君に伝えたい言葉 Ⅱ




アキラやヒカルの生まれ育った国では、18歳になると徴兵という名の選別が行われる。
学力の優秀な者、一芸に秀でている者、そして特別税という名の徴兵免除のための大金を払える者、身体に障害を持つ者、もしくは疾患を持つ者、それらに該当する者たちは徴兵を免れることができる。そしてそれ以外の者は、なんと抽選で懲役か免除かが決まってしまうのだ。
確率は2分の1ぐらいだろうか。
ヒカルは子供の頃から囲碁が強く、昨年度のプロ試験ではトップの成績で合格していた。
高校を卒業する今年の春から、プロとしての活動が始まる予定だったのだ。だからアキラは、ヒカルが免除対象であると信じて疑わなかった。
新しい条例が追加されていたことなど、まるで知らないでいた。



アキラの父親は国会議員だ。
仕事一辺倒で、ほとんど家に帰って来る事は無い。アキラの母親は早くに亡くなっていて、彼の相手は幼い頃から家政婦か家庭教師がしていた。
孤独で無かったと言えば、うそになるだろう。けれど今まで、一度でもそんなことを言った覚えは無い。何でも一人で我慢してしまう子供だった。
彼の一種頑なな性格は、こんな風に作られてきたのかも知れない。


学校では必然的に周りとは壁ができた。
大人ばかりに囲まれて育ち、子供らしい遊びもしたことの無いアキラにとってそれは当然の成り行きだったし、それを寂しいと思ったことは一度も無い。成績も常に上位をキープし、品行方性で何事も卒無くこなし、役員の仕事も厭な顔一つせずに快く引き受ける彼の学校での評価が低いはずも無く、すこぶる教師受けは良かった。だが、そんなアキラに反感を持つ生徒も少なからず存在していて、些末な嫌がらせなどは日常茶飯事的に起こり、いやな思いをすることも度々あった。
けれどそんなことはどうでもよかったのだ。
アキラにとって学校生活などただの義務にしかすぎず、日々繰り返されるだけの退屈な日常で、それ以上でも以下でもありはしなかった。
決定的に何かが足りなかった。
でもそれが何なのか自分でもわからない。
胸の奥に大きな穴がぽっかりと開いていて、ずっと冷たい風が吹いているような気がしていた。
ヒカルと出逢ったのはそんな頃だった。
その日、学校の帰り道でアキラは数人の上級生に絡まれていた。
父親のことで、言いがかりをつけられていたのだ。たとえ名門の私立に通っていても、こういう輩は何処にでもいるものらしい。

「親父が国会議員だからって、生意気なんだよ!」
ドンと、肩を強く押され、気が付くと壁際へ追い詰められていた。人通りの少ない、路地のように狭い道だ。
「父とぼくとは関係ありません」
「それが生意気だって言うんだよ!」
相手の一人が腕を振り上げた。
-殴られる!-
そう思って目を閉じた時、
「お巡りさん!こっちこっち!ここで喧嘩してるんだって!」
知らない少年の声が聞こえたかと思うと、周りを囲んでいた上級生たちは、蜘蛛の子を散らすように慌てて逃げ出した。アキラが呆然とそれを眺めていると、突然、すぐ横から声をかけられた。
「よっ!大丈夫だった?」
「うわ!」
ビックリして振り返ると、相手もビックリしたような顔をしてアキラを見た。
「あれ? おまえ、男だったの?」
少年はアキラの髪形を見て、女の子がいじめられていると勘違いしたらしい。確かに小さな頃から、男の子にしては奇異な髪形と整った容姿も相まって、よく女の子に間違われたりしていたが…。
でも…、とアキラは思った。

-君に言われたくないな-

目の前の少年は、まったく普通の少年らしい服装をしていたが、睫の長い大きな琥珀色の瞳といい、少し赤みを帯びた丸い頬といい、ふくよかな唇といい、何処から見てもかわいい女の子にしか見えなかった。少し舌足らずな口調がそれに拍車をかける。

