの身体に唇を這わせながら、その熱を確かめるようにおれ自身に指を絡ませていた高遠の指が、さらにその奥のつぼみへと伸ばされたときも、まだ、大丈夫だった。堪えられた。
けれど、おれの零した先走りのぬめりを絡ませた指先が、体内に入り込もうとしたとき、不意に限界が来た。
「やっ! いやだっ!!」
思わずそう叫んで、自分の上にある高遠の身体を両手で突き放そうとしていた。
すぐにベッドサイドの灯りがつけられて、視界が明るくなって。
そしてようやく、おれは我に返った。
「はじめ?」
見ると、高遠が酷く驚いた顔をして、上からおれを見下ろしている。
そんな高遠の、オレンジ色の明かりを映して琥珀色に染まった瞳の奥に、失望という文字が隠れている気がして、おれはまた、違う意味で怖くなる。
「あ… おれ…いやだなんて… おれ…そんなこと…」
何を言っていいのかわからないまま、口から零れた声は、自分でも哀れに思えるほどに、震えて掠れていた。
いや、声だけではなかった。いつの間にか胸元で握り締められた手も、その手が触れている身体も、がたがたと大きく震えているのが自分でもわかる。視界が酷くぼやけているのは、きっと涙のせいなのだろう。
高遠が悪いんじゃない。
それなのに、まるで高遠のせいだと言わんばかりに怯えているおれを見て、高遠は何を思っているのか。彼の驚きに見開かれていた眼が、やがて少し悲しげに眇められるのを見ながら、おれは呆れられて捨てられるのではないかと、怖くて仕方がなかった。
高遠の手が、何かを確かめるみたいに、ゆっくりとおれの頬に伸ばされる。そして、その手のひらが僅かにおれに触れた途端、おれの身体はおれの意思とは関係なく、思わず目を瞑って大きくびくりと震えてしまう。そんなおれの反応に驚いたのか、一度は離れた手が、今度は大切な花にでも触れるような柔らかさで、再びおれの頬に触れてきた。そうしておれの頬を包むと、その指先は、そっとおれの涙を拭った。
温かな手のひらが、まるでおれを落ち着かせようとするみたいに、優しくおれの頬を撫でている。慈しむようなその感触に恐る恐る目を開くと、目の前には、おれを心配そうに覗きこんでいる高遠がいた。
その顔は、決して不機嫌そうではなく、むしろ穏やかに優しくおれを見つめている。そんな高遠を見ていると、少しずつおれの気持ちも落ち着いてきた。
「…たかと…」
弱くおれが呼ぶと、頬を撫でていた手が止まった。
「落ち着きました?」
「うん」
「もう、大丈夫ですか?」
「…うん」
おれの返事にホッとしたように、高遠の下がり気味の目が柔らかく笑んで。そして、おれを見つめたまま、その紅く薄い唇が後悔の言葉を、紡ぎ始めた。
「こんなに震えて、こんなに…青ざめて…」
高遠の指先が、まだ濡れているおれの眦を拭う。
「…すみません。まさかきみが、こんなに怯えるとは思ってもいなくて… きみが深く傷ついていると、ぼくはわかっているつもりで、本当は何ひとつわかってはいなかったのだと…思い知りました…」
高遠の表情が、今度は哀しげに曇る。
いつもポーカーフェースで、あまり感情を表に出さない高遠が、こんなにもめまぐるしく表情を変えるのは珍しい気がしていた。と同時に、高遠が自分のことで、こんなにも心を痛めてくれるのだと感じて、おれはまた、泣きたいような気分になる。
「ねえ、はじめ。もう、これ以上何もしないから… きみを抱きしめてもいいですか?」
少しだけ首をかしげて、高遠が訊ねてくる。その表情は、酷く不安そうだ。
「うん」
おれの返事を聞くと、また、そうっと花でも抱えるみたいに、高遠はおれの身体を包んだ。
おれの耳元で、高遠が何かを堪えるみたいに、ほおっと息を吐くのを聴きながら、おれもおずおずと高遠の背中に手を回す。
すると。
「…どうか、ぼくのことを、嫌いにならないでください…」
突然、懸命に感情を押し殺したような声がおれの耳元でしたかと思うと、優しくおれを抱きしめていた腕に力が込められた。
「ずっと傍にいて…ぼくだけを愛していてくださいっ」
高遠の身体は、少し震えていた。
「はじめ… お願いです。ぼくから、離れて行かないで…」
どこかしら、哀願する響きを持った声は、最後には掠れて。
そんな高遠の言葉に、おれは我慢できずに、また涙を溢れさせていた。
ああ…そうか。
高遠も傷ついていたんだ。
おれを許せない感情と、失いたくないと思っている感情との狭間で。
おれは、自分だけが傷ついていると思って、高遠を責めてばかりいたけれど、不器用な感情をどうしていいのかわからないまま、高遠も傷ついていたんだ。
なのに、怯えさせて、ごめんな。
きっと高遠は、何よりも拒まれることが、怖かったに違いないのに。
今まで、誰も本気で好きにならなかった心は、子どもみたいに無邪気に残酷に、愛されることだけを求めてしまうんだろう。
それでも、互いに傷ついて傷つけ合って、そうして少しずつ、想いは育ってゆくのかな。
ひとつ大きな試練を乗り越えて、おれたちもこの想いを、育ててゆけるのかな。
なあ、高遠。
おれは、思ったんだ。
