世界で一番、醜くて美しいもの Ⅱ
そのまま、おれは意識を失ったらしい。
いつの間にか家に連れ帰られていて、いつものベッドに寝かされていたようだ。
目を覚ますと、どうやら真夜中のようで、明かりを落とされた部屋の中は暗かった。
傍に眠っているはずの人を確認しようと手を伸ばしても、そこには冷たいシーツの感触があるだけで、人の温もりを伝えてはこない。顔をそちらに向けたけれど、やっぱりおれの隣に高遠は眠っていなかった。
妙にけだるい身体を起こして辺りを見回すと、窓辺で椅子にもたれかかっている見慣れたシルエットが、空に薄く雲が掛かっているためになのか、酷くぼんやりとした月明かりを背景に浮かび上がっているのを見つけた。
「たかとお?」
明かりを点けようとベッドサイドに手を伸ばした瞬間、不意に手首に激痛を感じて、思わず手が止まる。
なぜ、こんなところが痛いのだろう?
そう考えて… おれの身に何があったのかを、思い出した。
知らず、震えた息が、零れ落ちていた。
「気が付いたんですか」
おれの方に顔も向けないで、突然、高遠の口から吐き出された言葉は、まるで氷のように冷え切っている。
「…うん」
そのまま、また、高遠は黙り込んだ。
『大丈夫ですか』の一言もなく、ただ沈黙している。
あの場に踏み込んできたのだから、何があったのかは、高遠自身が一番わかっているはずなのに、おれを責める言葉すら、ない。
7月だというのに、気まずい空気が部屋の温度を下げている気がした。
おれはそんな空気に耐えられなくて、明かりを点けるべく、もう一度スタンドに手を伸ばした。手首が悲鳴を上げるみたいに、痛みを訴えていた。
暗い室内に明かりが点されると、そんなに明るくもない電球色の光が、目に痛いくらいの眩さに感じられて、咄嗟に顔をしかめて。でもその後、瞬時に光度を調節する人間の目の機能に助けられて、おれはすぐに明るさに慣れてしまう。
恐る恐る高遠に目を向けると、肘掛に肘を付いて、手のひらに頬を預ける形で窓の外に顔を向けている姿が、暗くガラスに映っている。その奥に、ベッドの上で不安そうな表情を浮かべたおれの姿も見えている。
高遠が怒っているのは、一目瞭然だった。
ガラス越しでも、表情まではっきりとは見えなくても、それがわかる。
けど、おれには、まず訊かなければならないことがあったんだ。
「あの…たかとお… 殺して…ないよね?」
「なにをです?」
不機嫌そうな言葉が返される。
「……ジャック…」
おれがその名を口にした途端、高遠の手がピクリと神経質に反応した。
周りの空気が、さらに険悪さを増す。
「…心配なら、確かめに行ったらどうですか? キスを許して、その上、手でイカせてもらうくらい仲良しなんでしょう? ぼくはお邪魔でしたかね?」
棘のある高遠の言葉に、さすがのおれもカチンと来る。
「なんだよそれっ?! おれが、自分から誘ったとでもいうのかよっ!」
「ふたりきりだったんですから、わかりませんよね? 手を縛られていたのだって、そういうプレイだったのかもしれないし」
「おれがそういうの嫌いだって、知ってて言ってんのかよっ!」
「ぼくとそんなことをするのが、単に嫌だっただけかも知れないじゃないですか。…ぼくが駆けつけたとき、きみは、抵抗すらしていなかった…」
こちらに顔を向けもせずに、突き放すように放たれる言葉に、腹が立って、悔しくて。
そして、絶望的に…悲しかった。
高遠は、おれが同意していたと、思ってるんだ…
酷くショックを受けていた。
わけもなく身体が震えて、涙が溢れてくる。
「お、おれが…どんなに怖い思いをしたのか…全然…わかって…くれないんだな…」
おれのその言葉に、高遠の肩が微かに動いたのがわかったけれど、高遠はそれ以上、何も言わなかった。
おれは明かりを消すと、そのまま、またベッドに横たわった。
酷く疲れていて、もう、何も話したくはなかったんだ。
だって高遠は、おれの話なんか、これっぽっちも聞いてくれない。
おれを、信じてくれていないんだ…
震えながら、懸命に目を閉じて。
思い出してしまう恐怖を、込み上げる悲しさを、ただ堪えながら、おれは眠った。
朝になって、おれが目を覚ましたときには、高遠の姿は部屋の中にはなかった。
おれの手首には、縄で縛った痕が赤黒く残っていて、内出血のためだろうか、全体的に紫色っぽく腫れている。外そうとして暴れたせいなのか、かなり酷く皮が擦り剥けて、見るからに痛々しい。
きっと普段の高遠なら、おれが眠っている間に傷の手当てをしてくれただろう。でも、今回のことは、おれが悪いと思っている。
だから、手当てもしてくれないし、おれの話を聞いてもくれない。
本気で怒っているんだ。
だって、おれ、レイプされかけてたはずなのに、イッちゃってたし。
わけがわからなくなっていたとは言え、キスだって、濃厚なのしてた覚えがあるし。
高遠が勘違いして怒るのも、無理はないよな…
見下ろしていた手首の傷に、透明な雫がはらはらと零れ落ちていた。
いつの間にか、また涙が零れていたらしい。
傷に落ちた涙は、とても沁みて痛かったけど、胸の奥のほうが、もっと痛かった。
痛くて苦しくて、心臓を引きずり出して掻き毟りたいほどに、辛い。
気が付くと、手首が血まみれになっていた。
それは滴って、ベッドのシーツまで汚している。
不思議に思って、両手を眺め回していたら、爪が血に染まって、先端には皮膚らしい赤いものが詰まっているのに気付いた。どうやらおれは、感情的にパニクって、自傷行為をしたらしい。傷跡に爪を立てて、抉るように掻き毟ったのだろう。
なんでこんな馬鹿なことをやってんだ、おれは…
冷静に考えると、意味のない行動は本当にバカらしい。
しかも、無意識に自分を傷つけていたのだと思うと、なんだか怖い気もする。
けれど、それは確かに、自分がしたこと。
手首が痛い。
痺れるように、じんじんとした痛みが奥から沸いてくる。滴り落ちる血が熱を伴って、焼け付く感覚を覚えさせる。
でも、その痛みで、本当の痛みが誤魔化される気がして。
おれは、泣きながら、笑っていた。
朝日に明るく満たされている寝室は、残酷なほどに、静かで穏やかだ。
もう、駄目かもしれないと、どこかで想っていた。
もう、高遠は、おれを許してくれないんじゃないかと。
一人きりの、静かな寝室の中で、おれは一人凍えていた。
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07/07/19
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2、アップです~。
なんだか、今のところ救いがないのですが、ご勘弁を(汗
しかも裏なのに、Hくもなくってスミマセン。
まだ、もう少し続きます。
07/07/20UP
15/03/03再UP
-竹流-
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