-いや?…女の子…なのかな?…どっちだろう?-

「君こそ…男の子?だよね?」
「あたりまえだろ!」
そう言って、ぷっと頬を膨らませる。その様子が余計かわいくて、思わずその頬をつついてしまっていた。
ぷすっと音を立てて空気が抜けると、彼は顔を真っ赤にした。
「なっ! 何すんだよう! おまえ! 信じらんねえ!」
その様子が可笑しくて、アキラはくすくすと笑った。自分でも信じられないくらい、それは自然に零れ出ていた。
「あっ! 笑ったな! もう! 助けてやったのに!」
「ご…ごめん、君があんまり…」
「俺があんまり何?!」
「い…いや、ごめん、何でもないんだ。さっきはありがとう、助かったよ」
アキラがにっこりと笑って素直に礼を言うと、彼の怒りはおさまったらしい。ちょっと照れくさそうに頬を掻いた。
「わ、分かればいいんだよ!じゃあな!」
「待って!」
そのまま踵を返して行こうとする彼を、アキラは咄嗟に呼び止めていた。どうしてそんなことをしたのか、アキラ自身にもわからない。ただ、このままこの少年と会えなくなるのがイヤだった。今まで友達を欲しいと思ったことなど、一度も無かったのに。
「ぼくはアキラ!君の名前は?」
彼が驚いた顔をして振り返る。でもすぐに、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
金色の前髪が陽の光に透けて煌めいている。素直に綺麗だと思った。そしてその瞬間、まるで天啓のように閃いたのだ。
やっと、見つけたと。

「俺はヒカルだよ」
「ヒカル…また、会える?」
「うん、俺んち、この近くなんだ」
「じゃあ、ここにくれば会えるんだね?」
「うん!」
こうして二人は友達になった。
まるで何かに導かれるように。