おれも高遠も、相手を失うことばかりを恐れて、本当は互いのことをちっともわかろうとしてなかったんじゃないかって。
自分の想いばかりが優先で、そのくせ、相手に嫌われることが怖くて。
好きだから、自分だけのものであって欲しくて、自分だけを好きでいて欲しくて。その独占欲のために、逆に相手のことが見えなくなってしまう。
それは、なんて自分勝手で、醜い心なんだろう。
相手のことを考えているつもりでも、結局はすべて、自分だけを見ていて欲しいから、愛していて欲しいからという理由で、本当はみんな、自分が満たされることしか考えていないのかな。
もしかすると、「きみのために」とか「愛してる」なんて言いながら、そんな言葉で相手を縛るだけの、ずるくて利己的な感情なのかもしれないね。
でも、それでも。
もしも、この世界のすべてからその心が、想いがなくなってしまったら、それはどんなにか殺伐とした世の中になるだろう。
誰かを愛すること、何よりも大切に想うことを知っているから、きっと人は優しくなれるんだ。
だから。
この試練は、ふたりで乗り越えてゆこう。
たとえ傷ついて、ぼろぼろになっても。
高遠とふたりでなら、きっと、できるはず。
ふたりで生きることを、決めた日のように。
「大丈夫、おれは高遠が好きだよ…ずっと、好きだよ」
まだ微かに震えている高遠の背中に回した手に、おれも力を込める。おれの想いが、少しでも高遠に伝わるようにと。
「ほんとう…ですか? はじめ」
また耳元で、掠れた高遠の声が囁く。
そんな、自信無さげな声を聴かされるだけで、おれはまた、愛しいと思ってしまう。世界中の誰よりも。
「うん… だから高遠も、おれのこと、ずっと好きでいてくれる?」
「もちろんですよ!」
即答してきた高遠の声は、もう、いつもの調子を取り戻していた。そしてそのまま、おれを抱きしめていた手が、少し怪しげな動きを始める。
…さっき、何もしないと言ってたんじゃなかったっけ? てか、たかとお、立ち直り早すぎ。
そんなことを考えていると、覆いかぶさるようにしておれを抱きしめていた高遠が、やや気まずそうに、おれの顔を覗き込んできた。
「すみません、はじめ… さっきは何もしないと言いましたけど… あの…」
流石に自分でも、節操がないと感じているのだろう。
おれの身体には、すでに熱く滾っている硬いものの感触が触れていて。それがもう、どうにもなりそうに無い状態なのが同性であるおれにはわかるだけに、一瞬、返事に詰まってしまう。
それでも、やっぱりさっきまでの恐怖を思い出すと、簡単に諾と頷くことは出来そうにもない。
なのに、バツが悪そうにおれを見つめるその高遠の顔が、妙に初々しく照れた表情を見せるものだから、おれはうっかり微笑んでしまっていたんだ。
それを、OKの意味だと受け取ったのか、高遠がもう一度、おれに訊いてくる。
「…いいん…ですよね?」
いつも思うけど、あんたってば、こういう時は非常に前向きだよね…
惚れた弱みとはよく聞くけれど、告白された側のおれの方が、折れる回数が多い気がするのは、単なる気のせいなのか?
仕方がないなと思いながら、高遠の背中にまわしていた腕を今度は彼の首にかけて、そして、自分の方へとゆっくりと引き寄せた。
「じゃあ、おれが怖がる余地も無いくらい、すっごく優しくしてくれる?」
「お姫さまを扱うようにして差し上げますよ」
おれに引き寄せられるままに、高遠は続けた。
「もう二度と、怖がらせたりしませんから…」
そして、とても優しい、口吻けをくれた。
本当に、愛ってなんて利己的な代物なのだろう。
相手を想うからこそ、相手のすべてを求めてしまう。
心も身体も、すべて。
それはもしかすると、おれを犯そうとしたジャックもまた、そうだったのかな。
時には、相手を傷つけて、時には自分をも苦しめる。
愚かで弱くて、醜い感情。
でも、それらをすべて乗り越えた先にしか、真実はないのかもしれない。
不確かな未来と、脆い人の心。
愛するがゆえに悲劇が起こることもあるけれど、きっと、それで救われることもあるはず。
誰かを深く想う心は、やっぱりとても美しい。
少なくとも、おれはそう思うんだ。
誰かを心から愛するということ。
それは、この世界で一番、醜くて美しいもの、なのかもしれないね…
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08/10/22 了
14/09/03 改定
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やっと完結できましたv
去年の夏だったんですね、連載を始めたのは。
イメージはあったんですが、途中で引っかかってしまったために
長く中断してしまって、すみませんでした(汗)。
一応、書きたい結末には、持っていったはずです。
が、萌えるかどうかは…うう~ん(悩)。
最後まで、ぬるい18禁で申し訳ないですxx
08/10/23UP
15/03/03再UP
-竹流-
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