君に伝えたい言葉 Ⅳ




「はあ、あとどのくらいあるんだ?」
ヒカルが息を吐きながら、聞いてきた。本部までの距離のことだ。随分歩いて来たのだが、先はまだ長そうだ。二人は少し休憩していた。
「迷ってなければ、あと5、60キロくらいじゃないかな?」
「ええ~!そんなにあんのかよ!」
「もう、疲れたのか?」
言いながら、アキラは汗で額に張り付いた前髪を掻き揚げた。形のいい額が露わになる。
いつの間にか、大きな月が雲間から顔を出していた。
木々の間から零れ落ちる青い光に照らされて、二人の姿が闇の中に浮かび上がっている。
不意にヒカルがフフッと笑いを洩らした。
「…余裕だな、君は」
アキラが呆れたように言うと、ヒカルは笑みを浮かべたままアキラを見た。
「おまえがさ、俺を追って訓練所まで来た時のことを思い出してさ」
「…べ、別に君を追ってなど…」
そう言いながら視線を逸らしたアキラの顔は、月明かりの中でも分かるほどに紅く染まっている。そんなアキラを見ながら、ヒカルの瞳は悲しげな色を帯びていた。
自分のせいで、アキラをこんな所にまで連れて来てしまった。その思いはずっと胸の奥に、澱のようにわだかまっている。
-自分のことなど忘れて、幸せになって欲しかったのに-
たぶん、一生口にはしないだろうその一言を飲み込んだまま、ヒカルはあの日のことを思い出していた。


徴兵で集められたにわか兵士達は、自国内で1年間兵隊としての訓練を積み、その後戦場へ送られる。そこでも少しの間訓練が行われ、それから各々の部隊に配属されて行く。
国内の訓練所は各地に散っているが、ヒカルが徴兵されてから1週間も経たない内にアキラはヒカルの居る訓練所にやって来たのだった。
ヒカルは自分が何処へ行くのか、アキラには一言も言った覚えは無い。
-あいつ、やりやがったな-
アキラを見たときに、真っ先に思ったことだった。
議員の息子であるというだけで優遇されたりすることを極端に嫌っているくせに、いざとなると、その立場を最大限活用してみせたりする図太さをアキラは持ちあわせていた。そして、怖いくらいの策略を平気で巡らせてみせたりする。
正直なところ、何故自分の為にここまでするのか、ヒカルには不思議に思えた。アキラの自分に対する執着は知っていたつもりだ。けれど、ここまでとは思ってもみなかった。
アキラは志願兵としてヒカルの元へやって来たのだ。
一緒に戦場に行くために、せっかくの徴兵免除を棒に振って…。



二人きりになったのを見計らって、ヒカルはアキラに詰め寄っていた。
「おまえ、分かってんの?行ったら帰って来れないんだよ?死ぬんだよ?なんでこんな…」
ヒカルの言葉はアキラに抱き締められて、遮られた。
驚いて、一瞬声が出ない。
アキラの腕は思ったより力強くて、温かだった。
なぜか、涙が零れそうになる。
「大丈夫だよ、ヒカル、一緒に生きて、戻って来よう」
「アキラ…」
「ぼくが君を守るから」
「バ…バカ!そう言う台詞は彼女にでも言え!!!」
赤くなって突き飛ばすと、クスクスと可笑しそうに笑う。まったくこいつには敵わない。
初めて会ったときからずっと…ずっと…

-どうして、俺なんかに、構うの…?-

望む未来も夢もすべて手に入る立場の人間であるアキラが、そのすべてを犠牲にしてまで自分に入れ込むことが、今もずっとヒカルには理解できない。

-どうして?-

ふと、自分を見つめるヒカルの瞳が、所在なげに揺れていることにアキラは気づいた。
「どうした?」
アキラの言葉に意を決したようにヒカルは口を開いた。
なぜか、今、聞いておかないと、二度とは聞けないような気がしたのだ。
「…なあ、俺、前から聞きたかったんだけどさ、おまえ…」
けれど、それ以上の言葉は続かなかった。
突然、ヒカルはアキラを突き飛ばしたのだ。驚く暇もなく、次の瞬間、銃声が静かだった空間に響き、ヒカルの体が地面に倒れてゆくのをアキラは見た。まるでコマ送りのスローモーションを見ているような気がした。それは現実感の無い、虚構の世界。
アキラはヒカルが倒れるのと同時に、腰に下げたピストルを銃声のした方角に向けて、引き金を引いていた。引き続けていた。震える指で、無我夢中に…。