その日から、二人は度々会うようになった。
すべてにおいて正反対と言ってもいいほどに、外見も性格も違う二人だったが、不思議とその違いが心地よかった。
ヒカルはアキラの知らなかった子供らしい遊びのことや、今、彼の通っている学校で流行っているものの事などを、楽しそうに教えてくれる。
アキラはアキラで、ヒカルの勉強を見てやったり、学校であったことなど色々と話した。
けれど何よりも驚いたのは、お互い、囲碁をやっているということだった。
子供にしては、珍しい趣味なのではないだろうか。
そんな意外なヒカルとの共通点を、アキラは心から嬉しいと感じていた。
アキラの父親は議員になる前は、名人位を持つプロの碁打ちだった。物心つく前から囲碁は身近にあって、今ではアキラも囲碁のプロを目指している。プロに指導碁を受けているのもあるだろうが、一つのことに執着しだすととことん追及する性格も相まって、アキラの棋力は相当なものである。その辺のアマチュアなど、とても足元にも及ばないだろう。
そのアキラがヒカルと打ってみて、唸った。
恐ろしく強かったのだ。
アキラと対等に打ち合える同年の者がいようとは、今まで思いもしなかった。いや、諦めていたと言った方がいいだろうか。これは別に驕りでも何でもない。事実、その棋力の高さゆえ、一般の子供の大会には一度として出場することを許されなかったのだから。
父、行洋に。
ヒカルもまた、大会などには出たことが無いという。
その理由をヒカルは笑って答えてはくれなかったけれど、アキラは気にしなかった。
ただ、ヒカルと出逢ったのは運命だと、強く感じた。
満たされている自分に気が付く。
もう、胸の奥の空虚さに震えることは無かった。
時間の許す限り、アキラはヒカルと会い、ヒカルもまたアキラが会いたいと言えば時間を作ってくれる。そして、二人で話したり碁を打ったりして過ごすのだ。こんなにも誰かと一緒にいることが心地よく、楽しいと思ったことは今まで一度も無かった。だから、家庭教師の来る時間に間に合わなくなったりすることが、度々起こった。
それは、そんなある日のことだった。
珍しく行洋が早い時間に帰ってきて、アキラを自室へ呼んだのは。
碁でも久しぶりに打ってくれるのかと、アキラは考えていた。
「お呼びですか、お父さん」
ドアを軽くノックしてから、父親の部屋に入る。父親と会うのは一体何ヶ月ぶりのことだろう。卒の無い身のこなしで行洋の前に座す。黒い本革張りのソファーだ。黒とダークブラウンで統一された室内には、派手な装飾などは一切無い。行洋らしい落ち着いた趣の部屋だった。
「お久しぶりですね」
「うむ」
とても親子の会話とは思えない会話を普通にし始める、でもそれが不自然だと思わないことこそがこの親子の不幸な所なのかも知れない。
碁を打つのかと思っていたが、行洋は難しい顔をして腕を組んでいる。
何か、厭な予感がした。
「…何か、大事なお話でもあるのですか?」
いつまでも口を開こうとしない行洋に、アキラは痺れを切らして自ら尋ねた。やがて行洋はため息をひとつ吐き出すと、言った。
「アキラ、おまえは親のわたしが言うのもなんだが、常に冷静で頭も切れる、自慢の息子だと思っている」
「…ありがとうございます…」
行洋が遠まわしに何が言いたいのか、ぼんやりと見えてきた気がした。
手のひらが汗ばんでいる。
「…友達が出来たそうだな」
-やっぱり!-
予感は的中といったところか、アキラは何を言われるのかと胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「…はい…それが…何か…」
自然と口篭ってしまうのは、仕方ないかも知れない。最近、家庭教師の来る時間までに帰ったためしがないのだ。たぶんその辺から情報が漏れたのだろう。
「いや、わたしは怒っているのではないよ。むしろ、おまえに友達が出来たことを喜ばしく思っていたのだ」
その言葉を聞いて、アキラは一瞬ほっとした。だが、行洋の言葉にはまだ続きがあった。
「だが、あの子はやめなさい」
「何故です!」
思わず拳を握り締めて立ち上がっていた。
「調べたんですか? まさかヒカルが…彼の家が母子家庭だからだめだとでも? 家柄で友人を選べとでも? お父さんはそんな風に偏見で人を見るのですか!」
怒りのために身体を震わせている息子を目の当たりにして、行洋は驚きを禁じえなかった。
今まで口答えひとつしたことの無い子供だった。落ち着いた物腰で、いつも周りに気を使って、自分の感情を露わにしたところなど見たことも無い。
その息子が初めて見せた反抗だった。強い決意が瞳の奥に宿っている。
「…そんなに彼が大切か?」
「はい!」
間髪入れずに返ってきた返事に、行洋は眉間に皺を寄せた。
「わたしは別に偏見でおまえ達の付き合いを反対しているわけでは無いのだ」
「では、何故です?」
「ヒカル君は…彼の父親は…殺人罪で有罪になっている」
「なっ!!」
アキラは絶句した。
ヒカルの笑顔が脳裏を過ぎる。
「碁はさ、死んだ父さんが教えてくれたんだ。父さんの夢だったんだって、プロになるの。だから、俺が変わりにがんばってんだ」
そう言って、遠くを見た。
彼の父親がどうして死んだのかなんて聞いたことも無かったけれど、そう話す時の彼の瞳はいつも寂しげで、触れてはならないもののような気がして、いつも黙って傍にいた。
彼の気持ちを思って、アキラは涙が出そうになった。
そして目の前の行洋は、自分の保身だけを考えているのだと、その時、気がついた。
殺人犯の息子と、自分の息子が仲良くしているなどと知れるとまずいと思っているのだろう。もしかすると、議員としては命取りにもなりかねない醜聞になる可能性があると考えているのだ。
アキラは唇を噛んだ。
アキラにとって、ヒカルはもはや決して無くせない人なのだ。
何を犠牲にしても…。
「…お父さん、ぼくは…ヒカルと友達をやめるつもりはありません…」
「アキラ!」
「でも、お父さんに迷惑はかけません! 会う回数も減らします! 人目につかないようにしろと言うなら、そのようにします! だからお願いします! ぼくから彼を取り上げないで!」
アキラは行洋に向かって頭を下げた。
「アキラ…」
「もし、それでもだめだと仰るなら…ぼくは…家を出ます」
顔を上げたアキラの瞳を見て、それが本気なのだと行洋は悟った。今まで見たこともないような精悍な眼差し。
行洋は自分の負けを認めざるを得なかった。



力碁でねじ伏せられた気分だった。
まさか、自分の息子に噛み付かれるなどと、思いもしなかったのだ。
アキラは退室するとき、丁寧な口調ながらも、くれぐれもヒカルには何も手を出すなと念を押すのを忘れなかった。
我が息子ながら、末恐ろしいと思わずにはいられない。自分の跡を継ぐものとして、十分な素質だろう。それだけに、余計ヒカルの存在は邪魔なものでしかなかった。
「さて…どうするか…」
ブランデーの入ったグラスを手のひらで温めながら、行洋は一人宙を睨んだ。





