世界で一番、醜くて美しいもの Ⅲ




ジャックは、殺されてはいなかった。
いや、そうだとは分かっていたけど、もしかしたら…なんていう思いもどこかにあって。
でも、無事だと聞いて、心底安心した。
高遠は、少しは変わったのだと。もう、人を簡単には殺さないのだと、おれは安堵の息を吐いていた。
そう、おれが心配していたのは、ジャックではなくて、高遠のことだったんだ。

『まだ、やつは入院中だけどね』
自業自得ってやつさ。

今、おれの耳元で明るく笑い声を上げているのは、店に出てこないおれを心配して連絡してきてくれた、クラブの責任者のメルロだ。
事件があったとき、高遠の知らせを聞いて控え室に一番に駆けつけてくれたのが、このメルロだったらしい。おれは意識を失っていたから、何も覚えていないんだけどさ。
彼が駆けつけたとき、ジャックはボコボコにされて、その上縛られて、まるでタロットの『愚者』のカードのように、ロープで天井から逆さまに吊るされていたんだそうだ。
それを聞いただけでも、高遠の怒りがどれほどのものだったのかが、判る気がした。

『それにしても、あの時は驚いたよ。消失マジックの途中で、本当にヨウイチが消えちまってさ。助手をしていた娘も慌ててな』

驚いたという割には、太い声が楽しげだ。
あの日、高遠はまさしく舞台に立っている最中に消えうせ、数分間行方をくらますという荒業をやってのけたらしい。予定していた場所から現れない高遠に、助手が慌てている様子を見せるのを、最初はショーの演出と捉えていた観客だったのだが、なかなか出てこないマジシャンに客席もざわざわし始めた頃、舞台から一番遠いテーブルの下から突如として高遠は現れた。

『お客様の美しい御足につい見とれてしまって、出そびれてしまいました』

そう言って、その席にかけていた老婦人の手を取ると、手の甲に恭しく口吻けたのだそうだ。
観客は大喜びで、拍手喝采だったとメルロは言った。
あれ以来、客足は衰えるどころか逆に増えたよ。まったく、何が受けるかわからんもんだね、と彼は笑う。
『でも、ヨウイチにはどうして君の危険がわかったんだろう。やっぱり愛の力は偉大だということかね』
おれと高遠とのことを知っているメルロは、そう言って感心するけれど、おれにはそのからくりがなんとなくわかっているから、曖昧に笑うことしか出来なかった。
『落着いたら、また店に出ておいで』と言ってくれる彼に、ありがとう、心配かけてごめんと答えて会話を終えたおれだったけど、口からは重いため息しか出てこない。
きっとあの時、高遠は部屋のどこかに盗聴器でも仕掛けていたんだろう。
おれを心配していたからなのか。
それとも、疑っていたためになのか。
そのどちらかの理由で…

「何にしても、ちゃんと話をしないとな…」
そう思っていたのに、おれはこの後、さらに一週間も、高遠に無視され続けることになった。


指一本触れられないまま、一週間以上放置されたことなんて、今まで一度もなかったんだ。その上、話し掛けようとしても、綺麗にスルーされるし。
最初は、やっぱりおれが原因なのだからと、流石に大人しくしていたんだけど、あまりにも露骨な高遠の態度に、仕舞いにはだんだんおれも腹が立ってきて、話しひとつ聞こうとしてくれない高遠に対して、色んな感情が湧いてきてしまった。

高遠が怒ってるのは、わかってる。
たぶん、すっごく怒っているんだろう。
でも、おれにだって言い分はあるのに聞こうともしないのは、どう考えても、ずるい。

だから今日、おれは思い切って自分から高遠に声をかけた。しかも絶対に逃げられないように、ソファーに掛けている高遠を挟むみたいにして、正面から背もたれに両手を着いて。
すぐ目の前に、高遠の綺麗な顔があった。こんなに近くで高遠の顔を見るのは、久しぶりだ。
月色の眼差しが、おれを捉えている。でも、おれを見つめるその瞳には、何の感情も読み取れない。
少し、おれの中で何かが怯む。
何を緊張しているのか、手のひらが汗ばんでくるのを感じる。
でも、話さなくちゃ。
わかって貰わなくちゃ。
そうじゃないと、何かが壊れてしまいそうな気がしていたんだ。
本当はずっと、高遠に抱いて欲しかったんだって。
わかって欲しかった…

そう、ずっと、温もりが欲しかったんだ。
あのことがあってから、ずっと、気が狂いそうなほどの、想いで。
誰でもない、高遠の温もりが欲しかった。
それで全部、忘れさせて欲しかったのに。

なのに、高遠はわかろうともしてくれなかった。
まるでおれが…汚らわしいみたいに。

苛立ちと、腹立たしさと、満たされない想いと、どこか諦めのような悲しさと。
全てをミキサーで砕いてかき混ぜたみたいな、そんな複雑な感情を抱えたまま、おれは目の前の高遠を睨みつけていた。

正直言うと、このときおれは、喧嘩の末に殺されてもいいとさえ、頭のどこかで考えていたんだ。
それほどに、何かに追い詰められていたんだろう…



「で、おれが悪いってのかよ」
おれが不機嫌さを全面的に押し出した声で言ったら、目の前の高遠は、かすかに口元に冷笑を浮かべた。
「ご自分の胸に訊いてみたらどうですか?」
突き放すように、冷淡な口調で返される言葉。
おれの必死の想いを、高ぶっていた感情すらも、一矢の元に貫いて凍らせてしまう、そんな眼差しで見つめられて。
「本気で…おれが裏切ったと…思ってんのか?」
絞り出した声は、微かに震えていた。
祈るように、高遠を見つめていたけれど、高遠の表情は変わらない。
「…何とでも言えますよね。言い訳なんて」
再び返される言葉は、やはり拒絶以外の何者でもなかった。
おれは、もうこれ以上、高遠をまっすぐに見ていられなくて、ソファーから手を離すと、よろけるように、あとずさった。

どうしようもないほどに、いきり立っていたはずの感情が、いつの間にか、どこか投げやりな気持ちへと摩り替わってゆくのを感じていた。
苛立ちと、腹立たしさと、満たされない想いと、諦めのような悲しさと。
その中で、最も苦しい感情だけが、自分の中で大きく育ってゆく。

おれのことを想ってくれているから、高遠は怒っているんだと思ってたけど。
そう、信じていたけど。
本当は、高遠は、自分のプライドが、一番大切なのかもしれないな。
おれよりも。

そう考えた途端、すっと、体温が下がってゆく感覚を覚えた。
それは何かを失った、絶望にも似たもの。

おれは、高遠が一番、好きなのに。
ずっと、側にいたいと。
一緒にいたいと、想っていたのに。
どうして、こんなことになった?
どうして。

ドウシテ、ワカッテクレナインダロウ…





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07/08/21
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久しぶりに、続きアップです。
またしても短くて、スミマセン。
しかも、相変わらずちっとも裏なお話じゃなくって、申し訳ないです(汗

07/08/21UP     
15/03/03再UP
-竹流-


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