君に伝えたい言葉 Ⅲ
その夜、アキラは家に帰るなり、パソコンを立ち上げていた。
そして、政府の徴兵令の今年度の基準を記した文書を検索した。
今までの基準のままなら、ヒカルが徴兵対象になるなんてありえなかった。何か違う条例が追加されたとしか考えられない。
画面を食い入るように見つめるアキラの目は真剣そのもので、殺気さえ感じさせるほどだ。
明かりを点けられていない部屋はほの暗く、パソコンの青白い光にアキラの影だけが揺れている。カタカタとキーボードを叩く音ががらんと広い部屋に響いた。
アキラらしいといえば、アキラらしい部屋だった。
白一色の壁、明るいブラウンのフローリングの室内には、ムクの木でできた大きなライティングデスクとその上のパソコン、隣にある棋譜の類の本が詰まった棚とセミダブルサイズのベッド、そして大事に使い込まれているのが一目でわかる碁盤があるだけの簡素な部屋だ。 几帳面なアキラらしく、綺麗に片付けられている。
しばらくすると、なぜかパソコンの前に座っているアキラの様子がおかしくなり始めた。白い電子光に照らし出されている彼の顔色は見る間に青ざめ、焦点の合わない瞳は大きく見開かれ、わなわなと身体を震わせながら立ち上がったかと思うと、いきなり力任せに机の上にあったそれを床の上に叩き落とした。
ガシャ-ンと派手な音を立て、青白い火花が宙に散る。
急に暗くなった室内に微かな煙の匂いが漂った。
最近新しく追加された条例、それは近しい身内の中に、殺人を犯した人間がいる者は徴兵の義務を負う、というものだった。
ヒカルはこれに該当していたのだ。
確かに彼の父親は、酒の上のトラブルに巻き込まれ、誤って相手を刺して死なせてはいた。
そして殺人罪で有罪判決を受けている。
だがこの判決が、酷く真実を歪めた不当なものであったと、アキラは確信している。
どうしても行洋の言葉を信じられなくて、アキラはヒカルには内緒で調べていた。不本意ではあったけれど、議員の息子という立場をフルに利用して。そして行洋の言ったことが真実であったことを確認してしまった。しかしそれと同時に、この事件の不自然さにも気づいたのだ。
そもそも、この事件の凶器にもなった刃物は、刺された本人が持ち出したことがわかっている。初め、男は別の人物と揉めていたという事も分かっている。それを止めようとしたのが、ヒカルの父親だったのだ。誤って刺したのが分かっているというのに殺人罪で起訴、そして有罪などと、普通有り得ないことだろう。
本来ならば正当防衛か、悪くとも過失致死といったところが妥当な線だ。それも間違い無く刺した、という前提でのこと。ヒカルの父親は最後まで無罪を主張し続けたらしい。だが裁判では、重要な証人であるはずのもう一人いた人物のことは、まるで無かったかのような扱いになっており、しかも殺された男は、当時のある大物議員の秘書をしていた男なのだ。
そこまで調べて、アキラは厭になった。
この事件が、何者かの意図にによって操作されていたことは、もはや明白だった。
この世界は、どこかが間違っている、そう強く思った。
殺人罪以上の罪人も兵士として強制的に戦場へ送られる、それも最前線へ。
ヒカルの父親は人生を悲観して、獄中で自殺していた。
アキラは自分でも気づかない内に涙を零していた。
どうして彼は、あんな風に笑っていられるのだろう。柔らかく、明るい瞳で。
きっと、アキラが想像するよりもずっとつらい思いをしてきた筈だ。囲碁の大会に出なかったのも、きっとこれが原因なのだろう。けれどアキラは、ヒカルの口から一度でも父親を悪く言う言葉を聞いたことが無い。
彼は言うのだ、
碁を教えてくれたのは父親だと、尊敬しているのだと。
純粋で穢れを知らない輝きが、その瞳の中で煌めいていた。疑うと言うことを知らないのでは? と思えるほどに、それは美しく澄きっていたのだ。
-誰よりも、強く穢れなく、美しい…ひと…-