気がつくと、カチカチと無機質な乾いた音だけが響き、弾はすでに切れていた。アキラの弾が当たったのか、それとも弾が無くなったのか、相手の応戦も今は無い。だがここでじっとしている訳にはいかなかった。
ヒカルを抱き起こすと、抱えるようにしながらアキラは移動を始めた。銃声を聞きつけて、奴らの仲間が集まって来るのは時間の問題だろう。少しでも早く、離れた場所に移動しなければならない。
どこか現実感を喪失したまま、アキラはてきぱきと動いていた。
ヒカルの身体は重く、怪我をしていることは明白だったが、今のアキラにはそこまで気を回している余裕は無かった。いや、信じたく無かったのかもしれない。ヒカルが銃に撃たれた、などと。
ヒカルはまるで引きずられるように、それでも懸命に歩こうとしていた。
けれど、すぐに限界は来た。

「…アキラ…俺…もう、歩け…ない」
「もう少しがんばって」
「…ごめ…」
ヒカルの体はその場に崩折れるように倒れこみ、動けなくなった。近くにあった大きな樹の影にヒカルを移動させた時に、アキラはようやく気がついた。
「…血が…」
ヒカルの戦闘服の脇腹は黒々とした液体でぐっしょりと濡れ、それはすでにぼたぼたと滴っている。半端な出血の量ではなかった。
血の気が引くように、急速に現実が目の前に戻ってくる。
「今、止血するから!」
そう言って自分の服を破ろうとするアキラを、ヒカルは止めた。
「…もう…いいんだよ…」
一瞬、アキラの身体が硬直したように固まった。
「…何言って…」
月明かりにヒカルの顔が照らし出されていた。
その顔は、穏やかに微笑んでいる。
「…良かった…おまえが…無事で…」
「なに…何を言ってるんだ…大丈夫、大丈夫だよ! もうすぐ誰かが助けに来る! いや! ぼくが助けてみせるから!」
「そう…だな」
フフ…と、ヒカルは力無く笑った。澄んだ輝きが瞳の奥で揺れている。透き通ったその美しさは、まるでガラス細工のような儚さを思わせた。
「ヒカル…」
その存在を確かめるように、アキラがその頬に手を伸ばそうとした時、樹にもたれ掛かっていたヒカルの身体がグラリと傾いだ。
「ヒカル!」
咄嗟に自分の腕の中にアキラはヒカルを抱き込んでいた。
「だめだよ…アキラ…そんなに…大きな…声…出すな…」
荒い息を吐きながら、ヒカルはアキラをたしなめる。
「…奴らに…気づかれる…ダメだ…よ…おまえだけ…でも…生きなくちゃ…」
「そんなこと言うな…一緒に帰るんだ、二人で…」
アキラは涙が出そうになるのを懸命にこらえた。
「ほんとなら…ぼくが撃たれていたはずなのに…」
アキラの身体は微かに震えていた。ヒカルにもそれは伝わっていたのだろう。
「なあ、アキラ…俺…嬉しいんだよ…俺なんかでも…おまえの…役に立てて…」
「何を言って…」
「だって…俺…おまえに…助けてもらって…ばかりで…」
「…それは違うよ…」
「…ほんとならおまえ…こんなとこ…来る必要なんて…無かったのに…俺の為…に…付いて来た…だろ…?」
「…それは…」
「補給…部隊なんて…ましな…とこに…入れた…のも…おまえの…おかげだろ…?」
「………」
ヒカルの言葉に、アキラは少なからずショックを受けていた。
ヒカルはずっと自分に負い目を感じていたのだろうか?ぼくを巻き込んだと?だから、代わりに撃たれたとでもいうのだろうか?
「…ぼくの…せい?…ぼくが勝手にしていたことを、君は負い目に感じていたのか? …だから、庇ったのか? …違うのに! 全部ぼくのせいなのに! 本当なら君は徴兵免除になっていたはずなんだ! 父があんなことさえしなければ! …君は…本当は……全部…ぼくのせいなんだよ…ヒカル…」
ついに…言ってしまった、そう思った。
今までずっと言えずにいたことを、いや、言わないままにしておきたかったことを…。
アキラはヒカルの顔が見られなかった。ぎゅっと目を瞑ってヒカルの言葉を待つ。それはまるで死刑の宣告を待つ気分だった。
その時、ふっと温かい指の感触が頬に触れ、そしてそれはゆっくりと移動してアキラの髪に絡まる。アキラはそっと目を開けた。
ヒカルの瞳が真っ直ぐにアキラを見つめていた。すべてを包み込む柔らかさで、微笑を浮かべている。
何も言わなくても、それで十分だった。