あれ以来、行洋は何も言って来ない。
自分の想いを判ってくれたのだと、アキラは内心感謝していた。
18歳を迎えたその時までの数年を、二人はそれなりに幸せで充実した日々を送っていた。そしてこれからもずっと、変わらずに過ごして行けるとアキラは信じていた。信じて疑わなかった。
けれどそれは突然に、やってきたのだった。



「どうしたんだ?急に呼び出すなんて?」
珍しく、夜にヒカルから電話が掛かってきて呼び出された。
2月の最後の日、名残の雪が舞う寒い夜だった。
アキラが待ち合わせ場所に行くと、ヒカルはすでに公園のベンチに腰掛けて、ぼんやりと降りしきる雪を見上げていた。いつからそこにそうしていたのか、彼の髪は随分と濡れ、うっすらと雪が積もっている。
アキラが声をかけても、彼は気づかずにまだぼんやりしている。
「ヒカル?」
アキラに肩を叩かれて、ようやくヒカルは我に返ったようだった。
「…アキラ…」
「どうした?一体いつからここにいたんだ?髪がびっしょりだよ」
「えっ?あっ!ほんとだ!」

本当に今気が付いたのだろう、頭の雪を払うと、急に寒そうにダウンジャケットの中に首をすくめる。そんなヒカルに苦笑を洩らしながら、アキラは自分のマフラーを彼の首に巻いてやった。
「風邪ひくだろう?」
「サンキュ…」
バツが悪そうに、ヒカルはマフラーの中に顔を埋める。そして、また黙ってしまった。
仕方がないのでアキラもヒカルの隣に腰を下ろして、彼が話し出すのを待った。
何故、雪が降るとこんなにも静かに感じるのだろう。闇に降り積む雪はまるで神聖なもののように、白く世界を生まれ変わらせてゆく。手のひらで受けると、すぐに融けて消えてしまうこの儚い存在が、すべてを覆ってゆくのだ。
不思議に厳かな気持ちで雪を見つめていると、不意にヒカルが口を開いた。子供の頃から比べると少し低くなったけれど、相変わらず舌足らずな声。
「雪って、綺麗だよな。俺、結構好きだったんだ」
隣を見ると、ヒカルが顔を上げて、また雪を見ていた。
ふと、アキラの頭の中に疑問が湧いた。なぜ過去形なのかと。
「ヒカル?」
「俺、おまえに、お別れを言いに来たんだ」
「何かと思えば、つまらない冗談…」
アキラが笑い飛ばそうとした時、ヒカルがゆっくりとアキラの方を向いた。濡れたような光がその瞳には宿っている。真っ直ぐで、逸らすこともできないほどに真剣な眼差し。
ヒカルのその顔を見て、アキラは今まで考えもしなかった事柄に思い当たった。
自分に徴兵免除の通知が来た時、アキラはヒカルと二人で喜び合ったが、ヒカルからその話題が出ることはついに無かった。
「まさか…」
アキラは自分の表情が凍りつくのを感じた。寒さのせいではなく、身体が震え出す。
ヒカルは頷くと、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。初めて会ったときのように。
「ごめんな、おまえにだけは…なかなか言い出せなくて…」
「…じゃあ…もっと前から判っていたのか?」
ヒカルはまた頷く。
「いつ…出立なんだ?」
「………明日」
「なっ!!!」
アキラは思わずヒカルの胸倉を掴んでいた。
「ずっと?こんなにぎりぎりなるまでずっと? ぼくにだけ黙ってたって言うのか?!」
「…ごめん…」
「ぼくから離れて…行ってしまうのか…?」
「…ごめん…」
「…ぼくを…一人にして…?」
「…ごめん…」
「…そんなの…許さない…」
「…ごめん…」
ヒカルが悪いわけでは無いのに、ヒカルは謝り続け、アキラは俯いたきり、そのあと一度も顔を上げることは無かった。
雪は静かに降り続いていた。
けれどアキラはそれを美しいとは、二度と思わなかった。




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14/12/17再UP
-竹流-


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