世界で一番、醜くて美しいもの Ⅳ
瞬間、何かが、自分の中で切れた気がした。
ぷつりと、鈍い音さえ立てて。訳のわからない衝動に突き動かされるみたいに、おれはそれと自分で意識する前に、着ていた物に手をかけていた。
突然、目の前の高遠が、ぎょっと驚いた表情を見せた。
「何をするんです?!」
非難めいた色を帯びた声が、高遠の口から絞り出されるのを聞きながら、おれはそのまま、着ていたTシャツから、ジーパンから、その下につけていた下着まで全部脱ぎ捨てて、何も纏わない姿で高遠の前に立った。
最後に、髪を止めていたゴムを外すと、伸びた髪が、肩に背中にと纏わり付く。
まだ、陽は高い。
陽の光が差し込むリビングで、高遠の前で自分のすべてを晒している。
見つめていると、高遠がつばを飲み込んだのが、上下するのど仏の動きでわかった。
まだ、おれに対する欲望がなくなったわけじゃないのかな?
いっぱいいっぱいのくせして、そんなことを頭の片隅で考えたりする自分に、苦笑が漏れそうになる。
そう、余裕なんて、この身体のどこにもない。
本心を言えば、こんなことをするのが恥ずかしくないわけじゃない。
こんな風に、自分から身体を差し出して、相手を乞うなんてことが。
けど、自分でもどうしようもないんだ。
おれは、今すぐに結果が欲しい。
もう、耐えられない。
もしも…
もしも、これで駄目だったら、この恋は、諦めよう…
そう、心の中で、決めていた。
「抱いてくれよ」
ソファーに掛けたまま、微動だにせずにおれを見つめている高遠に向かって、おれは口を開いた。
高遠は黙ったまま、答えてくれない。だから、おれは、そのまま言葉を続けたんだ。
「それとも、おれは汚れてしまったから、…もう、いらない?」
長い沈黙が、おれたちの間に落ちた。
欲しくて、欲しくて。
高遠だけが、欲しくて。
悲しいから、安心したいから、欲しくて。
胸の中に空いた、大きな傷口を、埋めて欲しくて。
…でも、高遠が受け入れてくれないのなら、仕方ないね…
涙が零れ落ちて、素肌に降りかかった。
高遠は、やっぱり答えては、くれなかった。
「…そっか、わかった…」
震えそうになる身体を、必死で押しとどめて、おれは脱ぎ捨てた服を拾い集めた。
嗚咽が漏れないように、懸命に下腹に力を入れて。
最後に笑って別れたいと思うのに、それだけは、どうしても出来そうになかった。
「…荷物まとめたら、すぐ、出てくから…」
一刻も早く、高遠の前から消え去りたくて、拾い集めた服を着もしないで、背を向けたときだった。
「どこへ…行くんです?」
冷たい響きの声が、おれの背中に投げかけられた。
その時、どこへ行くのかと、初めて考えた。
出て行くといいながら、行き先も何も、まるで考えていなかったことに、自分でも呆れるほかない。
それはきっと、駄目かもしれないと思っていたくせに、心のどこかでは、高遠は受け入れてくれると、信じていたんだろう。
滑稽だなと、思う。
目に見えない不確かなものを、信じていた自分が。
でも、ほんの少し前まで、それは確かに、あったはずなのに。
人の絆は、なんて脆いものなんだろう。
「どこでもいいだろ…」
仕方なく、おれも投げやりな言葉を返す。
おれがどこに行こうと、もう高遠には関係ない。
だって高遠は、答えてくれなかった。許してくれなかったじゃないか。
「…ジャックのところ…ですか」
さらに追加される棘を含んだ言い様に、おれは苛立つ。
高遠は本当に、おれを信じてくれていないんだと。
「ああっ! ジャックでも誰でもいいんだっ! おれを抱いてくれるんなら、もう、誰だっていいっ! その辺を歩いてる名前も知らない男のところだってかまわないんだ!!」
まるで女の子がするみたいに、ヒステリックに叫びながら、おれは振り返った。
そして、はっと我に返っていた。
高遠がおれを見ていたんだ。
言葉を失ったみたいに、目を見開いておれを見つめてる。
月の光を集めて出来たような虹彩が、陽の光をはじいて綺麗に輝いてる。
ああ、そうだ。
いつも優しく見つめてくれた高遠のその眼が、おれは、とても好きだった。
おれだけを見つめて、微笑んでくれていたその眼が。
どうしてだろう、なんだか随分と昔のことのような気がするな…
「…もう、放っておいてくれ。あんたは…答えてくれなかったじゃないか。おれが傷ついていることも、わかってくれなかったじゃないか。おれだって、まさか、あんた以外の人に触られて感じるだなんて、思ってもいなかったんだ。こんな身体になったおれが、厭なんだろ? 許せないんだろ? だったら、もう、いいじゃん… 放っておいてくれ…」
おれの声は、震えていただろう。
そのまま、おれは部屋から飛び出していた。
あの部屋にいたら、無様に声を上げて泣きそうで。
怖くて、高遠を見ることは、もう、出来なかった。
廊下の突き当たりの白い扉を開けると、見慣れた青い寝室が目の前に飛び込んでくる。そして、その明るい光に満ちた部屋の中心には、大きなベッドが。
そこは、ふたりで想いを紡ぎあっていたはずだった場所。
幸せを分かち合っていたはずだったその場所は、今は冷たく沈黙しているばかりだ。
おれは、扉を閉めると中から鍵を掛けて。