ただ、身体が動いたのだと。
ただ、アキラを想って。
ただ、それだけ…

「…ヒカル…」
「…おまえは…生きて…おれの…分も…」
ヒカルの手が力尽きたように、滑り落ちる。咄嗟にその手を掴んだ。
「だめだ! だめだ! そんなこと言うな!」
ヒカルの琥珀の瞳から少しずつ光が失われて行くのを感じた。
「いやだ!ヒカル!」
アキラはヒカルを強く抱き締めた。何処にも行かせまいとするかのように。すべてを腕の中に閉じ込めようとするように。
そんなアキラの髪がヒカルの顔に掛かった瞬間、ふと、とびかけていたヒカルの意識が戻った。
「…髪…」
「えっ?」
アキラはヒカルの顔を覗き込む。
「…俺…おまえの…髪…サラサラで…すき…だった…な…」
耳を澄まさなければ聞こえないほどの、まるで吐息のような声。
そして最後に、ひとつ大きく息を吐き出して、ヒカルはゆっくりと瞼を閉じた。アキラの手の中から、ヒカルの手が滑り落ちて行く。
「…ヒカル?」
何が起こったのか理解できずに、アキラは腕の中のヒカルを軽く揺すった。
「ヒカル?ヒカル?」
けれどヒカルはぐったりとしたまま、ピクリともしない。
「起きて?ヒカル?」
ヒカルの頬を何度となく叩いてみる。
その度に、ヒカルの頭は力無く揺れた。
「ヒカル…お願いだから…目を開けてくれ!!」
ヒカルの顔に幾つもの雫が降りかかった。
一瞬、雨が降ってきたのかとアキラは思った。けれども次の瞬間、自分の視界がぼやけ始めて、ようやく自分が泣いているのだと気がついた。
雫は止まる事無くヒカルの顔を濡らして、その頬を零れ落ちて行く。その様子は、まるでヒカルが泣いているように見えた。
「ヒカル…」
アキラは静かに、そして厳かにヒカルの身体を抱き締め、その柔らかな金色の前髪に顔を埋めた。
「ぼくも…君の髪…好きだよ」
目を閉じればすぐにでも思い浮かべることができる。
まるでヒカルの性格そのままに、太陽の光を受けてキラキラと眩しく輝く金色の髪も、大きくて色素の薄い、常に暖かな光を湛えた瞳も、ころころとよく変わる豊かな表情も。
そして、子供の頃から変わることのない明るい笑顔も。
けれど、もう二度と見ることは、できない。
「アキラ」と、少し舌足らずな声で呼んでくれる事も、もう無い。

-そんなこと…あるわけ無い…こんなに…こんなに温かいのに!-

「うそだ…うそだよね?…これもいつもの冗談だろう?」
ヒカルを抱き締める腕に力が篭もる。
「…うそだって…うそだって言って! ヒカル! 目を開けて! ぼくを見て! ぼくを呼んで! ヒカル…お願いだ…」
最後は嗚咽交じりになっていた。
ヒカルの髪に顔を埋めたまま、初めてアキラは声を上げて泣いた。

その声は、静かな闇の中に悲しげな余韻を伴って、いつまでもいつまでも聞こえていた。




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14/12/17再UP
-竹流-


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