この時から、アキラの中でヒカルの存在が、また一つ特別になっていた。
自分でも気付かないうちに…
その彼が戦場へ送られてしまう。
殺人ヲ犯シタ者ノ直系ノ子弟ハ徴兵ノ義務ヲ負ウ
一部の議員の発案により採決にかけられ、賛成多数により採択に到る。
一部の議員、おそらくその原因を作ったのは…
アキラには容易に想像が付いた。
この世界は、どこか、間違っている…
自嘲気味な笑みを口元に浮かべながら、そのくせ今にも泣き出しそうな顔をして、アキラは天井を仰いだ。
胸を掻き毟って叫びだしたい衝動に駆られつつも、そのすべてをじっと耐えるように身体を震わせて、暗闇の中に彼は佇んでいた。固く握り締めた指の間から鮮血が滴り落ちて、静まり返った部屋の中に床を叩く雫の音だけが、ポタリポタリと響き渡る。
-ぼくと出会ってさえいなければ、ヒカルはこんなことにはならなかったのに!-
自責の念や後悔や怒り、そういった負の感情に流され取り込まれ、まるで出口の無い暗い迷路に迷い込んだような気がした。
どのくらいの時間、そうしていたのだろう。
ようやく彼が顔を窓に向けた頃には、外の世界は夜明け前の青に支配されていた。何処からともなく鳥の囀りが聞こえる。アキラは夕べの重苦しかった空気を払拭しようとでもするように、大きく窓を開け放つと深く息を吸い込んだ。朝の冷たい空気で肺を満たすと、自分の中の不浄が洗い流され、体中の細胞が目覚めてゆく気がした。
窓の外は一色に染め上げられ、まだ誰も踏んだことの無いまっさらな雪が庭を覆い尽くしている。まだ明けきらぬ暗い空の下、白いはずの雪は青く光っているかのように見えた。
アキラは目を閉じると、そのまま静かに夜明けを待った。
吐く息は外の空気に触れた途端、白く凍って辺りに霧散して行く。凍てつく外気に晒されながら、上着も着けずにアキラはただ立ち尽くす。
今まで自分は何も知らずに、温かい部屋の中でぬくぬくと生きていたと、痛いほど感じていた。
議員の息子であるという事に、どれだけ守られていたのだろう。そんな自分が、一体何を守るつもりでいたのだろう。
彼だけは守りたい、そう思っていた。けれど自分は何一つ分かっていない子供だったのだ。
こうなってしまったのも、自分のせいなのだということだけは理解したつもりだ。
-ぼくと出会ってさえいなければ、ヒカルはこんなことにはならなかった-
それは確かに間違いの無い事実。
なのに、…でも…と思ってしまう自分がいる。
それはたぶん、自分の我侭なのだろう。けれどただひとつの、これだけは何があろうと決して譲ることのできない真実だと、アキラは確信していた。
-ぼくたちは、出会わなくては、ならなかったんだ-
東から徐々に明るくなって行く空の色に合わせるように世界はまた色付き始め、再び生まれ変わってゆく。そこには闇に覆われていた時の翳りなど、微塵もありはしない。ただ光を得た喜びだけが、純粋に輝いている。
光という希望。
生きているからこそ、感じられる喜び。
瞼に明るさを感じて、アキラはゆっくりと目を開けた。
そこには朝の光を浴びて、銀色に輝いている一面の雪。
まるで憑き物が落ちたような、清々しい顔をしてアキラはそれを眺めた。
-ぼくにもまだできる事がある!-
固い決意を秘めた瞳で、空を見上げた。
昨日の雪が嘘のように、雲一つ無い、深い青を湛えた空が広がっている。
一組の番いの鳥が、白い翼を朝日に煌めかせながら横切ってゆく。
それは、今ある生を精一杯生きようとする姿だと、アキラには感じた。
囀りが天高く響き渡る。
ヒカルが旅立つ朝が明けたのだった。
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14/12/17再UP
-竹流-
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