何も身につけないまま、全身から力が抜けたみたいに扉にもたれ掛かりながら、その場に座り込んだ。
涙が溢れて、苦しさが込み上げて、どうしようもなくて。
声を限りに、おれは、泣き叫んでいた。
もう、終わり。これで終わり。
なんて簡単なんだろう。
全部捨ててもかまわないとさえ思った、恋だったのに。
抑えることが出来なくて、大の男が子供みたいに泣きじゃくって。
胸が潰れて、死んでしまいそうな気さえするのに、こんなことで人が死なないことぐらい、わかってる。
苦しいのに、この胸が楽になる薬も、この世界にはないんだ。
きっと高遠は、呆れただろう。
どこまで淫乱なんだって、厭になったはずだ。
なんで、こんなことになっちまったのかな。
おれは、高遠だけが、好きなのに。
なのに、この身体に最後に触れたのが、高遠じゃないなんて。
もう、今は誰でもいい。抱いて、暖めてくれるなら。
高遠じゃないなら、誰だって同じだ。
だって、おれは、汚れてしまってるんだから。
凍えるように、自分の身体を抱きしめて。
こんな自分らしくない自分が、すごく、嫌いだと思う。
でも、どうしていいのか、わからない。
苦しくて仕方がないんだ。
どのくらい、時間が経ったのだろう。
ドアをノックする音に、眼が覚めた。部屋の中はもう真っ暗で、いつの間にか、泣き疲れて眠っていたのだと気が付いた。
「はじめ、ここを開けてくれませんか」
ノックの合間に、高遠の声が聞こえる。
思わず立ち上がって、寝ぼけた頭のまま、ドアノブに手を掛けて。そしてその瞬間、さっきまでの出来事を思い出していた。
「なんか冷えると思ったら、まだ裸なんだ…おれ…」
自分の身体を見下ろしながら、自嘲気味にクスリと笑う。
「はじめ? いるんでしょう? はじめ」
ドアの向こうから、高遠がおれを呼んでいる。それだけで、また、泣きそうになるくらい幸せな気持ちになってしまうおれは、全く、どうしようもないバカだ。
「何しに来たんだよ…」
精一杯、強がった言葉を返したら、胸の奥が、押しつぶされるみたいな痛みを訴える。
「はじめ、ここを開けてください」
高遠が、おれを呼ぶ。以前と変わらない口調で。
その声に、ふと、高遠はおれを殺しに来たのかもしれない、と思った。
おれを許せなくても、でも、他の誰かのものになるのは、もっと許せない。
たぶん、高遠は、そんな男。
でもそれは、確かにおれのことを、想っていてくれたという証。
高遠なりの、愛の形じゃないのか。
じゃあ、それでもいいか、とおれは思う。
この人と一緒に、最後まで夢を見ていたかったけど。
人として、普通に生きて欲しいと、願っていたけど。
でも、高遠に殺されるのなら…きっと、楽になれるだろう。
たぶん、高遠も。
おれは、少し狂い始めていたのかもしれない。でも、そうとしか考えられなくて、自分でそう納得して。
そして、ドアを開けようとしたとき、また、高遠の声が聞こえた。
「ぼくは、本当はわかっていた。きみが悪いわけじゃないことも、きみが傷ついていることも… でも、どうしても許せなくて、ずっと、意地を張っていたんです」
それは、切実さを含んで、おれの胸に響いてくる。
「きみを失いたくない。はじめ、もう一度ぼくに、チャンスをくださいっ!」
ノブを握ったまま、おれは動けなくなっていた。
妙に視界がぼやけて、まるで水の中にいるみたいだった。
おれのことを殺しに来たんだと思ったのに、でも、そうじゃないのかな?
もしかすると、おれが思っているよりもずっと、高遠はおれのことを想ってくれているのかな?
なんて。
また、眼に見えないことを信じようとしている自分は、やっぱり滑稽で。
でも、そんな自分を…おれは、いとおしいと想う。
誰かを、無条件で信じること。
それを盲目と、呼ぶ人もいるけど。それはきっと、命を掛けた恋を知らない人が使う言葉だと、おれは、思うんだ。
涙を拭うと、鍵を外して、ゆっくりとノブを回した。
そっと伺うように、少しだけドアを開けて外を覗いてみると、廊下の明かりを背景に、立ち尽くしている高遠がいて。
「たかと…?」
おれが小さく呼ぶと、影になっている高遠の顔が、泣きそうな感じで眉を寄せたまま、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「…愚かなぼくを、許してくれますか?」
高遠はそう言うと、おれに向かって静かに手を差し伸べてきた。
「うん…」
おれは、ドアを押し開くと、迷うことなく、その手を掴んだ。
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07/08/29
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やっと、歩み寄った感のあるふたりです~。
あ~、なんだか自分でもホッとしていたりv
やっぱりこのふたりは、ラブラブでいて欲しいんですよね。
じゃあこんな話書かなきゃいいのに、書いちゃうし。
なんて複雑な女心なんだ…
まだ、少しだけ続きます。
07/08/29UP
15/03/03再UP
-竹流-
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